第三章 冥婚ノ楔

光の見えぬ山

 紲は、力尽きて伏した琴葉を揺り起こそうと必死だった。今、彼女を眠らせてしまっては、死というものが常となる世――幽世に沈んでしまう。


 昇りつつある朝日が山間を照らしても、蒼穹は雲一つなく澄みきっていても、血生臭い周囲の風が衰える様子はなかった。

 しかし、琴葉の表情がはっきり見えるようになっただけでも、紲にとっては僥倖だった。


 視力のない目が、こちらを向く。


「紲……ごめんね」


 ふと、彼女と瞳が交わった気がして、息を呑む。その僅かな、魂響のような言の葉で、堪えていたものが決壊するようだった。


「お前が謝ることじゃねえよ」


 掴んだが最後、霧散してしまいそうな、嫋やかな手を取る。

 琴葉は、一度はにかんでから、気恥ずかしそうに唇を噛んで、もう一度歯を見せた。


「貴方は、いきなさい」


 細い指先が、地に横たえた。着物の袖が、風にひらひらと遊ばされている。

 俺に一人で行けというのか。皆を置いて。俺に一人で生きろというのか。お前を忘れて。

 できるはずがあるかと、紲は口の端が裂けんばかりに咆哮した。


「琴葉、おい琴葉! まだ巫業に就いたばかりだろうが。こんなところで死ぬんじゃねえ!」


 いくら叫んでも声は天に届くことなく、山の中に閉じ込められて木霊となる。

 一度、琴葉の頬を撫でた。傷一つない、花のような肌だった。

 紲は、彼女の腰元に遺されていた梓弓を手に取り、立ち上がる。


 振り返れば、そこは死体の山。

 育ててくれた親も。巫の守り人として鍛えてくれた恩師も。酒飲み仲間だったあいつも。時代の担い手候補として大事に育てられていた年端も行かぬ幼女も。その子とよくかけっこ遊びをしてやっていた兄も。先月結ばれたばかりの夫婦も。下の村から師を慕って移り住んできた者も。ケンカをしてはともに叱られた親友も。


 皆、死神の鎌に引き裂かれて死んでいた。

 二十数余人の住む集落が、一夜にして滅んでいた。


 一人だけ、死体の山の中心で死神に鎌を向けられている、生きた少女がいた。

 琴葉の妹・枝調だ。

 カミツケの憑坐よりましとして選ばれなかった彼女は、ムカサリ絵馬に自身と漆山紲の姿を描き、自害することを選んだ。が、今も半分死にきれず、血塗れの状態で座り込んでいる。姉に対抗してより長く伸ばした黒髪は、今や何処、山姥すら裸足で逃げ出すようなざんばら状態だ。


 眼が見えている分、気が触れてしまったのか、ケタケタと嗤っている。


「紲ァ、一緒に行こうよォ……ケヒヒッ」

「う、うるせえ。琴葉を返しやがれええええええ――――――――ッ!!」


 紲は絶叫しながら、琴葉が残した梓弓を構えて矢をつがえた。

 ばっくりと見開き、乾いて真っ赤に染まった眼。極度の興奮状態に開かれた鼻の穴。顎が外れ、息を吸っては血と涎と胃液を吐き出すだけとなった口。喉を潰さんばかりに締め付ける首の筋。あの狂気じみた嗤い顔は、今でもはっきりと覚えている。


 今もはっきりと、











「――さん、しっかりしてください。紲さんっ!?」


 楪の声も、紲の耳には届いていなかった。

 炎に虫が導かれるように、次々と土地から幽霊が湧いてくる。

 そのどれもに、見覚えがあった。


とと様……、かか様……」


 膝ががくがくと笑いだす。なんだよ、これ。地獄じゃねえか。もう終わったことだろう。どうしてこんなことが起きている?


「(……ああ、そうか。一人生き残った俺を、皆で迎えに来たんだな)」


――貴方は、いきなさい。

「紲さんっ! しっかりしてください!」


 二人の声で、紲の止まっていた吸気が復活した。肺から酸素が全身に運ばれ、徐々に視界も色味を帯びていく。

 軽く痺れている指先を握りこぶしで慣らしてから、紲は顔を上げた。


「悪い、楪。もう大丈夫だ」

「ああ、良かった。本当に……」


 大きく息を吐いた彼女の頭を、引き寄せる。丹田の底からふつふつと、気力が漲った。

 どうやらムカサリ絵馬の呪いとやらは、あの日から随分とややこしくなったらしい。別のナニカが担っていた死神の役が、今や枝調にすげ変わっている。


「絵馬の巫女の血を、そのまま絵馬の呪いに引き込んだか。地獄の神様も酔狂なこった」


 鼻で笑い飛ばす。今はまだ、少しばかり空元気だが。とにかく今はこいつを――おかえりと言ってくれたこの女を、救わなければならない。


「帰命し奉る!」


 ジャケットから鼬の姿を描いた姿札を取り出だした。神札とは異なる、仏教由来の札である。


「十六小地獄が業火を宿せし同胞はらからよ。我が命に従い、門に下れ! 来い、『熾貂女してんにょ谷地おやち』!」


 札を投げ、視線と重なるように印を組む。

 眼下に広がる炎よりも鈍く青い焔が風と共に巻き起こり、着物姿の女性が現れた。


「おヤチさぁん!」


 楪がパッと笑顔になる。


「状況はお察し致しました。旦那様、ご指示を」

「殲滅だ。夜の山なら誰に見られることもない。谷地八幡を拐した実力、存分に見せてやれ!」

「御意に」


 おヤチがにぃ、と口角をつり上げ、印を組むと、バチバチと焔の子が弾けるような地響きとともに、幽世から巨大な仏僧の異形――大入道が現れた。

 楪がきょろきょろと辺りを見回す。


「あれっ、おヤチさんはどこへ行っちゃったんですか?」

「あの中だな」

「あの中っ!?」


 大入道を指さすと、楪が驚愕に声を荒らげた。


「昔は神社の軒下から操るような遠隔型を使っていたらしいんだがな。最近のトレンドは搭乗型らしい」

「妖怪にもトレンドとかあるんですかっ!?」


 楪の顎がさらに開いていく。


「それと妖怪じゃねえ。おヤチは物怪だ」

「違うんですかっ!」

「ああ、重要なことだぞ? 昔から、お化けは坊さん、妖怪は神主と相場が決まっているだろう」


 肩を竦めて、紲は広場を指さす。一角に大入道の足が振り下ろされたところだった。一度に四人ほど仕留めただろうか。心の中で手を合わせておく。


「あんな風に、幽霊に対しては仏道由来――幽霊、あるいは物怪の力でなければ効果が薄い。一方妖怪は『アヤカシ』ともいうが、その語源は。神聖な力による現象を指して使われる言葉だ。マタが付喪神に片足突っ込んでいるように、神の使いの一種ってことだな」


 大入道は地面に突きたてた拳を開き、掌で払った。抉れた地面から立つ土埃は、貂の紫炎にくべられて燃え盛る。周囲の木々は傷つけず、怪異のみを炙り尽くす。

 きょとんと、楪が首を傾げた。


「けれど、お昼に幽霊を倒した時の梓弓は、祝詞で呼び出していませんでしたか?」

「よく気付いたな。まあ、神具というか祭具というか、アレはこの里で使っていた弓なんだ。神仏習合の名残によって、どちらの性質も併せ持つ稀有な特性を持つんだよ」


 焦熱地獄と化した里に、さらに裁きの拳骨が叩き込まれる。


「さて……終わったな」


 シラベが一瞬にして圧し潰されたことを見届け、紲が肩の力を抜いたその時。

 おヤチが傍に降り立った。彼女にしては珍しく、眉間に焦りが寄っている。


「問題発生でございます。あの者、私の力では手応えがありません」

「……何?」


 眉を顰める。何故だ。

 楪がおずおずと手を挙げる。


「あのう。先ほどの話でいけば、あのお化けはお化けじゃなくて、神様……とか?」

「まさか、ンなわけ……。お前が言うように、仮にあいつが冥婚の呪いを司る『死神』だとしても、それは俗称で合って、あいつの性質自体は幽霊であるはずだ」


 神道由来の力でぶん殴ってみるかと神札を取り出したところで、異変が起きた。

 拳に抑え込まれた状態のシラベが、炎の鎌を出して振り上げると、大入道の足が両断され、巨体が崩れ落ちた。

 消滅していく大入道を見ながら、紲は頬が引きつるのを感じていた。


「どうなってんだ、こりゃあ……」


 シラベが神だったとして。その場合、互いに位相がいねんがずれていることでの泥仕合にもつれるはずである。いくらなんでも、大入道ほどの力で圧倒的な差が開いているとも思えない。そうでなければ、あの日の惨劇は、漆山紲という人間風情の手では終わらせられていないのだから。


「(流石は稀代の巫女姉妹。力はお墨付きってわけかい)」


 紲はおヤチに退いてもらい、すれ違うように神札を突き出した。


「――我が身は伊賦夜いふや。我が心は殿縢戸とのど。此く宣らば。此く聞食さむ。こうべ大雷オオイカヅチすう火雷ホノイカヅチたん黒雷クロイカヅチみほと裂雷サクイカヅチ右手めてツチ左手ゆんてワカかしナリフシ、蠢きて、是あはせて火雷大神ホノイカヅチノオオカミ成り居りき。常世を統べたるなにものみことよ、冥府の道には相成れど、今、知識大神が姿にて、種種の罪事、遺る罪は在らじと、祓い給い清め給え。六根清浄――現出でませ、『八雷ヤクサノイカヅチ』!」


 イザナギがイザナミを追って黄泉国に向かった際、腐って蛆の沸いたイザナミから生まれていたという、わざわいの神を体現した裏法。現世では地から立ち上る水が竜とされる一方、常世は天から降り落ちる雷が竜となる。イザナギを黄泉平坂にて追い回したのが、この八雷だった。


 紲の一声で迸った八条の紫電は、周囲を取り囲む幽霊たちを山ごと削りながらシラベに向かって牙を剥いた。

 しかし、シラベは鎌で迎え撃つどころか、雷を迎えるように両手を拡げて見せた。


「…………は?」


 かくして雷は霧散した。確かに命中はしたはずなのだが、一切のダメージが入っているようには思えなかった。


「駄目だ、太刀打ちできる筋が見えねえ。楪、撤収だ。逃げるぞ!」

「えっ、逃げられるものなんですかっ?」

「霊道は展開されていない。地縛の魂であることに賭ける!」


 楪の手を引いて、里の入り口までひた走る。

 しかしその道は、ゆらゆらと立ち昇った、一つの影が塞いでいた。


「きず、……な、さん」


 絶え絶えな吐息に、振り返る。膝を付き、がたがたと奥歯を鳴らしている小さな体には、服の上からも分かるくらいに燃える呪紋が現れていた。


「(ちっ、冥婚の呪紋だったか。一秒でも早くケツ捲らねえと……)」


 指を噛み切り、その血で與次郎を口寄せした紲は、肩に楪を担いで風に乗った。

 一歩で助走し、二歩で踏みしめ、三歩で踏み切る。とうせんぼうの影が形作られるより前に、その頭上を吹き抜けた。

 着地のために視線を下ろしてから、紲ははたと首を傾げる。

 今の影には、その輪郭に決定的な欠落があった。蜃気楼のようにぼやけているせいで、にわかには気付くことができなかったが――


「(まさか、首無し野郎か……?)」


 いや、今は逃げることが先決か。癪だが、確認する間も惜しい。


「歯を食いしばっていろ、舌を噛むぞ」


 楪に声をかけて、山の斜面へと飛び出した。

 古道などは殆ど崖登りに近い状態であると山道を、木の幹を足場にしながら、源義経の逆落としが如く駆け下りていく。


 一時間超かけて上った道を僅か数十秒で駆け抜けた紲は、楪を下ろし、一度、里の方へと振り返った。追手の気配は、ない。肩の力を抜いて、口寄せを解き、ぐったりとした楪を抱きかかえるようにバイクへ跨った。

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