第44話 土曜の午後の昼下がり

 土曜の午後を迎えた岡山市内のよつ葉園。

 今日もまた大宮哲郎少年は森川一郎園長に呼出された。

「わしなぁ、哲郎、どうも一昨日から昨日にかけて、不安のようなものに圧迫されてかなわんかったのよ。それがなぁ、昨晩、夕方寓居に戻ったら突如雷に打たれたかのようにびくっとしてのう、しばらくしたらその不安のようなものが一気に冷めて一気に安寧なる心持になった。以後は再発しとらん」

「なんか悪いものでも取りつかれていたのかも。それこそ拝み屋にでも見てもらったらいいかもしれないけど、ぼくはそういう筋の知人、いないよ」

 事務員に出された麦茶をすすって、森川園長が答える。

「拝み屋は勘弁じゃ。下手に行くとたかられかねんからのう。ただ、ひとつ思い当たる節があるにはある。まあ、聞いてくれたまえ」

 かくして、この数日間に老紳士の胸中で起きた「事件」が静かに語られ始めた。


 わしは水曜日、唐橋夫妻に住職あてに伝言を託した。その中に、奉仕活動で同行していただいておる内山定義君と本田陽子さん、このお二人に木曜の朝から金曜日の夕方まで休みを与えてもらうよう要請した。その不安のようなものであるが、木曜日の昼過ぎくらいにふと感じて、それからしばらく何かにうなされているように気になって仕方なかったが、金曜日の昼過ぎくらいには小康状態くらいには収まった。その雷とやらが来たのは、夕方のまだ暗くならぬうちじゃったな。うちの柱時計があろうが。あれが鳴り出すと同時に、胸のあたりに何かが飛んできて、わしゃびっくりよ。柱時計が鳴り止んだ頃には、なんか、わしの人生70にもなろうかという今に至るまで経験したことのない爽快感がやって来た。

 その後はもう何も起こってはおらん。今もこうして元気で爽快にやれておる。


 麦茶をすすりながら、大宮青年はふと思ったことを話し始めた。彼もまたこの3日間をとおして思うところがあったという。


 今おじさんが仰せのその不安のようなものがやって来たのは、よつ葉園のあの行事においてどのような事態が起きていたか。これで検討がついたよ。その時間、多少のタイムラグというか時間差はあるとは思うが、内山さんと本田さんに奉仕活動の休暇を与えた時間ではないか。そこだよ。そこにヒントがあるのでは?

 そこでぼくは、知る限りの情報をもとにここに来るまで施行を巡らせた。まあ慌てずに、落ち着いてお聞き願います。

 ぼくは本田陽子さんが内山さんとお付合いしていることは事実として理解しているし、彼女は現に内山さんとの間に男女関係はすでに何度もあると聞いている。そこは目くじら立てないでね。そこに、下津井電鉄の中田信子さんという車掌さんがいて、彼女と内山さんは中学時代の同級生でお互い憎からず思っていたと。今年は会えるかなって。これは内山さんと本田さんから直接聞かされた。

 ただこれは、窓ガラスのマスター夫妻には話してもいないらしい。

 そこでぼくは、こういう推理というか仮説を立ててみた。

 現地に向かう途中で、よつ葉園の第4班一行が中田車掌の乗務する列車にたまたまかどうかはともあれ乗って、そこで内山さんと中田さんは再会を果たした。その後は正直言いにくいことこの上ないが、二人の間で内山さんの争奪戦が起きているのではないかと。その休暇の間、あのお二人は児島の友達の家に泊らせてもらうと言っていたって、唐橋さんから聞かされたでしょ。

 無論、別の家にそれぞれ宿泊した可能性も捨てきれない。なら問題は一切ない。

 以下、問題となるパターンをいくつか適示する。とにかく怒らず聞いて下さい。

 中田さんの家に旧知の内山さんが泊った。そうなれば、これまでの経緯に鑑みれば二人が男女の関係となる可能性は極めて高い。本田さんはいまだその事実を知らないまま今に至っている。今は何とかなっても、問題発生は時間の問題だ。

 内山さんの紹介で中田さんの家に本田さんが泊ることは、これまで知人でなかったが女同士で意気投合して泊めてもらったと考えればどうか。これはしかし、内山さんは別の知人宅、例えば去年からかねて知っている浅野君の親族宅などに泊ったとなれば、問題として論ずるだけの余地はさしあたり消える。

 問題はここからだよ。

 内山さんが中田さんといい関係になると同時に、本田さんも彼らと一緒に中田さん宅に泊る。何もない可能性もないとは言わないが、いかんせん男女の仲でしょ、そういう流れにもなるよね。

 ぼく個人としては内山さんがうらやましい気がしてならないけど、さすがにこれは大の字がつく事件と見ざるを得ない。とはいえあの二人が中田さん宅に泊ったことに加え、ましてや3人で大いに男女の関係に陥るという事実が実際あったとしても何の証拠もない以上、本人たちに否定されたら、はい、それまでよ。

 申し添えるが、刑事事件の被告人には黙秘権もあるし仮に自白したとしてもそれだけで有罪にはできないからね。実務上や実態の話は一応控えておくけど。

 おじさん、これで、どうかな?


「おい哲郎、最悪の事態というのは聞くだけ野暮じゃが、どの選択肢じゃ?」

 聞いていささかうんざり気味の老園長、途中からそのうんざり感も通り越してむしろ青年の推理を楽しむ余裕さえ出てきた模様。

「そりゃあもう、あの休みの間を通して中田さんとともに内山さんと本田さんが一緒に行動し続けたパターンでしょ。もちろん同時に男女関係あり、でだよ」

 森川園長は平静を何とか装い、大宮青年に依頼した。

「しかしこれは、窓ガラスに珈琲なんか飲みに行ける雰囲気でもないわな。ここで内密に話すべき案件じゃ。とりあえず時間あらば、第4班の到着までここで待機して彼らの様子を哲郎の目で見て欲しい。今晩は酒でも飲まにゃあやれんわ。それも悪いが付合ってくれるか」

「いいですよ。どうせ休み中の土曜日だ。だけど、そのことを内山さんと本田さんに尋ねる気?」

「いや、それはしない。こちらからは動かん。とにかくこの1週間にわたって何の問題も発覚せん限り、哲郎の述べた最悪のパターンとやらであったとしても、ワシから何か咎めるようなことはせぬ。それに第一、そんなことを理由に彼らを尋問して何か不利益処分のようなものを与える権限は、私にはないからな。でもなぁ、なんか久々に、艶事に関わるような話が沸いたもんじゃ。わし個人としては、なんか楽しみにさえなって来たわ。ええ年して難じゃが、こういう話を人がしたがるその感覚が、大いにわかるわ。でな、哲郎、こういう話は、一時的な事件だけ見ればよいというものではないぞ」

「長い目で見ろってことだよね?」

「そうじゃ。長い目で見てさらに楽しめればなおよろし。そこで、今日のうちにあの二人への伝言を思いついた。実は昨日、唐橋君を通して唐橋夫人に伝言を頼んでおる。本日彼らが帰園した段階で彼らに伝えるためのものじゃ。わしが直筆でも構わんが、できれば貴君の代筆を立証した上で伝えたく思う。

 酒の肴を一つ豪勢にすることで引受けてくれぬか。


 大宮青年は森川園長の依頼を受け、万年筆を借りて便箋に清書した。自ら代筆した旨を書いた後、その上に森川一郎の直筆署名を入れて文書を完成させた。

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