禁忌の代償
病院の本館を売店側の裏口から出た先に、雑に建てられたプレハブ小屋がある。案内板によれば、それがここの喫煙所らしい。
煙草に火を点けながら入ると、丸椅子に先客がいた。
「様子はどう?」
気遣うような声色で訊ねてくる、その隣に腰かける。
「お前の想像している通りだよ。一度意識は取り戻したが……今夜がヤマだろう。本人もそれを自覚しているようだった」
「そう……」
英は目を伏せ、スタンド灰皿に吸殻を入れると、新しい一本を口にした。
「赤倉の目撃者も、病院の関係者にも、今回のことは他言無用でいるよう、うちから圧力をかけておいたわ」
「そうか、助かる」
病院に乗り付けた時の慌ただしさを思い出す。
おびただしい血で服を固めた、異常な体型の人間が来たものだから、緊急外来の入り口は騒然とした。何がどうしてこんなことになっているのかという聞き取りは以後の対応に必要なものだとは分かっているものの、ちょっとした尋問だった。
結果、焦りから苛立ちを隠せなくなった英が、もう『ヤマノケ』というワードを出して説明をしたのだが、そこからまた一悶着あった。彼女が明かした身分は本当なのかという病院側の確認に対し、山形警察署が機密情報保持とかいう職務を全うしてくれたおかげで、一度は英が警察官を騙る無法者扱いされるという事態にまで発展したのだ。
そうした事後処理や、その後の捜索で発見された仁間淳平の遺体の対応に追われていた彼女だったから、紫の病室にも一度顔を見せるくらいしかできていなかった。
疲れた肩を回しながら、英が言う。
「もし、楪ちゃんが望むのなら、うちで手配しようかと考えてるわ。課長の許可も下りてる」
「いいんじゃないか。今はあいつ自身もバタバタしてるからな」
「ムカサリ絵馬の呪い、だっけ」
きっついわね、と嘆息する。
紲は煙を吐きながら、邪なことを考えていた。もちろん、楪の負担を考えて英の力を借りることはには賛成だが、同時に、そういった『借り』を作らせることで、楪が早まった行動に走るのを抑止できるのではないかと考えていた。
紫との会話で何か思うところがあってくれれば、杞憂に終わるのだが。
「金は半分、俺からも出すよ」
「あら優しい。明日は雪かしら」
「言ってろ。実質堅気じゃねえみたいなところに借りを作りたくねえだけだよ」
「本当にそれだけかしら?」
「何が言いたい」
「べっつにー?」
英がニマニマといやらしい笑みを浮かべて、上目遣いに挑発してくる。
そんな折、喫煙所に楪が入って来た。
「良かった、やっぱりこちらにいらしたんですね」
「どうした、何かあったのか?」
訊ねると、彼女はじっと言葉を探すように目を細めて、告げた。
「姉が息を引き取りました」
「……そうか」
紲は二本目の煙草に火を点けようとして、やめた。
晴れやか、といえば不謹慎かもしれないが、肩の荷が下りたような、決意に満ちた楪の目を見れば十分だった。
「英さんもありがとうございました。朝からずっと付き合ってもらっちゃって」
「気にしないで。お姉さんと姪子さんのご冥福をお祈りします」
英は頭を下げると、吸いかけの煙草を揉み消した。
通夜に参列してくれた十三課の面々に、紲は深々と頭を下げて見送った。
御廟紫とその娘の遺体は、英の家が懇意にしている葬儀屋によって、紲の家の仏間に安置されることとなった。御廟家の自宅にしなかったのは、向こうがマンションだからという理由もあったが、何より楪が、少しでも傍にいたいと申し出たからだった。
子供の名前は、楪が暫定的に『
死に化粧を施された二人が安らかに眠っているのを確認して、紲は居間に戻った。
「ひとまず、ご苦労様だの」
「おう、サンキュ。急な通夜だってこともあるが、部屋いっぱいにサツが並ぶ空間ってのはどうも疲れるな。居心地悪すぎて息が詰まる」
「これ、気持ちは解るが、あちらも厚意であろう。言ってやるでない」
「へいへい」
腰を下ろすと、とてとてとやってきた花子が、コーヒーを注いでくれた。
「ありがとう、花子。今日も助かったよ」
頭を撫でると、彼女はむふーと誇らしそうに胸を反らしてトイレに戻っていく――のを引き留め、ジャグまで持っていくんじゃないと取り上げる。
「ったく、褒めてもらいたい気持ちが先行しすぎなんだよ」
「何十年経てども心は童なのだから、仕方なかろう」
苦笑しながらヨジロウが掲げた湯飲みに、カップを打ち合わせる。
「ところで、楪はどこ行った?」
「おヤチと台所に籠っておるよ。何をしているかは、儂も聞いてはおらなんだがな」
「ふうん」
曖昧に頷いて、コーヒーに口を付ける。
別段何か用があったわけでもなかったから構わないのだが、今夜はてっきり、姉の傍に付きっきりでいるのかと思っていた。
「残るはあの娘の呪いだけ、か」
ヨジロウが咀嚼するように呟いた。
目下、一番の難敵に、紲が頭を抱える。
「なあ、マジでなんか心当たりねえか?」
「ふむ。死神という言葉が形容ではなく、性質として確かに持つものだとしても、それならばそれで八雷くらいは効いても良かろうものだがなあ」
ヨジロウが腕を組んで黙り込む。
「ハイパーアーマーでも持ってんじゃねえっすか?」
人形からマタが現れて、興味深そうに混ざってきた。
「ハイパーアーマー? なんだそりゃ」
「やだなあ、攻撃されても仰け反らないパワータイプの共通パッシブじゃないっすかー……え、マジで知らねっすか? ゲームとかやらないんすか?」
むしろお前はどうして我が家に置いていないゲームのことを知っているんだと。近所の家に忍び込んでいるのだとは思うが、迷惑をかけていないことを切に願う。
「仰け反るかはともかく、何かしらの反応があるはずなんだ。神話なんかでは、限定的に不死性を持つジークフリートやアキレウスといった神がいるが、これらも別に、弱点以外を殴られても吹き飛びはするはずだろう?」
「そうさな。無防備に受けるということは普通忌避するものよ。余裕ぶって異物を払い落さず、下手に神格など落ちようものなら、永き常世でさえ永遠の笑い種じゃ。そんなことが出来るのは、全知全能と伝えられる『大いなる神』くらいであろうよ」
だから、どちらの呪法にも反応しない存在など在り得ないし、在ってはならなかった。
キリキリと胸が痛むのを感じた紲は、今日は休むと告げて部屋に戻ることにした。
部屋に戻るなり、紲はとうとう耐えきれずに咳き込んだ。
まるで肺だけが外に晒され、やすりを当てられているかのような絶痛に、地獄の業火の中で許しを求める咎人がごとく、床をのたうち回る。
否、まさに咎人であった。
「…………はぁ、はぁ……チッ、和らいでこれかよ」
台風一過。大きく肩で息をしながら、口元を拭う。
床に飛び散った血痰は、丹念にティッシュで拭い取った。この部屋には入られたことがないが、万が一にも、あいつにバレる訳にはいかない。
不意に、背後で襖の縁がノックされた。
口の中の水分まで無慈悲に奪い取ったらしい冷や汗が、皮肉にも息せき切って開く口に流れ込む。鉄臭い味がした。頼むからあのバカの
求めてやまないからこそ、胸に沁みて痛いのだ。
意を決して、襖を開けた。
『だいじょび?』
「はぁ……花子だったか」
胸を撫で下ろす。くりっとしたピュアな瞳に癒される気さえした。
『おじいちゃんから、ようすをみにいけと、もうしつけられりありおりはべりいまそかりー』
いつもより、彼女の口数が多い。夜も更けた時間だから、子供にとっての深夜テンションが訪れているのか、あるいは――
少し、自惚れてもいいだろうか。
「大丈夫だ、ありがとう花子」
『よきにはからえー』
にっこりと笑った花子さんは、ハンカチで首筋の汗を拭いてくれた。
この際だ、当たっているのがチューリップのアップリケが刺繍されている面で、ざりざりと痛いのは黙っておこう。
「このことを、楪は?」
『おねえちゃんは、いま、はなよめしゅぎょーちゅー』
「花嫁……修行……?」
喪に服さずに何をやっているんだ、あのバカは。しかしヨジロウが、彼女はおヤチと一緒にいると話していたか。それならば、変なことはさせていないと信じていいだろうが。
『あ』
花子さんが目をぱちくりと瞬かせる。
『いまのは、とっぷれすしーくれっと、だったかもー?』
「いい心がけだ。日本でトップレスは犯罪だからな」
『あいあいだっど、おくちにちゃっくします。ほへへはー』
律儀にチャックをしたままペコリと頭を下げ、花子さんはトイレの中へと帰っていった。
なんだったのだろう、あれは。
妙な胸騒ぎがしたが、花子さんのおかげで気も紛れた。
部屋の明かりを落として、布団に寝転がる。
しかし、休むとは言ったものの、別に睡魔に襲われているわけではない。
何度寝返りを打っただろうか。
もういっそ起きていようかと思い始めた頃、そっと、襖が開いて廊下の明かりが漏れてきた。
「紲さん、寝ちゃってます……?」
「いや、起きているが。どうした?」
床に付く前に、改めて血を全て拭っているのを確認した余裕と油断から、つい、そんな風に答えてしまった。
「その、寝付けなくて……来ちゃいました。ご一緒して、いいでしょうか?」
「おヤチはどうした」
「紲さんが仰ったんですよ。『物怪と寝てる方が悪夢だ』って」
そう言ってはにかんでみせる強かさに、紲は白旗を揚げるしかなかった。
「……入れ」
起き上がり、明かりを付ける。
予備の布団があったはずだと押し入れに向かうと、裾を引っ張られる感触があった。
「一緒が、いいんですけどぉ……?」
お前そんなことも察せねえのかよそれでも男かよとでも言いたげな、ジトっとした上目遣いに押し切られる。
観念して、蛍光灯のコードを引いた。
せめてもの抵抗として、一人寝をするときのように、ただ布団に入る。申し訳程度にスペースは空けておいたが、何もするわけにはいかなかった。
彼女は依頼人であり、助手である。シラベをどうにか倒すことができた暁には、おそらく一生会うことがなくなるだろう、そんな縁でしかない。
「お、お邪魔しまぁす」
「寝起きドッキリでもするつもりか、お前は」
おずおずと布団を捲っては戻す、奇怪な行動を諫める。
「そ、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。入ります、入りますったら!」
一体彼女は、何がしたいのだろうか。
紲は呆れた風を装い、背を向けた。
楪の手のひらが触れてくる。じわりと、温もりが押し当てられる。
こんなにも、小さな手だというのに。
「紲さんの背中、大きいんですね」
「……黙って寝ろ」
「むう、強敵」
ふくれたような声を最後に、夜の静寂が戻ってくる。
そうかと思えば、にわかに背中で「の」の字を書き始められた。
「その、お話しをませんか?」
不安げな提案に、紲は盛大なため息を吐いた。
「……勝手にしろ」
「あ、じゃあ、勝手にします。えへへ」
はじめは呪いの人形程度で涙目になっていた癖に、随分と肝も座ってきたものだ。
「紲さんが一度亡くなっていて、口寄せで生き返ったから今があるというのは分かったんですけど。それでは、琴葉さんは、どうしてああなってしまったんですか?」
「――ッ!?」
一瞬、呼吸ができなくなったかと錯覚した。夜半に男の部屋に来て、お喋りの口火を切ったかと思えば、元許婚と紹介した女の話とは。全くもって予想だにしていなかった。
「琴葉さんを救う方法は、ないんでしょうか」
紲は深呼吸しながら、平静を手探りする。
「ない」
「そんな……」
「あいつは俺を口寄せした代償に、その魂を支払ったんだよ」
首の後ろで、息を呑む音だけがあった。
「口寄せってのは、いわば『招魂』だ。刑務所に行って面会をするようなもんで、あの世からあくまで一時的に呼び寄せるだけ。制限時間だってある」
あの日、オナカマの巫女として昇華された琴葉の手に、儀式で用いる五色の矢があったことも間が悪かった。
一族は大規模な儀式を行う際、五色のぼんでんを用いる。それぞれ五行になぞらえ、木行の緑は薬師如来、火行の赤は宝勝如来、土行の黄は大日如来、金行の白が阿弥陀如来。そして水行の青が、仏陀――釈迦如来である。
仏教において、如来とは悟りを開いた仏そのものを指し、観音や菩薩と呼ばれるものが、その下で人々を救済するべく修行中であるという関係にあった。いわば、里で祀っている十八夜観音は、ぼんでんにある如来の面々の教えを伝え、信仰するものを救う、仲介者なのである。だからこそ紲の力も、大日如来の化身である明王のそれを、十八夜観音を通して借り受けることができていた。
お釈迦様へ祈る際にも、普段は十八夜様を通して行うため問題はない。しかしあの日、漆山紲が死にかけた時。五色の矢羽根を取り付けた儀式用の弓矢を持っていた琴葉は、あろうことか。儀式通りに天へと弓を引き、直接五行の如来に祈りを奉げたのである。
「あいつは如来様の力を借りてまで、口寄せした。今の俺を見れば分かるだろうが、これはもう『反魂』だ。釈迦が戯れに蜘蛛の糸を垂らすのとは訳が違う。悟りに達せてもいない人間風情が踏み入れていい領域じゃあなかったんだよ」
力み過ぎたせいだろうか、咳き込むのを歯噛みで殺す。しかし対価の徴収だけは止めることができず、口の端から血が垂れた。
気取られぬように、努めて声のトーンを一定に抑える。
「だから、琴葉は死んだ。救おうとはしたが、駄目だった」
「救う方法……あったんですか」
「枝調に口寄せをさせたんだよ。死神を呼びやがったケツを拭かせるために、まだギリギリ命の灯が残っていたあいつに、琴葉を口寄せさせようとした」
目を閉じる。狂いに狂った幼馴染の顔面を、愛していた女の妹の顔面を、何度も殴りつけて従わせた、後味の悪い話だ。
「だが駄目だった。あいつが裏切ったか、あいつじゃあ力が及ばなかったか。それとも――琴葉は仏の力で天に召されたから、あの世を対象とした口寄せでは探せなかったか、禁呪を用いた罰として、地獄の奥の奥に閉じ込められていたか……知る由もない」
そうして、琴葉の生骸だけが残った。どうして体が朽ちずに残っているのかは、未だに分かっていない。
「辛い、ですね」
「五年も前の話だ。感傷の方だって、燻ぶることに疲れたよ」
鼻を鳴らすと、背後から、そっと手が回された。
「……私では、代わりになれませんか?」
楪はそう言って、こつんと額を背中にすり寄せる。
「いいえ、こういう言い方はズルいですね。私自身、なんかヤですし」
彼女は悪戯の計画が事前で露見して強がる子供のように、乾いた笑いを浮かべる。
そしてまた、抱擁をくれた。
「好きです。紲さん」
「…………俺は」
口にしてから、言い淀む。今、自分は何を口走ろうとしたのか。
一瞬、琴葉の幻影に重ねてしまったのが運の尽きだった。
求めてやまなかった温もりを、顔が見えないのをいいことに、彼女の優しさに付けこんで、幻で書き換えてしまおうと考えやがった。
今、傍にいるのは。温もりをくれているのは、紛れもなく御廟楪だと知っていながら。彼女の温度に安心感を覚えているのは、紛れもない本心だと理解していながら!
歯を食いしばった。
自分は、なんと最低な男だろうか。
「俺には、その気持ちを受け取ることは……できない」
回された腕が、震えた。
「そう……ですか。……うん。はっきり答えてもらえて、嬉しいです。ですが、せめて今夜だけは、ぎゅっとしていてもいいですか」
そう言って、楪の手がさらに深くまで到達した。
胸板の前を通過し、指先はやがて首筋に触れる。
「――えっ?」
楪の吐息とともに、夜は凍り付いた。
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