あの世へ招く手

 廃墟を後にした紲たちは、国道13号の来た道を戻った。

 天童に差し掛かり、左手に大規模な中古ショップが見えたところで左折。市街地とは反対へ向かう農道を突っ切れば、すぐに上り坂へと差し掛かる。

 この先にあるのが、仁間淳平の友人A――だかBだかは知らないが――が話していた、若松寺である。


 ムカサリ絵馬の奉納を扱う寺院は、北は最上地方の庭月観音、南は松尾芭蕉の『閑さや~』で有名な山寺こと立石寺まで、いくつか存在する。そのうちの一つに天童市は若松寺が含まれていることは紲もよく理解していたため、男の話を信用した。

 絵馬と紲の故郷とは、深い関係があった。

 遺族からすれば、ムカサリ絵馬を描く際に、当人の異性の好みタイプに寄せたいと願うもの。しかし死人に口なし。そこでシャーマンの一派である『オナカマ』を頼り、死者の声を聞いてもらい、絵に落とし込むことがある。

 はるばる里に訪れる者もいたため、紲も幼少期から、絵馬の存在については知識があった。


 そしてあの日も、絵馬によって――。

 舌打ちは、向かい風に掻き消えた。


 案内の旗が立つ方へ曲がれば、道はかなり細くなる。下の駐車場に停めることもできるが、長い石段を上らなければならず、上まで上がるならば、この先は擦れ違いに怯えながら運転する必要があった。

 神社仏閣に限らず、山形にはこういった場所は数多く存在する。ある程度整備されたスキー場への道ならばともかく、伝統的で厳かなる場所などは悉く険道の先である。紲がバイクを移動手段に選んだのも、生業上頻繁に行き来するために、小回りを優先したからである。


 上の駐車場へと辿り着くと、本殿は目と鼻の先だった。


「ここが、花笠音頭にも歌われた若松様だ」

「ああ、『めでためでたの若松様』! そうですか、ここが……地元なのに、全然知りませんでした」


 楪がいそいそと首を伸ばしている。


「そういえば天童住みだったな」

「けれど、一人になってしまいましたし、引っ越しも考えておかないと」

「懸命だな」


 一礼をして、境内に入る。

 全身が静電気の発生源に触れたような、いつもの洗礼に顔を顰めると、楪が心配そうに覗き込んできた。


「どうかしましたか?」

「いや、大したことじゃない……少し思い出したことがあってな」


 にわかに首をもたげた悪戯心に、紲は口元をつり上げた。


「この若松寺は、縁結びで有名なんだよ。『山寺で悪縁を切り、若松様で良縁を結ぶ』という参拝ルートもあるくらいでな。特に驚くのは、『その後』も祈願していることだ」

「その後、ですか……?」

「子供を育てるための母乳だよ。そっちの石段を上がれば本殿があって、女性の胸部を模した『子育てお乳様』という銅像があるんだ。いっぺん見ていくか? でけえぞ、あのおぱーい」

「おぱっ……だ、だからさっきニヤってしたんですね!? お下品ですよ、もうっ!」


 顔を真っ赤にした楪から、肩を引っ叩かれてしまった。

 確かにからかいの目的はあったが、まじめな話、乳房型の突起を貼り付けた絵馬が奉納されているくらい、れっきとした伝統なのだ。


 むくれてしまった楪様に拝み倒しつつ、紲が向かったのは、本殿ではなく離れの社務所がある方である。

 外からも覗くことが出来るようになっている御堂には、ムカサリ絵馬の海があった。壁のみならず天井にまで、大小さまざまの絵馬でびっしりと埋め尽くされている。しっかりと木の板を扱ったものから、額に入れられた絵画、果ては画用紙にクレヨンで描いたようなものまで、様式も自由だ。

 その中に、つい小一時間前に見た絵と同じ――奴からすれば一線を画す傑作だろうが――ものも、奉納されていた。


「あったな」

「……はい」


 楪が神妙な顔で頷いた。その様子を、ただごとではないと感付いたのだろうか、堂の間から続く部屋で檀家だろう客人と話していた住職がこちらにやって来た。


「こんにちは、どうかなされましたか。おや……貴女は、もしや」


 さすが本職。持ち込まれてから日が浅いこともあるだろうが、これほどの数を扱ってなお、絵馬に描かれていた人物を憶えていたらしい。

 楪は頷いて、絵馬を掌で示した。


 人払いを済ませてくれた住職に招かれ、二人は離れに上がらせてもらった。

 事のあらましを話すと、住職は苦渋を舐めたような表情になる。


「そうですか。そのようなことが……」

「はい。巫女を介し、具体的に意中の人物を聞き出してモデルにすることはあるでしょうが、これは明らかな『呪い』です。そこで、絵馬の回収をさせていただきたく伺いました」


 頭を下げる紲に、申し訳なさそうな声がかけられる。


「漆山さん。おそらく貴方も気付いておられるでしょうが……一度奉じてしまった以上、避けられないかと存じます」

「承知の上です。気休めでも縋りたくてね。『この世に御廟楪という女性が描かれた絵馬は存在しない』という事実を作り、拠り所としたいのです」

「ふむ……宗派的な見地として賛否の提示は致しかねます。が、貴方からは随分と強い氣を感じ取れますから、きっと、貴方の言う通りで良いのでしょう。失礼ですが、何者なのですか。ただの探偵さんという訳ではないのでしょう」

「私は、岩谷いわやの末裔です」

「オナカマの……! そうでしたか。噂は聞いておりました。その節は」


 深く頭を垂れた住職を、紲は驚いて引き留めた。


「もう過ぎたことです。私は今できることをしなければ」

「分かりました。ムカサリ絵馬は、貴方にお預けしましょう。引き下げることをお願いするためにお経を上げますので、しばらく、お待ちいただいても?」


 彼の言葉に頷き、紲たちは一度、外に出ることにした。

 境内を出たところで煙草を吸っていると、楪が沈んだ面持ちで寄り添ってきた。


「せっかく屋外なんだから、副流煙の届かねえ距離にいりゃあいいのに。死ぬぞー」

「その前に、ご自分の健康を考えてください」


 拗ねた上目遣いに肩を竦め、紲はバイクに腰をもたれた。


「さっきの話なんですけど」

「あン?」

「『その節は』って……」

「あー、色々あってな。滅びたんだよ、俺の生まれ故郷。その時に俺は一度死んで、琴葉がああなった」

「ごめんなさい、私……」


 紲は、たたらを踏む楪の頭をとっ捕まえて、くしゃっと掻き回した。


「気にすんな。お前は、まず自分のことを考えろ」


 それから少しして、お経を上げ終えた住職からムカサリ絵馬を受け取った紲たちは、若松寺を後にした。











 異変は、寺の正面から石段を上る側入口――下の駐車場の辺りを過ぎたところで起こった。

 一瞬、バイクのスピード感覚がぶれたような、高級車の加速のようだといえば聞こえのいい浮遊感に包まれる。怪訝に瞬きすれば、そこはもう、霊道だった。


「紲さんっ!?」

「ああ、おいでなすった。大方、式場に姿を見せないお前を迎えに来たんだろうよ」


 まだ夕方にもなっていないというのに、周囲はさっきまでの空を燻したような、仄暗い闇の霧が立ち込めている。

 山の中で人を迷わせる霊道。辛うじて道路が見えてはいるが、このままではハンドルから意識を逸らせないのが辛い。

 ミラーで確認した背後に、ぼやっと揺らめく気配を見る。一体、二体、四体、八体……頭数を増やしていった浮遊霊たちは、あっという間に視界を埋めてしまった。


「ちっ……どうするかねえ」


 仮にチェイスを仕掛けても意味がない。言ってしまえばここは異世界なのだから、幽霊もとから断たねばならないのだ。しかし、チェイスを仕掛けなければ先もない。止まってしまったが最後、面で押しつぶされてしまう。

 体感的にそろそろ見えてもいいはずの交差点どころか、その目印となる案内の旗さえ現れてくれてはいない。

 異界という名の袋小路で鼬ごっことは、やってくれる。


「楪、これを受け取れ」

「えっ? あっ、はい」


 懐から取り出した神札を、腰に回している手に握らせた。


「今から俺が言う祝詞を復唱しろ。梓弓が出てくるから、それで後ろの雑魚どもを射て」

「むむむ、無理ですって!」

「心配すんな、その梓弓こそが、今朝話した『三十三間』を射抜く加護の弓だ」

「せめて弓を出した状態でくださいよぅ!」

「聖なる祭具だから無理だ! 呼び出した者以外が触れれば、たちまち神罰が下っちまうんだよ!」

「ひいいいいい!?」


 問答している余裕はない。アクセルを回して楪の泣き言を振り切り、祝詞を唱え始める。


「――我が身は朱雀門。我が心は高天原。此く宣らば。此く聞食さむ。弓引かば生弓いくゆみ、放たれ給えば天の羽々、正鵠射らば金の箭。十八夜神が加護を賜りし、現世と常世の狭間に棲なる儔よ。種種の罪事、遺る罪は在らじと、祓い給い清め給え。六根清浄。急ぎ律令の如くせよ――現出でませ、『霊弓・梓』!」


 一陣の薫風に乗り、楪の手元に神具が現れた。

 梓弓は文字通り梓の木から作られた弓のことで、ほぼ枝のまま弦を張られたものや、和弓並みに大きいものなど、形状は特別決まっているわけではない。


「思ったよりも、小さいんですね?」

「口寄せ巫女が用いる梓弓は、持ち運びの観点から小弓であることが多いんだよ」


 オナカマの巫女が神具として用いる場合、弓は鳴弦――矢をつがえずに弦を弾いて、魔除けをするために用いる。鏑矢を用いた蟇目の儀もあるらしいが、紲の故郷ではそういったことは殆どなかった。

 もっとも、ただ弦をびんびん弾くだけでは厄災穿つ弓を神具とする意味もないため、琴葉ら巫女候補を中心とした村の子供たちは、正しく弓を射る姿勢を修得するべく、実際に矢をつがえて稽古をすることもあったのだ。


「それで、紲さん……矢は?」


 楪がもぞもぞと身体の位置を変えながら、訊ねた。


「念じて弓に触れれば矢は現れる。今のお前は、ムカサリ絵馬によってあの世に片足突っ込んでいる状態だから、可能なはずだ」

「ええと、念じて、弓に触れる……」


 楪が弦に指をかけると、たちまち煌々と青白の燐光が湧きたち、一条の矢となって顕現した。

 おずおずと引かれた弓が、解放される。

 光陰さえ駆け抜ける一矢は、刹那の間で幽霊の一人を撃ち抜いた。


「おっ、いいじゃねえか。その調子!」


 褒めてやったつもりだったが、しかし、楪の声色は「えー、っと……」と浮かない声を漏らしている。


「今の、狙いとは全然違うところに飛んでいきました。ここでは足踏みさえままなりませんし」

「ご丁寧に射法八節なぞってんじゃねえよバカヤロウ!」


 射法八節とは、弓における一連の射撃動作を段階で示した教えである。直立で射る分には、これが最も適した姿勢作りだった。ただ、乱暴に言えば『緊迫した状況ではない時にぼうっと突っ立って、だらだらと時間をかけて射る分には』だが。

 弓の射程自体は百メートル近いが、それでもスナイパーライフルなどと比べれば半分の長さしかない。さらに、十六世紀の書物を読めば、当時の実践においては『五十五メートル』が限界だとされており、最大射程と有効射程は全く別のものであることが判る。

 つまり、弓はスナイパーライフルではなく、どちらかといえばショットガンに近い代物であるため、じっくりまったり狙いを定めて運用するような得物ではなかった。敢えて狙いを定めず、雨のように射かける戦国時代の戦法は、ある意味理に適ったものだろう。


「俺の背中に身を預けろ。少しは安定する」

「は、はいっ!」


 楪がぐっとかけてきた体重に、紲は気を引き締めた。これが、今、守らなければならないものの重みだ。

 ミラーで状況を確認すると、梓弓から放たれた霊力の矢は、次々に幽霊を討ち取っていくのが見えた。やはり、筋がいい。

 加護を賜っているとはいえ、適当に弓引けば、それは下の矢と化す。どんな飛距離を誇ろうと、どれほどの威力を持とうと、どれほどの弾道補正があろうと、正しく邪に向かわなければならないのだ。楪は、それをしっかりと体得していた。

 追跡者の数も半分程度まで減った頃、周囲の霊道結界に変化が生じた。回り込んだらしい幽霊の一団が、バイクの正面から迫って来る。


「ハッ! 挟み込んだつもりかもしれねえが、むしろ好都合なんだよ」


 紲はサイドカウルの仕込みケースを開き、刀を抜き放った。鞘引きもままならないから抜き打ちの切断力は劣るが、そこは古刀の謂われがカバーする。対怪異においては、切っ先さえ触れてしまえばこっちのものである。

 刎ね飛ばした霊の向こう、一瞬だけ視界の端に捉えた若松寺の案内旗を信じ、紲は刀を納める間も惜しみ、柄ごとハンドルに手をかけた。


「ちぃと揺れるぞ!」

「えっ――きゃあああああっ」


 楪の体が滑らないよう後ろ手に支えながら、強くブレーキをかける。一瞬のアクセル開放で、ドリフト気味に停車。そこは、山の麓に設けられた駐車場の一つだ。


「ここまで広い場所に来りゃあこっちのもんだ。ボーナスステージだぞ、射ちまくれ!」


 楪に声をかけた紲は、自分はバイクから飛び降りて印を組んだ。


「帰命し奉る、螺旋を有する甘露の守護者よ。疫病厄災一切を掃う法行竜を賜したまえ。ナウボウアラタンナウ・タラヤヤ――」


 奉るは、軍荼利明王の真言。シヴァ神の権能シャクティである蛇女神クンダリーニを男尊として渡来させた明王の一尊で、疫病をもたらす毘那夜迦天を調伏するとも考えられている。

 薙いだ刀から迸った水が、押し寄せる追跡者たちに津波の竜となって組み合った。

 竜や蛇の多くが水の性質を有する。釈迦の生誕時にも、二匹の竜が清浄水を灌ぎ、降雨をその身に覆って守護したという逸話があった。水が流れることを「すいりゅう」という音で呼ぶことも、水竜が転じたものだと、紲は教えられてきた。


 軍荼利の使いである竜は長い胴で敵を包み、三回半に螺旋した清めの奔流に取り込んでひとところに集めると、こちらに目を向けてきた。


「楪。お前がとどめを刺せってよ。ちゃんと経験を積ませてくれるとか、良い先生だねえ」

「……どうしてでしょう。何かすごく罰当たりな言い方に聞こえるんですが」


 呆れたとばかりに苦笑した楪は、しっかりと地に足をつけて、弓を引き絞った。ぴゅうっと弦を鳴らして放たれた一矢は幽世の邪を射抜き、雲を押しのけて空へと消えていく。

 やがて差し込んできた日の光とともに、霊道結界の靄が散っていった。

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