エピローグ - 糸結び

 楪の呪いが解けて一か月が経った。

 視力の低下も、彼女一人で買い物ができるほどに慣れてきたようだ。いつ完全に光を失うだろうかと不安だったが、琴葉も、その辺りは加減してくれていたらしい。


 それよりも紲にとって、あの日、家に帰ってからの数日が大変だった。御廟紫と結の葬儀の間は忙しさに誤魔化すことができたものの、その後右目のことだけでなく、左の薬指をも失ったことがバレてしまい、暫くの間一切口をきいてもらえなかったのだ。

 なんとか機嫌を直してもらった後は、生活のほぼすべてをリハビリに費やした。なにせおヤチもいなくなった家だったから、全てが目まぐるしかった。


 自分は平気だと思っていたのだが、薬指のない弊害は思わぬところで訪れた。食事の時に茶碗が滑るのである。人差し指と中指を底面に引っかける持ち方に変えたのだが、それには未だに慣れていない。失った右目については、雨の夜に疼くくらいだったが、放置すると空の眼孔を収縮させて顔の形が歪むらしく、俺のイケメンっぷりが損なわれてはいけないと、すぐに義眼を用意してもらった。ただやはり、鏡に映った双眸に違和感は拭えない、現在は楪の提案もあり、顔の右半分の髪を伸ばしているところである。将来禿げた時には……いや、考えるまい。


「そんなこんなで、なんとか平穏無事に生きているよ」


 琴葉の墓前で、紲は独り言ちた。

 今日は英も加えて、岩谷霊場にやってきていた。五年間頑として作らなかった琴葉の墓を、他の里の仲間のものと並べる決心がついたからだ。


 楪は端の方に置かれた、真新しい墓石の前で手を合わせている。

 墓前には御廟家と刻まれていた。

 御廟紫と御廟結の葬式の後、遺骨をどうするかという課題が生まれた。事故で死んだ両親の方ならともかく、呪いにあった者を弟の墓に入れたくはないと、楪の父の兄――本家筋に当たる叔父が猛反対したのだ。

 困り果てた末、自分と楪のどちらから提案したかは憶えていないが、琴葉と同じ場所に眠らせようと、こうして山の上に建ててもらった。


「無事、弔うことができて良かったわね」


 お参りを澄ませていた英が、目を細くした。


「ああ。何から何まで世話になった。仕事のことも」

「別に気にしないでいいわよ、そんなの。むしろ世話になるのはこっち」


 琴葉との繋がりを断ったことで力を失った紲は、まず廃業を覚悟した。しかし英に打ち明けると、アドバイザーとして契約を続ければいいと、何の気もなしに言ってくれたのだ。退魔師として動けずとも、情報があるだけで助かるのだという。

 個人的に依頼を受けることができなくなったから収入は減るだろうが、十分過ぎる待遇だ。


「ま、気が済まないのなら、この後ご飯でも奢ってよ」

「いいですね。久しぶりにお外のご飯です」


 やってきた楪を、紲は腕を伸ばして迎えた。


「大丈夫なのか?」

「あ、紲さん、バカにしてるでしょう」

「いや、バカにはしていないが……」


 しているのは心配だった。クラスメイトが話していたからと、カフェに行くことをせがまれたのだが、メニューを読むのにも一苦労で、注文した肝心のパンケーキも、皿とホイップクリームが紛れたり、チョコソースの線を輪郭と判断して大きいまま持ち上げようとしてしまったり、苦戦を強いられていたのだ。


「私だって成長してるんですからね」


 ふふん、と胸を反らす楪の頭を、紲は抱き締めた。


「ああ、知ってる」


 この一か月、ずっと見て来たのだ。その強さを、ずっと。


「ハナ、悪いが、立ち会ってもらえるか」

「え? あっ、はーん。りょーかい」


 ポケットから取り出したものを見せると、英は快く――若干、いや大半が面白半分で頷いた。


 楪に向き直る。


「楪。以前お前は、助手として雇うのに金はいらないと言ったな」

「えっ? あ、はい」

「なら、金額は俺が決める。お前を終身雇用しよう」


 きょとんとしていた瞳が、やがて、大きく見開かれた。


「お前が一生生活のできる金を払う。子供ができれば、その分もだ。……つまり、俺の収入の全てというわけだが。その代わりとして、お前には残りの人生を俺に預けてほしい」

「それって……」

「結婚しよう、楪。俺の妻になってくれ」


 跪いて、指輪の箱を開ける。


「え、だって、琴葉さんの前ですよ」

「こいつの前だからこそだ」


 普通に考えれば、墓場でプロポーズなど気が違っているのではないかとも思ったが、もとより二人とも死んでいたはずの人間。出会いも呪いだのなんだのが絡んだ数奇なものだったから、この日でいいだろう、この日がいいと、以前から決めていた。


 返事を待つ。


 やがて、楪はおずおずと左手を差し出してくれた。

 そっと手を取り、婚約指輪を指に通す。

 立ち上がって抱き締め、ありがとうと囁き、キスをする。


 英のニヤケ面にガンをくれながら、さあ飯でも食いに行くかと踵を返した時、楪があっと素っ頓狂な声を上げた。


「え、ちょっ、終わりですか。紲さんの分はないんですかっ?」

「俺の分も何も、嵌める指が無いんだが?」


 左手を掲げて見せる。しかし、楪はご立腹の様子で頬を膨らませる。


「だーめーでーすー! 私は『お揃いの指輪をする』ことが夢なんです。紲さんと――あなたと、お揃いの!」


 声を大にしてから、ふっと、表情を和らげた。


「指の位置なんて関係ないんです。それにヨジロウさんが言ってました。元々は左手の薬指じゃなくて、足首で、しかも縄だったそうですよ。指にしても、糸は小指から伸びている、なんて説もあるそうです!」


 そう言って、ぱたぱたと子犬のように駆けてきた楪は、紲の腕に腕を絡めた


「だから、ほら、ご飯の前に行きましょう!」

「行くって、どこへ」

「この指輪を用意してくださったお店に、ですよ」


 いそいそと歩き出す背中に、呆れたような笑い声がかけられた。


「まだ五月なのに、熱々ねえ。ぴったり腕組んじゃって」

「違いますもん。目が視えなくなってきてるから、仕方なくですもん」

「本音は?」

「紲さんが大好きだからです!」


 ストレートな速球に不意を突かれ、紲はたじろいだ。


「わ、紲くんが照れた! 写真撮って、十三課のみんなに晒さなきゃ!」

「あとで私のLINEにも送っておいてください。そのくらいなら視えますので。というか、意地でも視ますので!」

「頼むからやめてくれ……」


 二人しかいないのに姦しい女性陣から弄られながら、紲は頭を抱えた。


「私も結婚したいなあ、ね、楪ちゃんの知り合いにイイ人いない?」

「ええと……あっ、いますよ。英語の先生なんですけど、若くて、スポーツも得意で、趣味はキャンプの!」

「絶対料理できる男じゃない! いいわねえ」

「いいわねえ、じゃねえよ。女子高生に男を紹介してもらうとか、恥を知れ、恥を」


 ふと、思う。

 指輪を買ったのがあの店だと知ったら、楪はどう思うだろうか。当てつけだと怒りやしないだろうか、それとも、あの店であることを喜んでくれるだろうか。


「その女子高生に手を出した人に言われたくありませーん」

「まだ手は出してねえよ!?」

「聞きました奥さん? 『まだ』ですってよ」

「えへへ、ちょっと恥ずかしいですけど、楽しみですね」

「……もういい、勝手に言ってろ。今日はハナの奢りな」

「あーもう、ごめんって。そんなに拗ねないでよ」


 常に先の見えない選択ばかりで、幸せなど、どう追い求めればいいかもわからないが。


 今はただ、愛する人が生きてくれていることが、何よりの幸福だった。





――ムカサリ第一部【死告ノ赫イ糸】(了)

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