第9話 酒席での、喝!
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離れの間では食事も終わり、あとは自由時間。ここにはなぜかテレビもある。
「今日は、名古屋の中日球場での中日対巨人戦があるから、それを観ましょう」
若いお坊さんがテレビをつけた。
モノクロの画面とはいえ、子どもたちにとってテレビはこの上ない娯楽のひとつである。しかも野球中継。特に男の子たちははるかかなたの名古屋の地で行われている巨人軍の選手の活躍に目を輝かせている。
この日の4番は日系人の与那嶺要。スーパールーキーの長嶋茂雄が3番三塁、開幕からしばらく四番を打っていた川上哲治は5番一塁で今日も出場。この日のこの試合は、ダブルヘッダーの2戦目のナイトゲームである。野球中継が終るまで、彼らはテレビにくぎ付けになった。結果は巨人が中日に6対1で勝利。長嶋の本塁打こそ見られなかったが、子どもたちはよつ葉園にいてはなかなか見ることの出来ないテレビでの職業野球を存分に楽しんだ。長嶋選手はこの年7月10日に本塁打を打って以来このところ本塁打は出ていない。
史実では、翌月の8月6日、広島市民球場で初めて4番に座ったその日に次の本塁打を打っている。なお、その日より半世紀来、広島市民球場では8月6日に公式戦は行われていない。広島市が条例でこの日を休日と設定したからである。その代わり広島球団はこの時期がホーム開催となった場合、福山や岡山などの周辺の球場でホームの試合を行い、残り試合を広島で行うという措置をとることが多かった。
なお、長嶋茂雄選手の活躍については、ここでは詳しく述べないでおく。
布団を敷いて蚊帳を張ってもらい、日もすっかり暮れて幾分涼しくなった夏の海風を浴びつつ、子どもたちはいつもより少し遅めに寝床に入った。
移動付でしかも海水浴までして、そこに来て夕方もしっかり食べたこともあり、子どもたちはほぼ皆、すぐに寝入った。仕切られた男女別の離れで、山上保母と磯貝青年がそれぞれ別の蚊帳に入って子どもたちの目の届く場所で横になった。夜中に何かあったときに、即座に対応できるようにするためである。
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自由食堂のマスターと浅野青年は、夕食後すでに帰宅している。また明日も、朝から来てよつ葉園の子どもたちに奉仕と称して出てくるわけだが、明日もまた浅野青年とマスターが来院する予定。月曜日なので、店は定休日とのこと。
一方の唐橋指導員と住職の一団は、子どもたちとは別の場所で打合せと称して酒を飲んでいる。とはいえこの日の話題のほとんどが、唐橋青年の恋愛事情。
「その女の人は、どこに今住まれておいでですかな?」
副住職の質問に、唐橋指導員が答える。
「茶屋町駅の近くで、御両親が店を営んでおります。あと、お父様が浅口教の幹部をしておられまして、実はそちらでも私、御縁があります」
浅口教の幹部で茶屋町在住。多分あの人だろう。副住職はどうやら自分の知人の話が出たように思えたが、それは黙っておいた。
「そうですか。で、相手の御両親にはお話しておいでか?」
「それは既に済ませております。それで実は明日、こちらから帰ってよつ葉園の森川園長のもとに彼女と揃って伺う予定です」
「そりゃあ、しっかりやらないけませんな。差し支えなければ、彼女のお名前は」
相手の名前が聞かれることは既に時間の問題であったが、ここまで聞かれずに済んでいたことに唐橋青年は思うところ多々あったのであろう。とっくに覚悟も出来ているようだ。目の前の湯呑に注がれた酒を飲み、少し間をおいて、淡々と答えた。
「成瀬初奈 さんです。はなはひらがなではなく、初対面の初に奈良の奈です」
しばらくの間、本堂の側にある食堂に沈黙が走った。住職ともう一人の若い僧侶はかねて聞いている話ではあったが、副住職ともう一人の僧侶はその女性の名前は初めて聞かされたことになる。
もっとも、副住職はその名前には憶えがある。彼女の父親は浅口教関係者で、何かの折に何度か会ったこともある。そういえば彼には娘がいて、軽便の電車の車掌をしていると言っていたか。彼にとっては自慢の娘だと。もしよければ誰か嫁にもらってくれるいい人はいないかと聞かれたこともあった。だが、娘には意中の人がいるからというので、その話は気づかぬうちに流れたという。
成瀬氏の述べていた娘の意中の人というのは、ズバリ、目の前のこの青年であったのか。彼は改めて、目の前の顔を赤らめている青年の姿に目をやった。銀縁の眼鏡をかけた、少し身長のあるやや痩せた感じの好青年。なるほど、これなら成瀬氏の娘さんの気持ちが押し付けの縁談を拒絶するのも無理ない話だろう。
副住職自体は、成瀬氏なる知人の娘である成瀬初奈という若い女性を直接知っているわけではない。ただ、岡山方面に向かうにあたって時々下津井電鉄の電車に乗ることもないではない。何人かいる女性車掌のうちの一人ということか。いちいち彼女らの名札を見て確認することなどないし直接知った人物はいない。
住職は、実は彼女を知っていた。彼女の母方の祖父母がこの寺の檀家であり、その娘である彼女の母親に連れられて子どもの頃この寺に来たことがある。もっとも成人後にその孫娘である成瀬初奈という女性と直接接触はなかった。
いつか下津井電鉄の電車に乗った時にふとその車掌の名札を見たら、なぜかその名札には「成瀬」と書かれていたことを思い出した。そのときは電車内で他の客がいたこともあり、彼女とは特に話していない。
柱時計が10回鳴った。時計の針は午後10時を示している。
「唐橋さん、この夏こそがあんたの人生にとって最大の勝負所である。初奈さんにきちんとあんたの思いを伝える一世一代の大事業に挑まれるわけであるが、本日は前途ある唐橋修也君に激励の喝を兼ねて、乾杯してお開きにしましょう」
そう言って、住職は各々の湯呑に一升瓶から清酒を注いだ。
乾杯をした後、ほどほどのところでその日の宴は終った。
唐橋青年は、本堂の僧侶らの寝る部屋とは別の客人用の床の間に招かれ、そこで一夜を過ごした。
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