重い温もり
目の前では、まだシラベは地面から這い出しきっていなかった。
時間は然程経過していないらしい。だが、随分と身体は楽になっている。
紲は立ち上がり、刀に倶利伽羅の炎を奔らせた。
左の手を掲げ、薬指だけを立てる。
やるべきことは分かっていた。
あの忌まわしい日に枝調と結ばれた、冥婚の運命を示す赤い糸。
これを、現世と常世の狭間で引っかかっている琴葉との繋がりごと、断つ。
「さよならだ、琴葉」
紲は立てた薬指を刃にあてがい、勢いよく切り落とした。
『ァ、ァ……イヤアアアアアア――――――――』
金切声の断末魔がつんざき、枝調の体が夜に掻き消えていく。
最後に一瞬ちらついた彼女の素の表情は、ただ申し訳なさそうに、悲しく笑っていた。
「今度こそ眠れ、永遠に。顔は見せに来るからよ」
胸の痛みがすっと楽になった空白に、後悔にも似た感情が湧き上がったが、紲は煙草を一本加えると、そこに火を点けた。
いつの間にそよいでいた自然の風に、吐いた煙が運ばれていく。
これでいい。紲はそっと目を閉じた。
両目から伝う涙には、何でもないフリをして。
広場の方まで出ると、楪がぺたんと座り込んでいた。
「何してるんだ、ンなところで」
「あ、紲さん……」
泣き腫らした目を見て、思わず噴き出す。
数分前の自分を棚に上げたくなるほど、よく泣く女である。もっとも、その涙の理由が他人に向けたものだというのだから、羨ましいことではあるが。
「目は視えているか?」
訊ねると、楪は悪戯がバレた子供の用にはにかんだ。
「えへへ、やっぱりバレてましたか……」
紲は小さく溜め息を吐いた。あのおせっかいは、やはりこちらにも来ていたらしい。
「見えていることは見えてるんですけど、輪郭もかなりぼやけちゃってて。実は、もうこのくらいまで近づかないと紲さんのお顔も――」
このままキスをするのではないかというところで、楪が硬直した。
しかしどうやら、その理由は乙女の恥じらいとやらではないらしい。
「って、うえぇ!? どどど、どうしたんですか、その目!」
「至近距離で叫ぶな、やかましい。ちょっと抉ったんだよ」
「えぐったあ!?」
がーんという効果音が鳴りそうなくらいに、楪の体がふらりと傾く。
受け止めると、ひしとしがみ付いてきた。
「そういうことしないって……約束したじゃないですか」
「アドリブだったんだから仕方ねえだろ。それに、今回はテメエだって琴葉の力を使ってそんなことになってるんだから、おあいこだろうが」
「それはそうなんですけどぉ……」
ぐずる頭を撫でてやる。乱暴な物言いをしてしまったが、今後のことを考えれば、片目は健在である自分よりも、大変なのは彼女の方だろう。
「とりあえず、帰るか」
「あ、はい……あわわわっ?」
背中を向けて、小さな体を背負い上げた。
死と繋がる力を失って明王の真言も使えない今、満身創痍の体で山の斜面を降りるのは骨が折れそうだが、ゆっくりと進めば問題はないだろう。
「……琴葉さんが何て言ってたとか、聞かないんですか?」
唐突に、楪がそんなことを訊ねた。
「ンなもん聞かなくても分かる。どうせ謝ってたんだろ」
「うわあ、そういう以心伝心、ちょっとジェラっちゃいますね」
「降ろそうか?」
「うわあ、ごめんなさいごめんなさい!」
紲は顔を顰める。だから耳元で声を上げるのはやめろと。
しばらく黙りこくってから、彼女はぽつりと言った。
「……それだけじゃなかったんですけどね」
「そうかい」
敢えて、その内容は聞かなかった。
どうせ、聞かなくても分かることだから。
「すみません。紲さんの方がひどい怪我なのに、おぶってもらって」
斜面に差し掛かった時、楪がそんなことを囁く。
「何だ、藪から棒に。殊勝な声色しやがって気持ち悪い」
「…………重い、でしょう?」
「ああ」
即答すると、またも耳元で「はあっ!?」と叫ばれた。ヤマツカミに差し出す代償は耳にするべきだっただろうか。
「んもう。そこは嘘でも、軽いと仰ってくださいよう!」
「嘘は言わない主義だ」
「がーん……」
わざわざ声に出してまで主張してくるほど、悲愴な現実だったらしい。
紲はため息を吐いた。まったく、普段あれほどやいのやいの言ってくるのだから、こういう時くらい、こちらの意を酌んでくれても良いだろうに。
仕方がないから、言葉にすることにした。
「まあ、安心しろ。お前が訊きたい方の意味では軽い」
「意地悪です。とって付けたように……」
「主語を付けなかったお前が悪い」
笑い飛ばす。
山畑のところまで戻ってくると、雲一つない空に佇む満月が美しかった。街は眠りについており明かりもほとんどないため、余計に際立って見える。
放置していたリュックを刀の鞘で吊り上げ、肩ひもを腕に絡める。水筒と弁当の空箱程度しか荷物もなかったため、たいした負担も増えなかったのはありがたい。
「お月様、綺麗ですね」
「ああ」
彼女にどれほど視えているのかは定かではないが、うっとりとした吐息が、世辞や方便からのものでないことを示していた。
「少し、眺めていくか」
そう言って紲は楪を降ろした。首に回されている腕は名残惜しそうだったが、この後もまたおぶることになるからと宥めすかすと、ようやく彼女は微笑み、隣に立った。
しばらくその場に留まり、星の瞬きにたっぷりと目を凝らす。
おもむろに、楪が口を開いた。
「あの……紲さん」
「どうした。目、辛いか?」
「あ、いえ、お構いなく。って、そうではなくて、その……私が聞きたかった方じゃない答えの意味を、教えてはくれないんですか?」
少し拗ねたような囁きが耳にこそばゆい。やればできるじゃあないか。
「さっきみたいに背中にお前の鼓動を感じていると、その想いや、生きるという意志の大きさが伝わってくる。とてもじゃないが、軽くなんて扱えないさ」
本心からの言葉だった。
楪がそっと肩を寄せ、首をもたれてくる。
「いいのか?」
「へっ?」
「つまるところお前は今、『重い女』と呼ばれて喜んでいることになるんだが」
「なっ――いじわる、いじわるっ! ほんっと一言多いっ、もう少しムードというものを大事にしてくれてもいいじゃないですか!」
「はははっ」
じたばたと肩を小突いてくるげんこつを受け止める。
小さな手だった。
こんなにも細く脆いもので踏ん張っていたのか、こいつは。本当に、女の細腕とはよく言ったものである。
「あっ……」
ほら。こうして引き寄せれば、容易く重心を失うのだ。
だから、こちらが地に足をつき、確かな重心の軸を構えて受け止めてやらなければならない。
空いた手で、そっと額の髪を梳く。汗と涙でしっとりと張り付いた戦士のそれは、ひとつ指を滑らせるごとに、可憐な少女のものへと戻っていく。
思えば、出逢ってからこっち、憔悴した顔色しか見たことがなかったか。月明かりに照らされた彼女本来の美しさが眩しくて、目を細める。
吸い込まれそうだ。大きく視力を失っても、澄んだ水晶は淀む気配もない。
「紲さ――」
楪の言葉を塞ぐようにキスをした。もう彼女からは十分に伝えてもらっている。あとは、こちらの答えを告げるだけ。
肩を抱き寄せ、さらに深くへと楪を迎え入れる。どうしようもないほどに軽く、重かった。
これからも一生、この荷物を背負って生きていきたいと願ったら、彼女は笑ってくれるだろうか。ヨジロウたちは祝ってくれるだろうか。琴葉は、喜んでくれるだろうか。
いや、詮無いことか。
今はただ、背中に伝わる
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