蛋打

 橋を越え、与蔵山の麓に差し掛かった頃、一陣の風に煽られた。

 バランスを崩しそうになるのを堪えながら見上げると、白蛇の首が二柱、永く伸びていた。内陸側へひとつ、庄内側へひとつ。それは不吉な一色の虹か、はたまた天へと連れる天橋立か。


「こいつは何をしてやがるんだ……?」


 新しい餌でも食っているのだろうか。

 もう随分と接近しているが、こちらを襲ってくることはない。時折舌を出し、瞬きもしていることは解る。下界を睥睨する深紅の蛇の目が一度だけ紲を捉えたように感じたこともあったが、それだけである。

 相手にされていないのは癪だが、アレが想像通りのウメヅ様の成れの果てであるというのならば、あのトンデモな化け物とやり合わなくていいのだ。むしろ僥倖だろうか。

 件の建物は、山の中を少し入った人気のない場所を拓いて建てられていた。外観はシンプルな学校建築で、少年自然の家と言われれば納得もできる。

 ただ、擦りガラスの格子窓によって中に干渉できないことは解るが、それにしてはスロープや手すりといった在るべきものが見当たらない。


「本当に母子シェルターか、ここは?」


 カウルから愛刀を取り出しながら、紲は首を傾げた。

 念のためにバイクの頭を出口側に向けて、エンジンをかけたままにしておく。

 冬場の防寒対策だろうか、表の扉のすぐ内側にサッシ戸が張られている。触れると静電気のような痛みが走った。改めて引き開ければ、目に飛び込んで来たのは蛇の紋様と梵字。小洒落たインテリアの細工と呼べる程度とは遠く、重苦しく澱んだ空気に当てられた人間が半狂乱で書きなぐった呪詛のようにも見える。

 手癖で後ろ手に扉を閉めようとしたのに気づいて止め、振り返ってみれば、扉の内側には例の御朱印擬きが隙間なく貼られていた。本間から受け取ったものと比べると、書かれている梵字の種類が異なっている。


「(……静電気の正体はこれか)」


 つまりここは、聖域であるということ。

 玄関から土足で上がり、左右の通路奥を覗いて顔を顰める。学校様式のようだとは思ったが、内部構造はむしろ体育館である。目の前の大きな鉄扉を覗いて部屋は見受けられず、通路の先も行き止まりと来た。


「――六根清浄」


 扉の前で真一文字に刀を抜いてから、抜き身のまま携え、扉を開けた。メンテナンスはされているらしく、鉄の嫌な摩擦音もなくするりと迎えられたのは、逆に気味が悪い。

 古い時代の教会のような部屋の中は『いづめこ人形』で満たされていた。檜張りの床の上で、ステンドグラスから注がれた陽射しスポットライトを受けながら、魔法陣を描くように配置されている。ざっと見積もっても二十は下らない。

 一際異彩を放っているのは、教会の内陣らしき高座に一体だけ鎮座した人形である。集められた『いづめこ人形』を見守るように微笑みを湛えた趣味の悪いマリア像は、他とは違い、笠の中にあるわけではない。


「木乃伊の蝋人形。しかもありゃあ、腹ン中はクマンドールだな」


 ニコラから聞き知ったことと照らし合わせながら、紲は頬が引き攣るのを感じていた。

 かの両面宿儺とて、結合双生児として鑑みれば在り得なくはない異形である。一方、目の前のあれはどうだ。悟りの修行を経ていないものを無理矢理即身仏ミイラに仕立て上げ、態々腹に胎児を戻してまで創り上げた、最低最悪の生き人形。そこまでしてこそ成り在りき、呪いの器。


「……にしても、見覚えのある面だが」

「――然様。私の妻とは会ったことがあるだろう?」


 袖廊から耳に粘り着くような低音の男声がかけられた。

 人形たちの間を縫って現れた男の姿に、紲は舌打ちをした。


「テメエ、由良で会ったクソ坊主か。道理で」

「改めて自己紹介をさせて頂こう。安隆寺伊佐雄。御目にかかれて光栄だよ、オナカマの」


 安隆寺は手を合わせ、慇懃に礼をする。


「こちらこそ、人形シェルをシェルターに入れるなんつー、とんだ母子センターを見物することができて恐悦至極。その翁の仮面を捻じ曲げたようなけったくそ悪い面、なんとかならねえか?」

「そうか嫌か。ならば続けさせてもらおう」


 一瞬真顔になってから、すぐに歪んだ笑みを張り付けた。おちょくられているのは業腹であるが、紲はどうにか堪え、奴の唯一笑っていない双眸を睨みつける。


「余裕そうだな。別に俺は、人間を手にかけることに躊躇いはねえそ?」


 しかし、安隆寺ははて、と不思議そうに首を傾げた。


「貴公は、私が人間だと?」

「違うのか? 何を成そうとしているのか知らんが、安隆寺坊主なんてものを名乗った趣味の悪いクソ坊主――」


 紲は目を見開いた。


――『梅津伊佐雄』で照会したの。


 英の言葉が脳裏を過る。てっきり、禍々しい異教の支配者として忌名を騙っているのかと考えていたが、それは見当はずれだった。


――何でもしますから!


 あの頃までは普通のサラリーマンだったのだ。そんな人間が、ここまでの業を執り行えるはずがない。


「チッ、新庄の廃病院で見たアレも生霊だったってことか」

「青い頃の私を見たのかね。いやはや、無様な醜態を晒し、お恥ずかしい」

「俺からすりゃあ、今のテメエの方がよっぽど哀れだよ。安隆寺坊主に取り込まれちまって」

「否。全く以て否だよ、オナカマの。私は取り込まれたのではない。慶んで安隆寺坊主を受け入れたのだ」


 安隆寺はまるで天からの恵みを受けるように、仰々しく手を拡げた。

 紲は両手で刀の柄を握り、腰を落とした。


「一応聞いてやる。什麼生そもさん、何故」

「説破。怪談の化生として生まれながらに死しているからだ。出羽三山に抱かれて転生した傍から、穢れた娑婆世界で苦しむことなく逝き、即時再臨する。穢れなき完璧な輪廻だよ」

「成程、生きている胎児のカラクリはそういうことか。そうやって母体の殻の中で、時が来るまで保護ってか。……で、その時ってのはいつだ?」

「無論、穢国たる娑婆世界が、極楽浄土に至るまで」

「語るに落ちたな。極楽浄土ってのは待ってても来ねえんだ。三蔵法師のように手ずから歩いてこそ得られるもんなんだよ!」


 床を蹴り、紲は右に担いだ刀で躍りかかった。

 だが安隆寺は顔色一つ変えず、袖口から取り出だした数珠とロザリオを重ね合わせる。


「――『火血刀かけつとう』!」


 一喝。奴の足下に三つの曼荼羅が浮かび上がり、紲の振り下ろした刀を遮った。ベン図のように重なり合ったその中心部に不可視の結界が張られ、安隆寺の体まで刃が届かない。


「厭穢欣浄を願う坊主の力が三途の闇とは、皮肉だな!」


 刀に込める力を強め、紲は歯を剥いた。


「真なる地獄とは常世に在らず。現世を皮肉る為なれば」

「ハッ、坊主の修行ってのは、屁理屈を覚えることか?」


 ぎりぎりと火の華を散らしながら食い下がる紲に、安隆寺が訝しげに眉を顰め、思案一秒、目を見開いた。


「むんっ? 貴公の得物、さては古刀か!」

正解ブルズ・アイ。それも弥陀ヶ原の霊水で打たれた古月山だよ」

「ちぃ、億々萬劫に灼けよ『火途かず結界』」


 地獄曼荼羅の一界から、血飛沫のような焔の奔流が巻き起こった。紲の体は押し流され、壁に叩きつけられる。

 背中に受けた衝撃に咳き込みながら、紲は燻ぶる髪の毛を払い、炎に巻かれたジャケットを脱ぎ捨てた。


「火渡りの行に比べりゃ大したことねえな。素人ならまだしも、本職は火傷させられねえぞ?」

「強がるな。オナカマの血を引けども所詮はおのこ。今さら何ができる?」

「試してみようか?」


 剣道の切り返しをするように、絶え間なく切りかかる。徐々に、しかし着実に、切っ先が深くまで迫る。


「頭を垂れ、沈淪せよ。『刀途とうず結界』!」


 安隆寺が錫杖を顕現させ、迎え撃った。柄は蛇腹剣のように変幻自在で、紲の刀を絡め捕っては、居ついた頭に遊輪の牙がシャンと音を立てて噛みついてくる。

 腐っても破戒僧。あるいは腐ったからこそか。杖術の腕に覚えはあるようだ。

 とうとう押し負け、柄尻で腹を突かれた紲はたたらを踏んだ。膝を突くことは踏みとどまったが、口の中まで逆流してきた胃液が喉を焼く。


「……ったくふざけんなよバカヤロウ、せっかくの米の粉豚が台無しになるところだったじゃねえか」


 シャツの袖で口元を拭い、腕の向こうに物騒な仏僧を睨めつける。


「いい加減目を覚ませ、梅津伊佐雄。『異なるもの』ってのは、道理を外れているから『異』なんだよ。たとえテメエの願いを叶えてくれたとしても、そいつは真っ当な手段じゃねえ。さっさと棄てろ」

「元より手段は選んでおらぬよ。幸の願った世界さえ訪れてくれるのなら」

「事故だったことは聞いてる。同情はするが――」

「あれは事故などではない!」


 安隆寺が咆哮した。肩を強張らせ、地面に向かって声を叩きつける様は、本来の梅津伊佐雄の顔だろうか。


「殺人なのだ! 子供がで投げた雪玉のせいで、妻と我が子は奪われた! 雪玉を投げた子供が怖くなって逃げたせいで、長い時間雪の中に置き去りにされた幸の気持ちが貴様に解るか! 守れなかったと涙を流す幸の気持ちが貴様に解るか! 産まれ出でられなかった、海斗の気持ちが貴様に解るか!」


 袖を振り回し袈裟をはだけさせて、安隆寺が地団太を踏む。錫杖の金具の音が歯ぎしりのようにけたたましく暴れた。


「児戯ひとつで命は絶える。風邪のひとつで命は潰える。どれ程切に願おうと、手は尽くしたの一言で見捨てられる!」

「それで異教開いて親殺してりゃ世話ねえだろうが」


 紲は投げ捨てていたジャケットを拾い上げ、内側の煙草が無事であることを確認すると、火を点け、煙とともに唾棄した。


「許可は得ている。無理強いはしておらぬよ」

「許可? 似非説法の口八丁で丸め込むのは、詐欺って言うんだよ。仮に百パーセント無事に子供が生まれて来られるとして、苦しみがなくなったとして。親の愛情が得られねえんなら、そこに幸せはあんのか?」

「僭越ながら、私と幸が責任をもって務めるとも」

「化け物と死者とがか? 笑わせる。狼に育てられた方がよっぽどマシ――」


 刹那、気配に白い牙が飛び込んできたため、紲は顎を引いた。咥えていた燃ゆる煙草の先端が食いちぎられ、鏡面のような皮の表面に、ヤニを取り上げられた不満げな顔が映る。

 目と鼻の先でぎょろりと威嚇してくる炎よりも赫い目を、紲は真っ向から見据えた。


「おお、器用器用。大道芸でもすれば儲かるだろうに」

「あまり愚弄するなよ、オナカマの」

「親代わりをしたいなら、何でも口に入れちゃいけませんって躾けとけ」


 ほくそ笑んで、紲は重心を素早く上下させた。居合の技にある抜き打ちの要領で、眼前の蛇の目を、振り上げた刀で一刀両断に叩き切る。

 白蛇は口から人間の女の絶痛に叫ぶ声を上げて、のたうちながら消滅した。

 直後、館内にあるいづめこ人形の一体が弾け、どろりと粘ついた赤黒い卵黄けつえきと、そこから分離した血液交じりの卵白ずいえきが笠に溜まり、溢れて垂れる。

 笠の血溜まりの中から、成りかけの受精卵のような胎児の遺体が浮かび、血の水面を彷徨い出した。まるで未だ、子宮の中にいるかのように。


「嗚呼、富樫さん! 雄哉くん!」


 安隆寺が悲鳴を上げた。仮にも檀家の名前を憶えている辺り、狂った偽善に拍車がかかっている。


「チッ、俺が悪者みたいじゃねえか。表の首よりか随分小せえとは思ったが、まさか蛇を屠らば人形までとはな」


 紲は総毛立つのを感じた。破戒僧を手にかけることには何ら躊躇いがないが、もう戻ってこない者とはいえ、罪なき一般人を殺めたという事実は、さしもの自分も心が軋む。


「貴様ァ……何をした」

「今持ってきている煙草は特別製でね。柊や月桂樹、ホワイトセージ、ローズマリーなんかを混ぜた魔除けのお守りなんだよ」

「黒魔術か」

「悪いな、混ぜ物はテメエの専売特許じゃないんだ」


 歯噛みをする安隆寺に指を向け、紲は肯定をした。

 結界の張られた我が家でも使える簡易の黒魔術である。ニコラの人形のような固形の呪物まじないものとは異なり、こちらの用途は、魔から身を隠す煙幕程度のもの。カートン単位の備蓄さえしなければ、発煙筒はむしろ、魔を煙に巻く闇雲に打ってつけだ。


「テメエの術式には魔術的なものも入っているだろうが、それでも聖なる灰すいがらを口にしようものなら、ぺえっして腸内洗浄待ったなしだ。もっとも、テメエの足を掬うのが狙いだったんだがな」

「戯言を。赦さん。赦さんぞ貴様! ――幸ィ!」


 安隆寺が仏具と十字架を組み、頭上に掲げた。

 奴の肩越し、高座のマリア像が消えていることに気が付いて、紲は振り向きながら飛び退る。刀を横に構えて受けの姿勢を取った時には、九頭竜の首が一つが、既に教会の中にまで滑り込んで来ていた。

 扉を開けっぱなしにしていたのが拙かったか、いや、あの鋭利な牙の前では紙切れか。


「チィ――なんつー力してやがる!」


 上顎の牙を刀で押し留め、下顎の牙の隙間に足をかけ、噛み潰されそうになるのを耐える。

 しかし紲は失念していた。顎の対処にばかり集中していて、その首がずるずると伸び続けていることを。自分がさながら、梅津幸が夫の下へ駆けていく間にある邪魔者であることを。

 不意に、背中から腹にかけて熱が突き抜けた。脇腹から飛び出す血濡れた錫杖の先端に、自分が何をされたのかを理解する。


「テ、メエ……」


 ぬるり。錫杖を引き抜かれ、紲は力なく崩れ墜ちた。

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