第31話 午後の珈琲は喫茶店で
森川園長と大宮青年は、よつ葉園から数分の場所にある喫茶店に向かう。この店の名は窓ガラス。2階建の建物の1階を喫茶店としていて、2階は住居。典型的な街中の商家のつくりである。すでに大学は夏休みに入っており、学生の出入りは少ない。その代わり大学関係者でも教職員や近場にいる会社員らの休憩や商談などのための場所としてこの店は重宝されている。
店に入ると、この店の看板娘である陽子嬢と若い学生風の男性が向い合って何やら話し込んでいる。陽子嬢は店の手伝いをするときの服ではない。それが証拠に今日のウエイトレスは岡山清美嬢である。彼女は現在岡山市立の定時制高校の商業科に通う勤労学生であるが、中学卒業まではよつ葉園の児童であった。
「園長先生、お久しぶりです」
声をかけたのは陽子嬢。向いにいるのが、大学院1回生の内山定義青年。
「森川先生、来週はよろしくお願いいたします」
「内山君、来週は陽子さんと一緒に頼む。あんた、陽子さんとお付合いしているなんてことはなかろうな」
「していませんよ、そんなの」
平静を装っているのか、それとも本当にそうなのか。ちょっと不思議な距離感が周囲に公開される。森川園長は、少しバツを悪くしつつも述べるべきを述べる。
「それならよろしい。来週は頼みますぞ」
「はい。明後日は朝9時に参りますので」
若い男女らから少し離れ、老紳士と法科の学生は向い合せに席を取った。
「ああ清美、すまんがアイス珈琲、2つな」
老紳士が注文を出す。ウエイトレス姿の清美嬢がいつものように注文を受ける。
「さて、哲郎。うちの子らの雰囲気であるが・・・」
「なんか、異物でも入った感じが出たとか?」
週刊誌の男女の話を読むときのちょっとした高揚感を、この大学生は自ら感じずにはいられないようである。そんなことは、亀の甲より年の劫。向い側の老紳士は既に読み切っている。だがそこには触れず、平静そのものの回答を返す。
「そこまでは申さぬ。じゃが、中学生あたりの男子児童がのぅ、妙に男女の交際にまつわる話を部屋の内外でするようになった。貴君からすればそんなのは夏ならではの光景の典型に過ぎぬと見るだけかもしれないが、その対象が、のう・・・」
「対象が、まさか唐橋さんとか、今児島にいる太田さんだっけ、彼女とか?」
「今のところは後者に関しては、まったくと言っていいほど聞かれておらん。保育担当の保母は、あの少年らとはほとんど接点ないからな。磯貝君にしても去年会った子も今年会った子も少なからずおるが、そもそも太田さんと接点のあった子は男にはおらんし、女子は基本卒業しておる。問題は、唐橋君のほうである」
「唐橋先生は、最後の第5班で男子中学生らの引率に行くことになっているよね」
「そう。そこじゃ。ただ、担当保母らからの報告によれば、今年も去年や一昨年みたいにあのおねえさんと仲良さそうじゃったとか、そんな程度らしい。決定的にできたとか、まして結婚したとかいう方向に至っていないのが救いではある」
大宮青年は、この手の話のパターンについては経験則と自らの学びによっておおむね理解しているだけに、総論から各論に持ち込むように思考を巡らせている。
「あることないこと話が上がるのが、この手の話の相場だね。とりあえず、どの話があることかないことか、出てきた個々の話の真偽や当否はさておく。あの場所の特性を考慮に入れるとしても、それで険悪な雰囲気が発生したとか、これまでの人間関係に致命的な亀裂が入るとか、そういうことがない限りはある程度黙っておいた方がいいのではないかと思う。要は、よつ葉園の子らの言いたいことは言わせておく。その上で機を見て対処。これでどうでしょう?」
「現段階では、貴君の述べられた措置が妥当じゃ」
森川園長はそれだけ答え、少し思考を巡らせている。
すでにアイス珈琲はテーブル上に置かれている。老紳士と大学生は揃って入れるべきものをグラスに入れてストローで少しずつすする。口直しに、時々横に添えられている水を飲む。これはただの水道水だが、岡山市の水道の味は今も当時もかなり良いものなので、それだけでも美味いというもの。
「ところで、清美には声かけてないの?」
「それはな、高校に入学してうちを出てからこの方、卒園生としてたまにはこの行事に来て手伝ってくれたらとは思っていたが、あの子にそんな邪魔を入れるのも悪いと思って、今年は初めから声をかけておらん。去年もおととしも声はかけたが、多忙を理由に辞退してきた。まして今年の夏休みは陽子さんが忙しくなる分、彼女はここの仕事に入れるからな。要は種銭の書入時。無理は言えんよ。
あの子にとってはあの行事も、言うなら善意の押し付け、言い換えればその上前を吸い取るようなものに感じられてならんのではないか。ま、そんなことはよろしい。清美が今しっかり働く癖をつけられたら、高校卒業後は至って楽じゃからな」
森川園長が彼女の住込み先の本屋だけでなくこの店での仕事もすることを勧めたのはまさに、そこがポイントだった。さらに中堅の域に進みつつある山上保母と清美嬢の相性は、在園中からお世辞にもいいとは言えなかった。いまさら彼女の指揮系統が絡むもとでの仕事に絡むことを、彼女は露骨でこそないが敬遠している。彼女の関係する周囲の人たちは、その事情をすでにを十分理解している。
「そうじゃ哲郎、あのS高校に通っとる赤沢茂幸君、ちょっとひねくれた駅前の玩具店の息子さんがおろうが、あのクンが面白いことを言っておった」
「へえ。彼はちょっとどころか・・・」
「ひねくれの程度はともあれ、彼が言った言葉というより彼が高校に入学早々に担任の教師から言われた言葉が振るっておるぞ。教師いわく!」
いかにも論語の講座を担当する講師のような物言いに、思わず笑うしかない。
「し、いわく、なんなのやら」
「その哲郎いわく何なのやらが以下のとおりである。ええか。その先生は、入学したてのS高校の生徒らに、諸君のうち男子生徒は社会の管理者となり、女子生徒はその細君となるのである、とまあ、こんなことを仰せであったとのことじゃ」
「その先生の弁からすれば、ぼくも社会の管理者ですか」
「高校は違うが同列水準のA高校出身にして天下の国立大学であるから、貴君御見立ての通りであると申し添えておく。無論、問題は貴君ではない。さて、ここでかの岡山清美嬢であるが、貴君らの高等学校に通っておるわけではないものの、親父さんの会社に入ればしかるべき仕事をしていくことになる。管理者の娘じゃ、ただでさえもな。馬鹿娘を錦の御旗よろしく自ら標榜して街中で遊び呆けてなどおれんぞ」
「ということは、会社では管理者にして家に戻れば夫となる人物の細君ってことになるってことか、その論で行けば」
「そうじゃ。手に職とか何とか、そんな次元で仕事しておっては必ず行き詰まる。慈善事業を施す側になるのは構わんが、受ける側もしくはその延長線上のぬるま湯に入り浸っているようではためにならんし、あの子自体それを嫌っておる」
「そんなことには、確かに清美は巻き込めないです、はい」
男子大学院生は、この店の娘と連れ立って店外に出たようである。
二人の行方は、誰も知らない。ただし、その日のうちは。
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