夏休み中の本園と若き恋人たち

第30話 週末金曜日・昼下がりの園長室

 7月25日の午後。司法試験の論文試験をすでに終えて完全な夏季休暇に入っている岡山大学法文学部法学科3回生の大宮哲郎青年が、森川一郎園長の電話の呼出を受けてよつ葉園にやって来た。彼はまず受付で挨拶し、小畑書記によって森川園長在室中の園長に招かれた。


「失礼します。大宮です」

「おお、すまんな哲郎。この暑いさなか」

「暑いのはなぜか、夏だから。ですから、こんなものでしょう」

「いつも思うが、素うどん顔負けの身もふたもない小問答じゃのう(苦笑)」

 窓は開け放たれ、小型の扇風機が涼をとらせている。程なく先ほどの小畑書記が冷えた麦茶のグラスを2人分持参して、提供した。


「さて、哲郎。世にもつまらん相談ばかりして済まんが、あの件についてじゃ。これも貴君が将来社会人としてやっていく上での糧と思って、どうかお付合い願う」

「わかりました。唐橋さんの件ですね」

「そうじゃ、まずは。今日あの夫妻はそれぞれ仕事で、唐橋君は今児童相談所に用事があって行かせておる。県庁なんかも行かねばならんから、帰ってくるのは5時前になろう。今は小畑さんとあとは保母らしか、このよつ葉園におらん。こういうことを相談する相手がうちにはおらんから、まあ、飯と酒と珈琲程度で相談に乗らせて申し訳ないとはかねて思っておる」

「そんなことはいいよ。それより唐橋さんの件は、今どうなっている?」

 まず事実関係の共有へ。半袖で白のカッターシャツの青年に、老園長が答える。

「今週月曜の夕方に成瀬さんと一緒に岡山市役所に駆け込んで婚姻届を提出した。特に不備はなかったそうじゃ。その後火曜日はお二人とも休み。水曜日は唐橋君と成瀬さんで添乗員をしてもらい、第2班の行きと第1班の帰りに同行して頂いた。昨日はまた休みで、今日はお二人とも仕事じゃ」

「明日はどうされるの? まさか、第2班の帰りもやってもらうことにした?」

「それには及ばん。山上さんがおられるからな。第3班は次の日曜日から、第4班は水曜日からで、また同じようにやってもらう。磯貝君は第2班までで、第3班と第4班は窓ガラスの本田陽子さんが行ってくださる。下川の本屋さんはそれほど忙しくないし、窓ガラスさんのほうは清美に任せておけばええから」

「陽子さんは家庭科専攻だから、小学生や中学生くらいの子らは問題なく対応できるでしょう。これも彼女には、いい経験になるだろうね」


 さあ、問題はここから。こちらは若い人たちだけに、一歩間違うと問題が大きくなりかねない。

「そうじゃ。幼児らと同行してもらおうとも思ったが、今ちょっと忙しいから無理と言われた。それで磯貝君に同行してもらった。第1班は男女小学生が中心だったが、第2班はいかんせん幼児じゃ。女子職員を本当は入れたかったが、女ばかりというのも問題があるから、彼のほうがよかったかもしれん。もっとも、日中保育担当の太田クンを同行させたのは、やはりまずかったかのう?」

 かねて太田保母と磯貝青年が交際していると聞き及んでいる森川園長だが、できればそこばかりは避けたかったというのが本音。しかし本田陽子嬢の日程が合わないことと男性の付添者を入れておきたいこととが重なり、今年はまた磯貝青年をこの班の付添にあてた次第。

「いや、そこは節度を守りさえしてくれれば問題ないよ。あのお二人は高校生の時に出会ったらしいけど、再会というのがまさに去年でしかもこの行事じゃないか。小さい子らはそう覚えていないかもしれないからともかく、去年同じ班に入れた子を一人も入れてないから、いきなり中学生の子らにばれるリスクは、低いかと」

「確かに哲郎はそう述べておったな。わしも、それを聞いて踏ん切りがついたこともある。じゃがなぁ、彼らは昨年以上にお互いを知って仲良くなっておろうがな。いくらあの4人と磯貝君が初対面だとしても、太田さんとの距離感を見ておったらどうなるかと思ってな。まあ、行き過ぎることは山上さんや××院の住職さんらもおられることではあるし、何より仏様の前じゃ、あの二人がひと夏の大暴走などと相成ることはあるまいと思いたいが、わしは、気が気じゃねえのよ」

「それはわかるけどおじさん、もうあと1日だよ、泣いても笑っても」

「そんなことはわかっとる。けど、気になるものはなるものじゃ(苦笑)」

 そう言って森川園長は目の前の麦茶をすすった。

「それから、来週の3と4(班)、男性の同行者はつけないの?」

「一応付けた。本田の陽子さんが大学で知合った院生のおにいさんじゃ。哲郎君も御存知の方よ。文学科の内山定義君、な。彼は院生であるが、研究者を目指して大学院で頑張っておる。何でも、子ども相手の奉仕活動に関心があるからのう」

「内山さんね。あの人なら問題を起こしたりしないだろうし、まさか本田さんとお付合いしているなんてことはなかろう」

「もし、その二人も交際していたとしたら?」

「それはもういい大人同士であるから、節度さえ保たれていれば問題ないでしょ。本来なら唐橋さんと成瀬さんだっていい年の大人だからね。こちらがいらん心配をしたりするほどのものでもないよ、そもそも論で」

「ただ、いかんせんうちの子らぁじゃからな。そういう話、嫌いでないときておろうがなぁ、男も女も。まあどいつもこいつも、男女がくっついたの離れたの、けだもののつがいがどうたらこうたら水準の話も一興ではあるが、あまりに下世話も過ぎるというものじゃ。もう少しましな内容の話ができるだけの教養を身に着ける教育を施さんといかん。そう思って、わしもいろいろ創意工夫しておるがな」

「それで、孟子の「大学」の講義をされているわけだね。去年が確か論語」

「そういうことじゃ。哲郎はかねて天下のA高校でそのくらい学んでおるし、もともとその手の本もしっかりお読みであるから問題などない。まあ、論語読みの論語知らずなどとは申さぬが、百歩譲ってもらって貴君がそういう人物であったとしても、読んでおるだけマシというものである。まずは読んで知ってこその物種。しかもあの子らのほとんどが中学を出て仕事に就くからな。高等学校と言っても実業系ならそういう教養に触れる機会は相対的に少なくなろうが。岡山の清美サンを見ておれば、それは明らかではないかな」

「それはおっしゃる通りです。彼女は頭もよく実践もする子だからそんな心配するほどのこともないけど、彼女に限らず、そういう学びは確かに大事だからね」

 大宮青年と森川園長は、残りの麦茶を飲み干した。

「とりあえず、決定打となる何かが発生したり発覚したりしない限り、何とでもなるでしょ。こんな話、そうでも思っていないとやっていけないよ。見え過ぎると興冷めでもあるし、何より、余計な神経を使わなきゃいけないからね」

 大宮青年のその一言に、森川園長は黙って頷いた。


「それでは、ちょっと窓ガラスにでも行って珈琲でも飲んで参ろう」

「わかりました。では、お供します」

「すまんな、頼むわ」

 森川園長と大宮青年は、事務室横の正門から近くの喫茶店へと向かった。14時30分前。昼食時は終っている。今なら店内が混んでいることもない。

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