第29話 泡般若(あわはんにゃ)の御利益

 この日の夕食の準備は17時過ぎから始まった。

 そして17時30分には、みんな集まっての夕食。一汁三菜程度のしっかりした献立が組まれている。野菜あり、ちょっとした肉料理あり。それにみそ汁と白飯。

 上手く炊かれているから、美味い。

 夕食自体は、食休めと片づけを含めて1時間程度で終わった。その後は、離れにある風呂に入る。来客用にある程度の人間が一度に入れる風呂である。子どもたちと女性職員らくらいの人数は一度に入れるから問題ない。

 風呂の準備は浅野青年と磯貝青年が若いお坊さんたちとともにしてくれていて、彼らは既に先に湯加減の確認も兼ねて入浴を済ませている。幼い子らを先に入らせて何かあったら一大事である。


 一方、こちらは入浴中の女子児童と若い保母の様子。

「センセー、今日は磯貝さんとお風呂入らんの?」

 女子中学生のひとりが太田保母にそれとなく聞く。さすがにそんなことを聞こえよがしに言おうものなら問題が起きるから、そこは幼い子らに聞かれないような声で、気付かれないように。しかしなんで、彼女はこんなこと聞くのだろう。

「馬鹿なこと言わんの。私、磯貝君と別に付合っているわけじゃないし」

 少し声が大きくなりかけるが、これもバレては問題だ。太田保母の顔がいささか赤くなっている。風呂の蒸気のおかげだと思いたいが、どうやら、目の前の女子中学生の疑問が図星だったからかもしれない。

 まあでも、今なら先ほどの言い訳が無理筋というほどの状況ではない。

「でも、今日海水浴場で結構仲よーお話ししとったろ」

「そりゃあ、仕事じゃから。わざわざ喧嘩するみたいに話すことなかろうがな」

 そんなことを言いつつ、彼女らは子どもたちを入浴させつつ、自分たちもそれに合わせて入浴した。打合せがあるので、山上保母はあとで入るとのこと。

「そりゃそうじゃけど、なんかセンセー、磯貝さんもそうじゃけど、二人とも顔が活き活きしとったよ。そういえば昨日の唐橋先生と下電のおねえさんもあんな感じだった気がするけど、気のせいかなぁ?」

「さあね。あの人たちは仕事でよく会うそうだから、そりゃあ親しいじゃろう、仕事の関係者としては。でも、それだからってお付合いしているとは限らんよ」

「唐橋先生とおねえさん、今日の磯貝さんと太田先生以上に仲良さそうに見えたけどなぁ~。大体、一緒におることがようあったろう」

 そうこう言っているうちに、小さな子どもたちを風呂から出す頃合いが来た。ここでこの話は中止。ただし、いつ再開するやらわからないことは言うまでもない。

 幼い子らを風呂から出し、女子中学生たちと若い保母はまずは子どもたちを風呂場から出して、自らも服を着て離れの今に戻った。

 このあとは、これまでいろいろ残務処理をしていた山上保母が一人で入浴する。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


 風呂から上がって子どもたちの世話をしつつ湯上りを楽しんでいる保母の前に、浅野青年がやって来た。

「太田先生、本堂のほうにお越しください。住職さんがお呼びです。あ、先生の私物もお持ちで来るように、とのことです」

 それを聞いていた4人の女子中学生たちは誰もが平静を装っているものの、何かがあるなという勘が働いていた。だが、幼い子らがいる前でそんな話も出来まい。山上先生はまだ入浴中。彼女たちが幼児らの面倒を見ていないといけない。

「わかりました」

 彼女はそう言って、私物を持って本堂に向った。

「それじゃあ、山上先生がお風呂から出てこられるまで、小さい子らを頼むね」

 浅野青年もまた、太田保母の後を追うように本堂に戻っていった。彼は料理の仕事で来ているので、この日はもう帰らないといけない。もっとも彼は親族の家が児島市内にあるので、このところそちらに泊っている。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


「太田先生、ようこそいらした。今日はお疲れさまでした。どうぞこちらへ」

 住職に勧められるままに、彼女は空いている場所に座った。隣には、彼女の良く知る若者が胡坐をかいて座っている。机の上には、何とビールの大瓶が何本か置かれている。その他に、日本酒の一升瓶が2本。どちらも清酒。銘柄を見るに、地元岡山の酒のようである。

「いや暑いですな。もう1本参りましょう」

 今度は副住職自ら近くの冷蔵庫に行き、ビールの大瓶を2本持ってきた。

「太田さん、あなた、お酒は飲めますかな?」

「ええ、少しは」

 磯貝青年は高校の頃からしばしば飲んでいて飲めるクチだが、太田保母はあまり酒を飲まない。ビールならグラス3杯程度、日本酒ならコップ2杯程度なら飲めなくはないという程度。

 住職自ら目の前の若者たちのグラスに冷えたビールを注ぐ。若いお坊さんたちは自分たちのグラスには残っていた瓶のビールを、副住職と住職にはもう1本の開栓したばかりの冷えたビールを、それぞれのグラスに注いだ。


「それでは、改めてお疲れさまでした。まずは、乾杯」

 住職の音頭によって乾杯した後は酒盛り。目の前にはこの日の夕食のおかずの残りといくつかの肴が並んでいる。

 磯貝青年はすでに何杯かビールを飲んでいるが、顔が赤くなってはいない。もし少しでも赤くなる要素があるとするなら、今しがた隣に来た女性の影響であろう。


「世間ではビールと言いますけどな、我々の世界では「泡般若(あわはんにゃ)」と申しますのや」

 住職が、目の前の若者たちに述べる。住職より少し若い隣の副住職が頷く。

「お嬢さんは無理されんでよろし。でもまあ、若いおにいさんはしっかり飲んでくれて結構である」

 そう言いながら、住職はさらに若者のグラスにビールを注ぐ。若者は、注がれた酒を勢いよく飲んだ。隣にいる女性への照れ隠しでもあるのだろうか。

「よっしゃよっしゃ。ま、無理せず飲みんさい」

 住職がさらに注いでやったビールを、彼は一口だけ飲んでグラスを置いた。

「山上先生は既に了承されていらっしゃるから、今日はこちらでゆっくりされたらよろしい。何々、酒を飲んで危ないからこちらに泊ったとか、言い訳ならいくらでもできようがな。言い訳できんようなことにさえならねばよろしい」

「ところで君たちはお付合いしていると伺っておるが、事実かね?」

 副住職が尋ねる。彼は丸い金属フレームの眼鏡をかけている。白熱灯の光がその白いフレームに反射して二人の目を射抜く。

「はい。ここだけの話ですが、事実です」

 若い男性が答える。

「去年はあんたら、それほどでもなかったようじゃが、今年はなんか、私が拝見する限りであるが、互いの距離がさらに接近しておるように見える。とりあえずこの行事のうちに子どもらや他の職員さんらに交際の事実は発覚しておらんのなら問題はないが、唐橋君らより諸君は何分にも若いだけにな、いささか懸念するところがないではない。大ありとまでは申さぬ。じゃが君ら、固い話はそれまで。ばれたらバレたでそのときであるから、挑発するように付合っていることをこれ見よがしに吹聴したり見せつけたりすることもないが、こそこそ隠すこともない。自然体で、おりなされ」

 住職が彼らに訓戒を与えた。


「泡般若様の御利益じゃ。さあ、もっと飲みなさい」

 今度は副住職が彼らのグラスにビールを注ぎ、自分たちにも注いだ。

「泡般若様もええが、あとは、ほれ、酒もあるからな」

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