過去から来たる死神

「はあ~、疲れましたあ……」


 家に帰るなり、楪が居間の机にへばりついた。


「みっともねえ格好だな」

「そんなこと言わないでくださいよぅ、絵馬のことだけでも精神的に参っているのに、突然弓で戦えだなんて、ハードすぎますってぇ」

「それだけぶーたれられてりゃあ、大丈夫だ」


 まだ折れはしないだろう。

 弱音を吐く彼女の頭を鼻で笑って、紲は自分の席についた。


「お忙しかったようですね」


 コーヒーを持ってきたおヤチが眉尻を下げる。ブラックコーヒーが飲めない楪には、ミルクティーを用意してきたらしい。


「まあな。とりあえず、ムカサリ絵馬が関わっていることが判った」

「それは……なんとまあ。数奇なこと」


 心配げに表情を曇らせたおヤチは、珍しく、そのまま下がらずに傍へ傅く。


「旦那様。どうか、お気を確かに」

「ああ、ありがとう。正直、呪われているのは楪ではなく、俺なんじゃないかとも思いかけていたところだよ」


 空元気を振り絞ってでも微笑みを作って返せば、おヤチも少しは安堵してくれたようで、後ろ髪を引かれたようにしながらも、台所へと去って行った。

 ふと、静けさに視線を向ければ、楪が寝息を立てている。


「まだ夕方だぞ、コラ」

「ふぁいっ、寝てません!」


 びくっと飛び起きた素っ頓狂な回答だった。寝ていたと白状しているようなものであるし、なんとなく、こいつは学校でも居眠りをしていそうだと、紲は呆れて笑った。


「そうか、寝てないのなら話は早いな」

「えっ……?」

「今夜は山登りをするぞ。付き合え」

「ええええええええっ!?」


 楪が座布団を弾き飛ばす勢いで後ずさっていく。


「どーしてさらにハードにするんですかあ!?」

「どーしてって、死にたくないだろう?」

「それは、そうですけど……けど、山登りと死なないことに関係が見出せないんですよぅ」


 いじいじと楪が人指し指を合わせていると、居間の襖が開いた。


「それでしたら、何か、軽食でもご用意いたしましょうか?」

「せめておヤチさんは止める側に回って欲しかったです!」


 楪がはい先生! のごとき溌溂さで挙手をする。

 参っているのか余裕があるのか判断しかねてる彼女の様子に、おヤチはくすくすと笑った。


「もうひと頑張りして損はないと思いますよ。旦那様、お里へ行かれるのでしょう?」


 向けられた視線に、紲は頷いて見せる。


「ああ、岩谷へ行く。飯は……そうだな、今朝のサンドイッチは頼めるか? えごまの漬け物がいいアクセントになって、美味かった」

「あらあら、まあまあ、もったいないお言葉。すぐに準備致します」


 そう言って立ち去る背中を、楪の絶望に満ちた視線が追い縋っていた。











 山形の市街地を東北自動車道のインター目がけて西へ進めば、その先に中山町が見えてくる。これから向かうのは、目の前にそびえている山の山間だ。

 無人駅の線路を越えて、入り組んだ住宅地の細い路地を抜ければ、山の裾へとさしかかる。あとはぐるりと、山畑用の農道として整備された道なりに行き、途中でさらに高所へと伸びる分かれ道を進めば、そこが岩谷の区域となる。夕焼けに染まる村山盆地を見渡しながら行き着いたところが、岩谷十八夜観音だ。


「ここからは歩いていくぞ」


 観音堂にはとくに目をくれることもなく、紲はバイクを降りて歩き出した。

 慌てて付いてきた楪が、不安そうに訊ねてくる。


「これから、山登りをするんですよね?」

「山寺と同じ高さだ、それほど高くないから安心しろ。ここからだと、ルートにもよるが、三十分強で登りきれるさ」


 楪の同行を考えれば倍を見積もった方がいいかもしれないが、村山市から向こうの尾花沢と比べれば遥かに雪も溶けている今、対して支障はないだろう。

 藪こぎをしながら進んでいくと、やがて開けたところに出た。


「わあ、綺麗……」


 楪がうっとりと声を漏らす。

 盆地を一望できる絶景である。右手には山形の蔵王山、正面には天童の面白山から水晶山までの一連を。左手側の遠くに見えるのは、東根市の関山。それらの一つ一つが、夕日と薄闇のグラデーションで彩られている。どこかで鳴いた烏の声も、心地よく耳を撫でる。


「ここは、畑として拓いた場所でな。向こうから朝日が昇り、日中は作物をよく照らしてくれる。夕方になると、山の背後に沈んでいく陽によって、こうした景色が見えるんだ」

「畑とは、紲さんの里の?」

「いや、ここを使っていたのは、さっきバイクを停めた観音堂の辺りの奴らだな。俺が生まれたのはもっと上の方だよ」


 表向き、山形のオナカマ文化を語る上で知られている岩谷の集落が、ここだった。こちらは昭和の中頃には過疎が進み、五十五年に廃村となっている。

 紲たちが暮らしていたのは、奥の院を越えた先である。歴史的には『隠れ里』だとか称されるもので、誰にも知られることなく血を残してきたのだ。


「里でカップルができる時にはたいてい、告白のスポットはここだった。想いを伝え合った後、山の影に太陽が隠れたことであっという間に暗くなる山道を、手を繋ぎながら帰るんだ。二人が歩く未来を、慎重に、身を寄せ合ってな」

「素敵ですね。紲さんも、琴葉さんと?」

「さあな」

「ええっ、教えてくださいよぅ!」


 唇を尖らせて抗議してくる楪をいなしながら、休憩は終わりだと、紲は山登りを再開した。

 琴葉とこの景色を見たことは、あった。けれどそれは、約束をするためではなく、ガキの時分に遊び回って偶然見つけた景色というだけで、物心ついてからというもの、お役目に忙殺されてそれどころではなかった。

 もう一度、見に行こうとは思っていたのだ。天童に新しくできたショッピングモールにでも遊びに行き、その帰りに、ちょうどここを通るコースで辿ることができれば。


 そう、思っていたのだが。


 黙々と足を運ぶこと十数分。先刻の耕作地よりも、さらに広い場所が紲たちを迎えた。楕円状に切り拓いた広場の縁を沿うように、木造建築の集落が展開されている。


「ようこそ。霊地霊山・岩谷の奥地へ」


 慇懃に手を回した礼法で、紲は楪を出迎える。

 きょとんとしていた彼女は、ややあって、目を閉じた。


「駄目ですよ、紲さん」

「あン?」

「まずは貴方が、ただいま、って言わないと」


 紲は言葉を失った。取り繕ったえくぼの裏が、じわりと軋んだ。

 自分の中で、この里はすでに葬られたものとして納得しているつもりだった。己の帰るべき場所は、ヨジロウたちが――そして、琴葉の生骸が眠る、あの家なのだと。

 今日とて、別に物見遊山で来たわけではなかった。単に、楪を守るために必要な手段どうぐとして、この場所を扱うつもりだった。


 そんな強情が、彼女の一言で、あっけもなくほどけてしまう。


「…………ただ、いま」


 呟くと、楪は「おかえりなさい、紲さん」と笑った。

 それがどうしようもなく眩しくて、顔を背ける。長いこと忘れていた熱いものが目の奥から滲んでくるのを、夜の闇に誤魔化した。


「ああっ、待ってくださいよぅ!」


 廃墟の一軒に向かって足早に進んでいく紲の後を、楪が慌てて付いてきた。

 ぎぃ、と軋む扉を開く。


「ここは、倉庫でしょうか?」

「いや、祭殿だよ」


 雑多な倉庫に見えるのは、老朽化した壁と、イタチかハクビシンでも入って掻き回したのだろう散乱した道具たちのせいだ。

 奥の部屋に抜け、仏壇の扉を開ければ、そこには美しいままの観音像が坐した。


「こちらは?」

十八夜じゅうはちや観音だ。登ってくるときに観音堂があっただろう、あそこにも祀られていて、俺たちが『おトヤ様』と呼んでいる観音様だよ」


 窓を開けて空気を入れ替え、申し訳程度だが、床に散らばるものを片付けていく。


「今日は『カミツケ』をするために来た。選ばれたオナカマの巫女に十八夜様の加護を附ける儀式を、お前に執り行う」


 カミツケとはすなわち『神附け』である。仏である観音を信仰して、附ける力が神とはこれ如何にとも思うが、これこそ、日本特有の神仏習合の名残である。現在でも観音像を祀る神社が見受けられるのは、そのためだ。


「けれど、いいんですか? 私は巫女ではありませんし……選ばれるということは、何か資格とかが必要なんじゃ……」

「別に、何にもねえよ。本来は盲目の処女のみが巫女として選ばれ、断食によって身を清めた上で行うもんだが、そういった儀式の行程は基本的に、神の性質やさとりの世界に近づけるためのもの。既に呪われているお前なら、失明する必要も、十日にわたる断食も要らんぞ、喜べ」

「呪われていると言われて喜ぶ人っているのでしょうか……」


 楪は、ふるふると涙目になっていた。

 紲は、蔵から持ち出した梓弓と、トドサマ――竹の棒に紅花染めの絹をボンボンのように纏わせた祭具――に酒を供えて清め、楪を観音像の前に座らせる。


「願い奉るは――」


 声が、岩谷霊場の静けさに吸い込まれていく中、儀式は厳かに執り行われた。











 夜も更け、紲が昔住んでいた家の軒先で、二人は休んでいた。

 おヤチの用意してくれたサンドイッチは、景観からやや浮いてしまうものの、むしろその方が、この霊場と自分たちの日常とを区別してくれるような気がして、安心できた。

 ポットの温かいお茶で一息ついた楪が、にわかに笑いだす。


「ふふっ、なんだか、緊張してしまいますね」

「怖い、ではなく? 一応ここ、噂が広まればちょっとした心霊スポットになりうるんだが」

「むぅ、そういう怖いこと言わないでくださいよぅ」


 彼女は縁側で足をぶらつかせながら、むくれた視線を向けてきた。


「だって、こんな時間に、男の人と二人きりですし。ここ、その人のお家ですし」

「はっ……? ぷっ、くっ、はははははははは!」


 紲はたまらず笑いだした。あまりに体を仰け反らせたせいで、コーヒーが膝に零れてしまう。


「なっ、そんなに笑わなくっても良くないですか!?」

「ひぃ、ひぃ、だって、なあ? 俺の家っつったって、ここ、廃墟だぞ」


 山畑から見渡した夕焼けならばともかく、こんな場所で、そんな発想をするバカがいるとは思わなかった。傑作にご機嫌な脇腹を抑えながら、コーヒーを飲み干す。


「なあ、言っていいか?」

「えっ、何をですか?」

「いやな、お前が座っているところのすぐ右側な、木材が変色しているだろう」

「えっ、ああ、本当ですね。これは……」

「村が滅びたあの日、肉片が飛び散った跡だ」

「ひいいいいいいいいいいいいいいい!?」


 脱兎のごとく飛び上がり、紲を挟んで反対側へと回り込んだ楪は、しきりに手のひらを打ち付けてきた。


「どうしてそういうこと言うんですかっ、どうしてそういうこと言うんですかっ、どうしてそういうこと言うんですかぁっ!?」


 ぎゅっと目を瞑って殴り続けてくる楪は、やがて、ひしとしがみついてきた。


「…………本当に、そんな凄惨な滅び方をされたんですか?」

「本当だ」

「でも、どうして」


 紲は答えあぐねた。

 楪を座り直させ、一服する。


「原因は、ムカサリ絵馬だ」

「それって、私と同じ……?」

「ああ、そうだ」


 空に溶けていく煙草の煙をぼうっと眺めながら、紲は一つずつ、思い返すように話し始めた。


 元々紲は、この里の長の息子だった。いわば、最も一族の血が濃い家系の人間である。

 娘であれば巫女となることはほぼ確定だった。しかし紲が息子であった以上、果たすべきお役目は、巫女として選ばれた娘と、世継ぎを設けるための種となることである。


「その相手が――琴葉だった」


 幼い頃から頭角を現していた彼女は、責任感も強く、里の皆から慕われていた。

 ある時などは、直接、


――許婚とか、お役目だとか、そういうことは関係なく、私は紲のことが好き。


 そう言ってくれたこともあった。自分で言っておきながら、すぐに照れてしまって、しばらく口を聞いてくれなくなるような、可愛いところのあるいい女だった。

 巫女としての力も強く、気立ても良く、料理も美味い。

 はじめは忌まわしき役目だと、自分は種馬でしかないのだと恨んでいた人生だったが、これはこれで、悪くはないかと思うようになった。


「そうして、儀式の日が近づいた。琴葉も、俺も、祝福されていると思っていた。いや、間違いなく、個々で見れば祝福されていた」


 だが、と紲は言葉を濁す。心が軋んで、二本目の煙草に手を伸ばした。


「だが、『俺たち二人が結ばれる』となれば、話が変わってくる奴がいたんだ」

「どういう、ことですか?」

「嫉妬だよ。琴葉には、枝調しらべという妹がいたんだがな。あいつが、儀式を妨害した」


 姉と違って、大人しい娘だと思っていた。家系的に力は強かったようだが、どうしても、姉という三年先を行く天賦の才との距離を埋めることができなかったらしい。


「そこであいつが用いたのが、ムカサリ絵馬なんだよ。自ら命を絶つことで、俺を連れて行こうとしたらしい」


 楪が、膝の上で拳を結んだ。自分の境遇と重ねたのだろう。じっと、祈るように。


「今日は若松寺に行ったが、ムカサリ絵馬の風習は山寺にもあってな。実はその山寺と、この岩谷霊場は、緯度と標高が同じ位置にある」


 岩谷が名実ともに宗教的な霊場として開かれたのは、飛鳥時代。その三百年近く後、平安になってから、慈覚大師・円仁によって、山寺こと宝珠山立石寺が開山した。

 一説によれば、このとき円仁は、太古から霊地として繁栄していた岩谷にあやかるべく、真東の山の同じ標高に山寺を建立したのだといわれている。


「つまり、絵馬に対する霊的な影響は、この土地の方がデカかったわけだ」


 そうした土地的な理由もあって、紲は加護があってなお、黄泉に引き込まれたのだ。


 不意に、楪がはっと目を見開き、口元を覆った。かたかたと歯を打ち鳴らして、ある一点――集落の中心部に視線を向けている。

 その先を目で追って、


「そう、あの時も、あんな風にバケモノが出てきたんだよ――」


 そう言ってから、紲は表情を凍り付かせた。


「……は?」


 集落の中央には、儀式に用いる護摩火の焼け跡がある。炎の上を素足で歩くことで不動明王と一体化し、霊験あらたかな力を修めることができるという、『火生三昧耶法』の概念だ。

 椹の炭で染められた暗澹たる地面から這い出るように、着物姿の女が音もなく現れていた。


「枝調……?」


 見覚えのある貌に、今度は紲は震える番だった。


「何故ここにテメエがいる! 霊道は開いてないはずだぞ!?」

「紲さん……、その……」

「何だッ!」


 ジャケットの裾を引く細い指に、思いがけず語調が荒くなる。申し訳ないが手短に、そして、どうでもいい話であってくれと願う。例えば、恐怖のあまり粗相をしてしまっただとか。


 しかし、楪が口にしたのは、考え得る限り最悪のものだった。


「あの幽霊……私の夢に出てくる、人です」

「何だと!?」


 紲は立ち上がり、印を結びかけて――立ち惑った。

 一瞬、『枝調だったモノ』と目が合う。


『ァ……紲……一緒、ニ、逝コウ? カエロウ?』

「チッ、あの世に仲良く還りましょうってか? 確かに俺は本来そっち側なんだろうが、生憎とお仕事が溜まってるもんでね。是非ともパスさせていただきてえな!」


 強がってはみるものの、ケヒッケヒッと、ガス欠した機械の軋みと、黒板を引っ掻いた音を足したような、不快この上ない声で嗤う彼女に、手が震えて印が組めない。

 シラベは足下の炭を燻ぶらせ、焚き上げた。


「な……」


 首を振る。絶対におかしい。そんなことがあってはならない。奴が火をくべたのは、神聖なる護摩火として用いられたものだ。たとえ炭となり、五年の間放置されていたとしても、幽霊ごときがどうにかできる代物ではない。


 滅茶苦茶だった。憤怒か、憎悪か、あの日と同じ嫉妬なのかは判らないが、シラベは炎を羽衣として君臨していた。

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