ムカサリ絵馬

 軽く昼食を済ませて山形市を発った紲たちは、天童市を越え、東根市までバイクを走らせた。


 大通りから外れてしばらく行った、田畑のある山形ならではの町並みだが、とはいえ、仁間淳平の隠れ家とやらが住宅地の中にあったのには驚いた。てっきり、外れにある農作業小屋とか、その辺りだと思っていたからだ。


 廃墟の前に停まっている車の後ろへとバイクを付けると、車に寄りかかって手帳と睨めっこしていた英が、こちらに気付いて手を振った。


「わざわざ来てもらって、ごめんなさいね」

「これも仕事の一環だからな。つーか、捜査車両で来いよ、GT‐Rなんざ乗り回しやがって」

十三課うちに捜査車両を回してくれないお偉方に言ってくださいー。紲くんこそ、スズキに乗るならハヤブサにすれば良かったのに。刀を仕舞うケースも、薄いカウルじゃ不安じゃない?」

「うるせえ、カッコイイだろうがバンディットのフルカウル。つか、警察様が改造前提で話していいのか?」

「あら、それならまずは登録証のない刀剣の所持についてお話を聞かせてもらってもいいかしら」

「けっ」


 紲がヘルメットをハンドルに引っかけて、高級車のケツを蹴るフリをして見せていると、そっと、英が耳元に口を寄せてきた。


「蹴り傷なんて付けたら、うちの連中で報復カチコミかけるから」

「……せめて器物破損でワッパをかけると言いなさい」


 げに怖ろしきは、正義けいさつの中にいて異物である、十三課かもしれない。考えるだけでも背筋が震える未来へ踏み込むことはせず、紲は廃墟を見上げた。


 二階建ての一軒家。駐車場としても使っていただろう軒先は、コンクリートの舗装さえ見えなくなるほどに草が茂っている。膝くらいはあるだろうか。

 経年劣化と雪に耐えきれず、屋根はひしゃげて風に揺れ、壁もところどころ剥げている。割れた窓から覗く部屋では、積まれた段ボールが湿気て黴が生えていた。住宅地に紛れているとはいえ、心霊スポットとしての噂が立たないことが不思議なくらいである。


「こりゃあひでえな」

「ここに住んでいた人が亡くなって、一人娘も県外に住んでいるらしくてね。権利だけは持っているけれど、扱いに困ったまま三十年近く放置されているんですって」

「かわいそう、ですね」


 楪の呟きに、英が微笑む。

 紲はリアボックスから、日中にスーパーで買っておいたマスクを取り出し、十枚入りのところを、英に三つ、楪に四つ手渡した。


「あら、用意が良いのね」

「むしろ用意しないと危険なんだよ。人が住まないと家が朽ちやすいという理由の一つが、換気不十分による埃とカビの蓄積。知らないうちに気管支炎メアリーとコンニチハだ。本当ならゴーグルも用意したいところだったが……まあ、これだけ窓ガラスも割れていて、仁間淳平が出入りしていたっていうんなら、何とかなるだろう」


 自分の分のマスクを三つ重ね掛けして、紲は玄関に向かう。


「それにしても、こんなに目立つ家なら、人が出入りしていた時点で通報されていたりしそうじゃないか?」

「それがねえ……さっきも言った通り、この家の娘さんはずっと帰ってきてすらいないの。だから、この辺りで父親の顔を知っていた世代の方も亡くなっているし、娘さん世代も幼少期の顔しか知らない。近所の人には事前に、息子とその友人を名乗って挨拶しておいて、当時からたむろしていたんですって」

「まるで詐欺師のやり口だな」


 呆れたものだと唸りながら、玄関のドアを開ける。

 すぐに濁った空気が逆流してきた。火事の時のバックドラフト現象のように、マスク越しにも感じるほどのすえた臭いに巻かれてしまう。よくまあ、こんな中に入り浸れたものである。

 楪たちを足止めし、しばらくドアを開けたまま放置した後で、家に入る。


 一歩足を踏み入れた瞬間、紲は異臭に立ち眩んだ。


「ちょっと、大丈夫?」


 ふら付いた背中を、英が支えてくれる。


「すまん、問題ない。だが、これは何なんだ……?」


 血と鉄の臭いで浸した銀杏を火にかけたような空気が、臓腑にまで染み込んでくる。

 紲は口を小さく開けて、口の端だけで息をするようにした。マスク越しにも真っ当に吸い込んでしまえば吐き戻してしまいそうなくらいに重く、粗悪な渋さがある。


「何、どうしたの」

「人間特有の、負の感情の臭いがする」

「負の感情、ですか。カビ臭いことは分かるんですが……」


 楪たちには感じられないようで、眉を顰めて辺りを窺っている。


「怨念と言った方が解りやすいかもな。昨日のバケモノや、おそらくヤマノケもそうだろうが、あの手の『人を害すことが存在意義そのもの』である輩は、こういう臭いがないんだよ。熊や猪なんかと同じ獣臭さはあるが、あいつらにとって、人を襲うことに悪意はないからな」

「じゃあ、悪意を以て人を害そうとしているナニカがいるってこと?」

「いいや、霊道に引き込まれていないから、それはない。何か強い感情が満ちているだけだ」


 一階の索敵をしていると、英が声を上げた。


「待って、それは変よ。仁間淳平は『結婚に必要なものを作っていた』んでしょう? どうして悪意ある怨念が出てくるわけ?」

「それを知りたいなら、二階に行くしかねえな」


 朽ちている床の安全を確認しながら、慎重に、しかし足早に奥へ進む。怪異の類が出てこないことは僥倖だが、自然的な毒物が空気中を待っているのも気分が悪い。むしろ健康への被害を考えれば、こっちの方がタチが悪いくらいだ。急ぐに越したことはなかった。


 二階に上がると、通路が両手に分かれて、それぞれの先に部屋があった。

 紲は迷うことなく右へ進む。通路に面している窓ガラスを開けておこうと思ったが、フレームが歪んでいてびくともしなかった。


 ふと、何かを蹴飛ばしてしまった感触に、足を止める。


「これは、絵の具か……?」


 部屋の前に転がっていたチューブを拾い上げる。すっかり固まっているそれは、油絵に使われるもののようだ。


「結婚に必要なもの、油絵具……悪意……まさか!」


 紲は舌打ちした。最悪の可能性に行き着いた。


「……っけんじゃねえ、畜生が」


 どうしてそんなことをしでかしやがったのかは皆目見当など付けたくないが、『ソレ』を悪意を以て作ったとなれば、そいつは、その意味を知っている。


「英。仁間淳平は芸術学校を出ていると言っていたな」

「ええ。もしかして、その絵の具が何か関係あるの?」


 静かに頷く。脂汗でシャツの張り付いた背中がすこぶる気持ち悪い。


「紲さん、何か分かったんですか? 何があるんですか?」

「悪い、今開ける。何があるかは、見りゃあ分かるさ」


 紲は顔を顰めながら、意を決してドアノブに手をかけた。

 部屋の内部が、窓から差し込む光に照らされる。舞い上がる埃のレースカーテンでぼかしのかかった向こう側に、おびただしい数の『ソレ』があった。


 拙い。すぐに紲は声を上げた。


「楪、お前は見るな!」


 しかし、時既に遅し。茫然と見開かれた瞳には、『ソレ』らが映ってしまっている。やがて、じわりと潤んで歪んだ。


 英も不快感に表情を歪めている。


「これは……ナニ?」


 部屋の中にあったのは、無数の絵画だった。完全なる一作を求めて、何度も何度も、同じ絵を描き続けていたのだろう。壁に張られているどのキャンパスも、床に散らばっているいずれのキャンパスにも、判を押したように、同じ構図で色が施されていた。

 一体、どれほどの執念があれば、これを成し遂げられるのだろうか。


 絵の内容は、和婚の正装を身に纏った男女のつがいが、寄り添い合って微笑んでいるという、言葉にすればそれだけのもの。古い家なら写真の一つくらいどこにでもありそうな、夫婦の構図。

 問題なのは、そこに描かれている人物である。


「淳平さん、と」


 かすれた楪の声で、紲と英は、男の正体を理解した。

 そして、優しく目を細めている女性の方は――彼女が双子であったり、よほど姉妹が似ているというわけでもなければ、考えられる中でおおよそ最悪の答えだった。


「私……?」


 楪はいやいやと頭を振り、どうして、と座り込んでしまった。


「ハナ。そいつと外に出て待ってろ」


 涙を掬う役は任せ、紲は単身、部屋の中へ踏み込む。探しているものが見つからず、通路を戻って反対側の部屋へ入る。すると、それはすぐに見つかった。

 キャンパスを嵌め込むタイプの額縁の空箱。それを運ぶための紙袋の予備。誰も使わない家だと思い上がり、奴は存分に散らかしてくれていた。

 紲は目を閉じ、深呼吸すると、二人の下へ戻った。


 楪はマスクを外し、過呼吸気味になっている。リアボックスから出した水を飲ませてやると、少し、落ち着きを取り戻した。


「ありがとう、ございます……」

「礼を言うのはまだ早えよ。まず、良い報告と悪い報告があるが、どちらから訊きたい」


 興奮で鼻の穴と肩を大きく揺らしていた楪は、一度大きく息を吸って、震えを堪えている。


「良い報告からお願いします」

「お前が見ていたという悪夢の原因が判明した。悪かったな、ストレスだなんて言っちまって」


 乱れた髪を直してやると、空いた胸元に楪が飛び込んできた。

 抱き締めてやると、ひどく冷たかった。しゃくり上げながら無我夢中で温もりを求めてくる小さな背中を、しばらく擦ってやる。


「……悪い、報告は」

「このままだと、お前は死ぬ」


 腕の中で、楪がびくっと跳ねた。ペットボトルの水が、茂り放題の草の上に堕ちた。

 英がくわと目を見開いて詰め寄ってくる。


「ちょっと、言い方!」

「そうは言っても、他に言いようがねえんだよ!」


 これだから、この生業は困る。大体が「呪われています」「このままだと死にます」からスタートするのだ。どうオブラートに包めば良いのか、五年かけても掴めていない。

 詫びるように、楪の髪を指で梳る。


「ヤマノケは偶発的なものだった。一つだけ言えることは、仁間淳平は最初からトラックに突っ込んで死ぬつもりだったんだ。はっ、王子様が聞いて呆れるよな」


 電話口で英と冷やかしていたことを思い出す。あれは大きな見当違いだった。

 楪の体を、そっと離す。


「あの部屋にあった絵は、『ムカサリ絵馬』と言う」

「ムカサリ、絵馬……?」

「この辺り――山形の村山地方に残る冥婚の風習だ。未婚のまま亡くなったものに伴侶をあてがうことで供養するためのものだな」


 ムカサリとは、『伴侶を迎えて去る』が『迎え去り』となったとか、『迎えられる』という意味の方言だとか、いくつか説があるが、山形を含めたごく一部の地域にのみ見られる世界的にも珍しい風習で、事故や病気など、不慮の死を遂げてしまった者の冥福を祈るために執り行われるものだ。


「じゃあ、何。あの絵を描いた目的は……楪ちゃんを伴侶に選び、自分は結婚式の前に死ぬためだったって言うの?」

「そうだ」


 頷くと、英は「信っじらんない!」と吐き捨てた。


 紲はポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草に火を点けた。

 どこで移り気を起こしたのかは知らないが、仁間淳平はそれを実行に移した。まるでモナ・リザを描くような情念を、この家に蔓延る、どす黒い程の妄執とともに抱えて。


 楪が小さな拳を握り締める。


「……その絵と、このままじゃ私が死ぬこととが、関係あるんですね」

「ああ。本来、ムカサリ絵馬の伴侶には架空の人間を描くもんだ。だが野郎は、こともあろうに生者であるお前の絵を描きやがった。冥婚とはあの世で行われる婚姻のこと。つまり、そこにお前の存在がなければ、婚礼の儀は行えず、矛盾が発生する」


 煙草の煙を吐き出す。肺の中にわだかまっていた怨念の異臭が、ようやく和らいできた。


「だから、花嫁をあの世に呼び寄せるために、お前の悪夢が迫ってきているわけだな」


 楪はぎゅっと目を閉じて、込み上げてくるものを吐き出さないようにしているようだった。

 今、彼女にとって仁間淳平という男は、義理の兄になるかもしれない存在から、自分を呪い、姉を踏みにじった下衆野郎に成り下がった。


「ハナ。例の、相談を受けていた悪友とやらに話を聞きたい。連絡できるか?」

「多分ね。最近羽振りがいいらしいけれど、カレ、無職だから。時間はあると思うわよ」


 英はジャケットの内側に装着したポケットからPフォンを取り出し、操作を始めた。


「こんにちは。お忙しいところすみません、山形警察署の長南です。少々お伺いしたいことがあるのですが、お時間宜しいでしょうか? ――ええ、はい。それでは、すみません、担当の者と代わりますね」


 そう言って、英がPフォンを差し出してきた。

 紲は一度咳払いをして、余所行きの声色を作った。


「どーもどーも、山形県警に捜査協力をしている漆山と申します」

『……何ですか』


 不機嫌さを隠さない声だった。さぞ、英のような若い女の声を聞きたかったんだろうが、ご期待に添わせてなどやるものか。

 余所行きモードなど一瞬で引き下げ、紲は目を細める。


「テメエ、絵をどこに持ってった?」

『は…………えっ、えっ?』

「だから、絵だよ、絵。テメエが仁間淳平から受けていた『相談』ってやつの内容は『自分が死んだら、身内を装って絵を寺に持っていく』ことだろ? 最近羽振りがいいんだってな。いくら積まれた?」

『………………知らねえよ』

「生憎と俺は気が短くてね。話さねえんなら、テメエを呪う」

『は? 呪う? ははっ、何言ってんの、やれるもんなら――』

「――花子、やれ」


 指示を出す。

 すぐに、電話の向こうから、激しくドアを叩く音と、男の悲鳴が聞こえてきた。


「うっさ……音割れしてんぞ」

『なんだよ、なんなんだよこいつら!』

『あーそびーましょー』

『やめろ、やめさせてくれ! 頼むから! マジで!』


 切羽詰まった声の懇願に、紲は一先ず留飲を下げた。

 本来ならこいつも共犯として英にしょっ引かせてやりたいところだが、藁人形の呪いと同様立件はできない。目の前で絵馬を描いたり、寺に持っていく前に「これでお前を呪うことが出来る」などといった宣言でもしてくれていたなら可能性はあるが。


「じゃあ、話せ」

『若松寺だよ、て、天童の! 話したから、早くこいつらを――』


 それだけ聞き出すと、紲は電話を切った。


「花子さんズ、撤収させなくていいの?」

「しばらく遊ばせておけ。大丈夫だ、晩ご飯までには帰るさ」

「鬼畜外道」

「誉め言葉だな」


 笑い飛ばして、紲は楪に声をかけた。


「楪、天童に寄りたいんだが、バイクの後ろに乗る力は残ってそうか?」

「はい、気にしないでください。私も、真実が知りたいんです」


 顔を上げた楪の目には、力強い意志が宿っていた。

 ……折れないといいが。

 紲は彼女から目を離さないと決めて、煙草を携帯灰皿に突っ込んだ。


「なんなら、御廟さんは私の車で移動しましょうか?」

「いや、お前には頼みたいことがある。十三課の連中を動員して、この家の中の絵を残らず焼却処分して欲しいんだ。地獄の沙汰とやらを誤魔化すために、まずはムカサリ絵馬婚姻届けの隠滅を図らないとな」

「普通の火でいいの? ほら、ゴマビ……だっけ、そういう清められたものじゃなく」

「ああ。家の中にあるものは奉納されてないからな。まだ単なる絵だ。護摩火じゃなくても構わないさ。じゃあ頼んだ」


 ヘルメットを被った紲は二本指を立てて、アクセルを回した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る