喪われた婚姻
一度英を見送った後で、紲は自室に戻り、クローゼットから外行き用の皮ジャケットを出して羽織った。
桜の舞い散る時期とはいえ、山形はまだ肌寒い。例年、小春日和さえ訪れぬまま四月を迎えた県民は、今年は期待通りに花開いてくれるのかという一抹の不安を胸に月末を迎える。辛うじて花見ができたと喜んだのも束の間、ゴールデンウィークを過ぎれば台風に梅雨にと雨に見舞われ、合間にじりじりと迫って来る夏の暑さと戦う羽目になる。北風と太陽もかくやの様相だ。
温暖化の影響がどれほど及んでいるのかは知らないが、そんな風にスキップで駆けていく時の中であるから、六月はあっという間に過ぎていく。
ジューン・ブライド。
元々は、西洋の農繁期が開けた時期に挙式が集中したことに由来する。慌ただしい雨期に入る日本では、客入りが減ることへの対策として引き合いに出され、浸透していった概念だ。
過ぎし時間を大切に捉まえ、想い出へと変える祈り。
御廟紫と仁間淳平が心待ちにしていただろう祝福の日は、おそらく、もう訪れることはない。
「結婚、か」
独り言ちて、クローゼットの扉を閉める。
紲にも、かつて結婚を約束していた相手がいた。もっとも、仕来りによる許婚という、他人から決められた組み合わせではあったが。しかし、二人の仲は良かったと思う。
部屋を出た紲は、居間に寄らず、さらに奥の襖を開けた。居間からも続いてはいるが、客人が間違って開けることのないよう、仕切り襖の前を呪いの人形たちで塞いでいる部屋だ。
自らの業を押し込めた、聖域である。
習慣で足を踏み入れ、違和感に気付いた。
『彼女』以外誰もいないはずの部屋に、少女がいる。
楪だった。既にパーカーへと着替え、出かける準備は出来ているようだった。
「どうしてお前がここにいる」
返事はない。
彼女は息をすることさえ忘れているようだった。視線の先には『彼女』がいる。
部屋の中心で、紅花染めの綸子のヴェールに横たえる、白装束の女性。髪は墨を型に流し込んだように滑らかな漆黒で、ほのかに微笑みをたたえて眠る顔色は、揺り起こせば今にも起きてくれるのではないかと思うくらいに潤っている。
肉付きが良い方ではなかったが、紅の中に際立つ白の輪郭は、澄んだ女の強さを確かに残していた。
こうして見比べてみると、楪より少し身長が高いだろうか。
紲はため息を吐いて、目の前の後頭部をとりあえず小突いた。
「あたっ? ……あ、紲さん」
「どうしてお前がここにいるんだ」
「ええと、今朝、取り乱してしまったことが申し訳なくて。だからお出かけする前に、昨日紲さんから聞いていた『呪われたお人形』さんにもお会いしておこうかと思ったんですが」
楪はしおらしく俯いた。
「勝手に入って、すみませんでした」
「いや、俺の方こそすまない。この部屋についても、花子についても。事前に説明をしておけば済んだことだったな」
紲は素直に詫びた。
しかし、どうしたものか。無下に追い払うわけにもいかなかった。誰かに見せるものでもないというだけで、別段ここを禁足地としているわけでもないからだ。
『彼女』は女性ということもあり、込み入った手入れはおヤチに任せているし、マタや花子などは時折遊んでもらっているらしいことを聞いたことがある。おそらく、ヨジロウも既に知己の仲だろう。定かではないが。
半ば意地で、どんな話をしたか、どんな風に遊んでもらったか、彼らに深く訊ねたことはなかった。自分は神仏どちらの力も行使するが、それはあくまで一時的に借り受け賜っているだけのもので、自身が常世やら霊界の存在であるわけじゃあない。
具体的に訊いてしまえば、届くことのない嫉妬に駆られて狂ってしまうかもしれないことは、さすがに自覚していた。
「この方は、本当に人形なのですか?」
楪の声で我に返る。
「……ああ、そうだ。ヨジロウの言葉を借りれば、『生骸』と呼ぶのが適当か」
「私には、眠っているようにしか見えないのですけど」
「その感想は正しい。実際眠っているんだからな。永遠に、だが」
努めて茶化すようにニヤリとして見せたつもりだったが、期待していたリアクションとは異なり、楪は目を伏せた。
「大切な人、だったんですね」
紲は目を丸くした。
どうしてこうも、彼女は。べそっかきでビビりで、ちょっと難しい話をすれば頭が煙を上げるアンポンタンの癖に、勘だけは鋭いと来ていやがる。
頭を掻く。紲は白旗を揚げた。助手として雇った以上いつかは来た時だったと、
「
「琴葉さん! わあ、素敵なお名前ですね」
楪は興味津々といった様子を隠しきれないらしい。
「どんな人だったんですか」
紲は思わず笑みが零れた。そんなもの、常に瞼の裏にいるのだから、思い出すまでもない。
「おせっかいで、口うるさい、自殺志願者だよ」
「嘘ばっかり。ぜったい、そんなこと思ってませんよね?」
「やや捻じ曲げてはいるが、事実だよ。……ああ、分かった、分かった。撤回するから、その鬱陶しいふくれっ面をこっちに寄せるな」
両手で挟み込むように、楪の頬の空気をくしゃっと潰して突き返す。
「そうさな。笑い顔の愛らしい、佳い女だったよ」
幸いなことに、最後に見た琴葉の表情も、笑った顔だった。
――貴方は、いきなさい。
そう言って、彼女は逝った。
一度少し歯を見せるくらいに笑ってから、すぐに気恥ずかしそうに下唇を噛んで、またはにかむ。そんな笑い顔には、いつも救われていた。
「あとは、弓が得意だった。三十三間堂の通し矢もびっくりの距離から、山を歩く猪を仕留めることができたくらいだ」
「えっ……三十三間堂の通し矢って、百メートル以上あるじゃないですか。私なんて二十八メートルでも苦戦しているのに……」
「なんだ、詳しいな?」
「母が弓道部出身で。霞城公園の弓道場で、教えてもらっていました」
楪が謙遜したように言う。
「でも凄いですね。その距離の動く的に当てるだけでなく、仕留めてしまうなんて」
「まあ、
「それでも十分すぎるんですけどぉ……?」
「仕方ないさ。学生とは修行の環境が根本的に違うんだから」
がっくりと肩を落とした肩を叩いて励まし、そのままくるりと反転させた。
「あっ、ちょっとまだ聞きたいことがいっぱい――」
「閉店だ。そろそろ出かけねえと、ハナとの約束に間に合わんぞ」
「そんなあ!」
ずずずい、と渋る足を部屋の外に押し出していく。
去り際、閉める襖の隙間から琴葉を窺ったが、当然、動くことはなかった。自分がそうであるように、嫉妬で飛び起きてくれるという夢も、現実になることはなさそうである。
漆山家の食卓を支えているのは、家から山形駅を挟んで向こう側にあるスーパーだった。田舎には珍しく二十四時間営業を継続できる店で、紲のような不規則な生活リズムの人間にとっては心強い味方である。
普段はバイクで乗り付けるところだが、今日は楪に道を覚えてもらうべく、家から徒歩十五分の道をぼちぼち移動することにした。
コンビニや郵便局はもちろん、近所のケーキ屋に始まり、駅前通りに合流したところのカフェや甘味処を紹介しつつ、ゆったりと練り歩く。
「七日町なんかには来たことがありますが、きちんと大通りを歩くのは新鮮ですね」
「こちとら、ぶっちゃけ説明することは殆どねえと思ってたんだがな」
「ほら、天童にはイオンモールが出来たでしょう。あっちで済んじゃうんです」
「あー……そうだったな。俺の学生時代なんかは、こっちまで来ないと何もねえってレベルだったんだが」
「ふふっ、おじさんみたい」
人聞きの悪いヤジは鼻で笑い飛ばす。
そういえば、例の天童のショッピングモールができたのは、ちょうど自分が学校を卒業した直後辺りだったか。里にいても情報は入ってきていたから、一度行ってみようと、琴葉との約束もしていたことを憶えている。
その約束は、数日もしないうちに泡沫へと消えてしまったが。その泡沫があぶくのように沸いてきて、悪夢として枕元に立つようになってから、もう五年になる。
「昨夜はよく眠れたか?」
「はい、怖い夢も見ずに済みました。おヤチさんが一緒に寝てくれたからでしょうか?」
「むしろ物怪と寝てる方が悪夢だろうな」
「言いつけますよ?」
口笛を吹いて空とぼけると、楪がくすくすとほころんだ。顔色も随分と良くなった。
やはり、ストレスが原因だったのだろう。安心して食事をとり、安心して眠ったことで和らいだのだ。そう考えれば、なまじおヤチのおかげと言えなくもないか。
もう、そっちの心配はしなくて良さそうだ。
「おヤチさんはお手伝いさんなんですよね。買い出しの担当は紲さんなんですか?」
「ほう、俺と買い物は不満そうだな」
「ああいえ、その、違うんです。そんなつもりは!」
「冗談だ。しようにも出来ないんだよ。あいつらは」
慌てて否定する楪を落ち着かせて、紲は続けた。
「あいつらが
「へえ、随分と不便なんですね。かわいそう」
「あの手合いに情を移すとロクな死に方できねえぞ」
「ふふっ、紲さんが言っても説得力ありませんね。それに、おヤチさんたちなら大丈夫ですよ」
そんな風にはにかんだ楪は、ふと、何かに気付いて目をきらきらとさせた。
「ああ、この辺りの道は知ってます。山交ビル!」
見上げていたのは、駅前通りのランドマークにもなっているビルである。県内陸部の交通事業のほとんどを担う大企業・
二階にアニメ専門店が入ってから、若者の出入りも随分と多くなった。
楪もそのクチかと思ったが、意外にも彼女は、あっさりと背を向けた。
ぱたぱたと道路際まで駆け寄って、対面の宝石店を、もの悲しそうに見つめている。
「お姉ちゃん、あの店で指輪を作ったんです」
「……そうか」
「お姉ちゃんが話してくれたことがあるんです。運命の人とは既に赤い糸で結ばれているはずなのに、どうして指輪を付けるのか、って」
「何故だ?」
訊ねると、彼女は想い出を慈しむように言った。
「繋ぎ止めるためです。月下老という神様が結んでくれた糸は決して切れないけれど、繋がっている人間の指の部分は切れてしまうから、指ごと繋ぎ目を守るように、赤い糸を輪っかで覆ってやるんだ、って」
興味深い解釈だと、紲は感心した。
月下老という神の名以外は、原典とされる逸話からはかなりずれている。しかし、不思議と温かく腑に落ちた。
愛の誓いとは、おぼろげで儚いものだと、人は云う。だからこそ、未熟な自分が宣り上げた誓いが永遠のものであってくれるように、大事に大事に、守ろうとするのだろう。……時に、その保護を外してでも不貞を働こうとする輩もいるが。
ああ、と紲は目を閉じた。
ヤマノケは、人を壊すことで、御廟紫の赤い糸を外してしまったのだと。
目を開ければ、宝石店の中では、まさに今、婚約指輪を作ろうとしているだろう男女が幸せそうに笑っている。
楪が眩しそうに目を細めた。
「あの人たちは、ちゃんと結ばれるといいですね」
「何を他人事のように。お前があの場所に座ったっていいんだろう? お前にだって、誰かと結ばれた赤い糸があるはずだ」
「無理ですよ」
あっけらかんと、彼女は呟く。
「お姉ちゃんのことを考えたら、どんな顔をして指輪をすればいいのか、分かりませんし」
強気に固めた頬を、悲しみが粒となって伝っていく。
紲は見ないふりをして歩き出し、ついでに楪のパーカーの帽子を押し付けるように被せた。
「あわっ、何をするんですかー!」
「手ぶらが退屈だったもんで、つい手遊びをな」
後から小走りで寄ってきた足音に、歩幅を緩めて、やがて並ぶ。
紲は何も言えなかった。「勝手に姉を殺すな」だとか「必ず助ける」といった慰めを口にすることは容易だったが、ひどく無責任に感じた。
おそらく楪も、もう解っているようだったから。
依頼を聞いて以降、敢えて口にしなかったこと――姉の死を。
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