だから、さよなら。
「ごほっ、かは……」
梓弓を取り落とし膝を突いて血を吐いた紲は、舌打ちをしながらも、笑った。胸を焦がす痛みも、今は至極清々しい。楪の方が上手くいっていることを教えてくれていたからだ。
シラベの肩越しに、邪を引き連れて座に昇っていく焦熱竜が見えた。
「……バカヤロウどもが」
ほんに呆れたものである。
「ったく、せめてこっちのドンパチが終わるまで、余力を残しておくくらいの気遣いはできねえのか、あいつらは」
『紲ァ……紲ァ……ケヒッ』
「五月縄えよ、バカヤロウ」
紲は立ち上がり、タバコに火を点けた。焼けた肺に、タールの絆創膏が少し沁みる。
「大体、テメエもどうなってんだ。倶利伽羅剣も効かねえ、八雷も効かねえ、梓弓も効果がねえ。六面六臂六脚の力を借りて、レベルを上げた
六面六臂六脚の守護者・大威徳明王の真言も通用しなかった。シヴァ神がシャクティのうち最も強暴な『パイラヴァ』と呼ばれる存在が転じたもので、インドの神話に於いて『水牛を押し止める者』とも呼ばれる破邪の膂力さえ、押した相手が糠ならば厳しいようだ。
『ケヒッ、クヒッ、ケヒヒッ』
追い詰めたと思っているのだろう、じわじわとにじり寄りながら、シラベが嗤う。
琴葉に似た顔で残忍な貌を作られるのは、無性に腹が立った。
「流暢に喋れるようになったかと思ったら、さっきからそればっかりだな。死神と融合して、精神がイッちまったか?」
せせら笑ってやってから、ふと、紲は思いとどまる。
「……待てよ? 巫女はそもそも、神の力を附けられることで成るモンだよな。まさか、テメエ、まさか! 死んだことで神性と融合してやがんのか!?」
シラベが薙いだ鎌を飛び越えながら、紲は駆け出し、朽ちた家屋を盾にした。
気付いてしまった。心臓が高鳴る。呼吸が浅くなる。無駄に体力が削られる。
追い縋る鎌が家の柱を断ち切ってしまうが、この際気にしていられない。後日改めて、酒でも持って謝罪にくればいい。あるいは、『生霊返し』と『火生三昧耶法』の代償で死んだ後に直接出向くべきだろうか。
おヤチたちが行使した禁呪も、その殆どが彼ら本来の力を供給源としたものだが、一部には紲のそれも含まれていた。二つの代償、どちらも値引きしてもらったものとはいえ、調子に乗って買い続ければ、あっという間に予算を超えてしまう。
だが、座して死を待つことに甘んじるのも、性に合わない。
「……あいつらがやってのけたんだ。俺もカッコ付けねえと、締まりが悪いやな」
煙草を吹かしながら、紲は目を閉じ、頬を叩いた。
地縛霊と化した珠ケ谷枝調が、死神と性質を混ぜ合わせているのならば、どちらの攻撃も不干渉のまま潰えてしまうことの納得はできた。
そこまで判ってしまえば、あとはやるかやらないか、それだけの問題だった。
――片目や腕の一本でも、贄の印として差し出せば、山の神に帰ってもらうことができる。
楪に説明した言葉を、口の中で今一度反芻する。
「皮肉なもんだな。マジで実行することになるなんてよ」
軒の影から飛び出し、こちらを探して彷徨っていたシラベを呼び止める。
否。
「用があるのはそっちの方だ、ヤマツカミ様よ!」
そう言うと、シラベの体がぴたり、と止まった。
「なるほど、言霊は聞いてくれるってわけかい。いいねえ、話の通じる奴は好きだぜ」
死神とは即ち、冥府の神。冥府とは即ち、黄泉の国。
一般的に死神といえば、大きな鎌を所持した幽鬼のことがイメージされるが、それは元々西洋発祥の概念である。年月を経る内に転じて、今では三途の川の船頭が鎌を携えているような話もあるが、これもまた、誤りであった。目の前のシラベが鎌を振りかざしていたのも、こうしたイメージの変化故。いわば、神がそう在るという口伝が信仰の要素となり、そうした性質になっているのだろう。
だが、そもそも死神は『あの世』から来るものではない。閻魔は死者を裁く者であり、死を司る者ではないからだ。目を向けるべきは黄泉の国。こと日本においては『黄泉大神』ことイザナミノミコトがそれに当たるとされていた。
そして、この地に縛られ呪怨を振りまく枝調と性質を融合させるのに適うのは、イザナミを源流とする山ツ神だろう。
――ア……ァ……母さん。
そりゃあ、スサノオが日夜号泣するほどだ。首無し男でなくてもマザコンになるはずである。
「六根清浄。種種の罪事、遺る罪は在らじと、祓い給い清め給え」
唱え上げて、紲はおもむろに、手のひらを掲げた。
「頼むから、しっかりと喰らい給えよ?」
指を右目の眼球の下から突き入れる。家族が眠りについた今、自分にとっては用を成さないものとはいえ、口寄せの代償に死と繋がり続けた眼だ。自分で言うのもなんだが、最高級の食材と自慢できる逸品である。
「――ッ、くっ……」
脳味噌が弾け飛んだのではないかと思うような鋭い痛みが全身を襲う。火花が散り、視界が白む。本日は快晴也、だ。
「があ、あああ……」
歯を食いしばれば頬に力が入り、動きづらくなるというのだから質が悪い。
悶えながら眼球を引きずり出した紲は、上手く千切ることのできない視神経の筋は、その辺りに落ちている祭具の矢尻で断ち切った。
「はあ、はあ……はあ、はあ…………ほらよ」
恭しく放り投げた供物は、シラベの体の中に吸い込まれていった。
にわかにまばゆい光が起きたかと思うと、次に紲が視認できた時には、そこには無手で呻く枝調の霊だけがいた。
燻ぶる護摩火の羽衣もない。御大層な鎌もない。
「どうやら、やれた……みたいだな」
意識も朦朧としかけている中、紲は印を組む。
「帰命し奉る、揺るぎなき不動の守護者よ――」
『ァ、ァア……紲、紲ァ』
「ったく、女に名前を呼ばれて、こんなに怖気がすることがあるとは思わなかったぜ」
悪態をついて、倶利伽羅剣を振り被る。
枝調の霊を始末した紲は、手近な家の壁に背中を預けて座り込んだ。どんな経緯があれ、見知った顔を殺すことには、拭いきれない胸糞の悪さがある。
煙草を咥えて、火を点けた。動く気力も残っていない。
右目をぶっこ抜いてから耳鳴りが続くせいか、向こうの音が聞こえないが、楪はどうしているだろうか。
このまま、一人で帰れるだろうか。
「まあ、短いスパンで二回も登ってんだ、帰り道くらい分かんだろ」
力なく笑って、吸殻を土で揉み消す。
夜空でも眺めようかと顔を上げた時、紲は信じられないものを見た。
『ァ……ァア……………』
「おいおい、うっそだろ」
枝調を葬った場所から、再びシラベが這い出ようとしていた。
ご丁寧に護摩火の羽衣を纏い、夜の星明かりを集めて鈍く濡れる大鎌を携えて。
「はっ、ははっ……」
思わず、乾いた笑いがついて出る。
「何か? 死んでから、また融合したってことかよ。嗚呼、そういや姉を屠り、村を滅ぼした大罪人だっけな。どんだけ業が深いんだよ、テメェは」
永遠に黄泉の使いとして縛られる輪廻こそが、『ムカサリ絵馬の呪いを仕掛けた側』の末路なのだろう。だからこそおヤチたちは、禁忌の呪法を以て、仁間淳平を不死たらしめる呪いそのものを焼き屠したのだ。
だが、末端の結婚志願者を潰して回ったところで、大元である式場の営業は続く。
紲は天を仰いだ。立って戦う余力がない。せいぜい、二の太刀くらいまでが限度だろう。
ただ、もう一方の目を差し出せば、戦うのに支障が出る。手足を捧げれば、倶利伽羅剣は振るえない。そして何より、そうしたところで、またシラベが復活するのであれば、意味がない。
万事休すか。
「すまねえ、楪。お前を守ることはできなさそうだ」
目を閉じる。
『なあに? 随分と弱気じゃない』
「――なっ?」
気が付けば、光の中にいた。
霊道のような不純物は一切が取り払われた、精神が落ち着くような淡い光だった。
『マタくんがチクってくれたぞ。貴方、あの子の告白、断ったんだって?』
振り返る。
五年ものあいだ、横たえた姿しか見たことのなかった少女が、そこにいた。
「琴……葉……?」
『はい、正解。大きくなったね、紲』
彼女はからからと笑って、紲をぐるりと観察するように回り込んだ。
琴葉には視力がない。それでも何故だか、里の巫女候補者たちは皆、盲目であっても日常生活に不便はなかった。
曰く、感覚が研ぎ澄まされているのだという。古から続く霊場という環境も相まって、完全ではないにしろ、千里眼のようなものを体得しているのだと、昔琴葉が話していた。護摩火渡りを笑った紲も、これには不思議と納得していた。なにせ、先々代の巫女でもあった師匠の拳骨は、どれほど逃げ回ろうと、外れたことがなかったのだから。
「どうしてお前がここにいる」
『忘れちゃった? 楪ちゃんにカミツケをしたのは貴方でしょう』
「な――」
想定外の答えだった。あの時はただ、ムカサリ絵馬の呪いに囚われた楪を出来得る限り守るため、神聖な加護を附けることしか考えていなかった。
『カミツケは、私たち巫女の通過儀礼。わずかだけれど、確かに、おトヤ様の御加護があの子に附いている』
「成程、そうか……ここは岩谷霊場、氣は最高峰に満ちている。あいつは一時的に巫女として覚醒したってワケか」
拳を握り締める。場所が限定されていることが幸いだったが、もしかしたら、自分は楪を最悪の境遇に巻き込んでしまったのかもしれない。
――これからも楪を、よろしくお願いします。
今もなお仏間に安置している彼女に、なんと詫びればいいだろうか。
『ごめんなさいね』
そう言って、琴葉はこちらの手、手のひらで包んできた。爪が食い込むほどに力の籠もった紲の指を、一本一本、そっと子供をあやすようにほぐしてくれる。
『ずっと、紲と言葉を交わしたかったのだけれど。代償を払ったはずの私が、枝調の口寄せで元に戻っているなんてバレたら、紲ごと消え去ってしまうかもしれないって、ヨジロウさんが教えてくれたの』
「全部知っていたのか……あのジジイ」
最後まで胡散臭い野郎だった。
『こらこら、恩人にそんなこと言わないの』
こつんと、じゃれるような拳骨が額に触れる。思えば、琴葉の鉄拳制裁も百発百中だったか。
『紲が話しかけてくれていたのは、ちゃんと、聴こえていたよ。まあ? 欲を言えば? 毎日通ってほしかったかなあ』
「そいつは悪かったな」
触れ腐れてやると、彼女は勝ったとばかりに小躍りした。
こうして動いている琴葉を見ると、幸福感に包まれる一方で、紲は、底知れない不安に苛まれていた。
おヤチの話では、口寄せをかけた枝調の影響で、琴葉の魂が浮き沈みをしているということだった。そこに琴葉の言葉を合わせれば、今、彼女は蘇っていて、じきに紲は、彼女を起点とした反魂の口寄せを取り上げられ、消滅することになる。
ああ、そうか。ここが、死後の世界というやつなのかもしれない。
『それで、話を戻すけれど。どうして楪ちゃんの告白、断ったの?』
「お前には関係ねえよ」
『むう、そういう言い方、良くないと思うぞー』
子供を相手にしているような口調で、琴葉がこちらを覗き込んでくる。
『私のことを引きずっているなら、それは違うわよ? だって私、死んでるもの』
「ああ、知ってる」
『じゃあ猶更だ』
しゃきっとしなさいと言わんばかりに、平手で尻を叩かれた。
『それにね。楪ちゃんが紲のことを好きになってくれて嬉しいんだ、私』
「嬉しい?」
『貴方がそれだけ魅力的だったってことでしょう? 枝調だってそう。あの子の場合は……やり方を間違えてしまったけれど。自分の愛した人が、他の女性にも好きでいてもらえるって、もの凄く幸せなことなの』
「よく分からないな。そういう場合には、嫉妬に駆られたりするもんじゃねえのか」
『くすくす。まだまだ、乙女心のお勉強が足りませんなあ』
からかうように喉を鳴らして、くるりと着物の裾で弧を描いた琴葉が、こちらに向き直った。
じっと見つめて微笑み、そのくせ気恥ずかしくなって下唇を噛み、またはにかむ。
夢にまで見ていた、笑い方だった。
『好きよ、紲。だから、さよなら』
「……………………」
『もちろん、私のことは忘れないで欲しい。けれど、それで貴方の時が止まってしまうことは、辛いもの』
そう言って彼女はつま先を伸ばし、頬に唇で触れてきた。最後のキスだった。
『貴方は生きなさい』
「そうは言ってもな。枝調をどうにかする手段が、皆目見当つかねえんだ」
『なあに、自信ないんだ?』
くすくすと笑って、琴葉は身を翻す。
『ムカサリ絵馬の呪い。それで、私たちの全てが繋がっている。貴方の力も、今、貴方が健気に耐えている、禁呪の代償も。山の神を帰して、枝調と私の繋がりをいくら切っても、私がこの世に引っかかっている以上は、ダメみたい』
だから、と琴葉は、一点の曇りもなく、笑って見せた。
『私を――私と紲を結ぶ糸を、断ちなさい』
その言葉に突き放され、紲は意識を取り戻した。
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