第三章 厭穢欣浄

九頭竜

 一九八〇年。冬。

 拭ったつもりの靴底についた雪で滑りそうになり、慌てて入り口のマットへ戻って足踏みをしてから、男は脇目も振らずに病院の二階へと駆け上がった。

 寒気と怖気とで心臓が痛いのをぐっと堪え、他の患者たちにぶつからないよう紙一重の余裕で配慮しながら、妻のいる部屋へと向かう。


さち!」


 扉を叩きつけるように引いて、中へ飛び込む。

 ベッドに伏せ、呼吸器を付けた妻の真っ青な顔に、男は両足が喪失したような感覚に襲われて崩れ落ちた。


「……伊佐、雄」


 息も絶え絶えの声が降ってきて、男は飛び上がった。


「ああ、幸、幸! 良かった、生きててくれて……!」


 しかし彼女は、すでに涙も枯れているだろう乾いた目を閉じ、首を振った。


「ごめんね、駄目になっちゃった。守れなかった」

「今は何も話さず、ゆっくり休んで。君が無事でいてくれただけでも、俺は」

「ごめんね、ごめんね……」

「君は悪くない、悪くないんだ!」


 何度も頭を下げようとする妻を押し留めるように、必死に手を、腕を、胸を、頭を、擦って温める。彼女の芯が冷え切っているのが、雪国の冬のせいであることを願って。

 けれど平らになった腹だけは、触れることができなかった。


「ねえ、伊佐雄。この世界が、子どもたちが安心して産まれてこれるような、平和な世界だったら良かったのにね」

「……俺が作るから。絶対に守るから」


 だからまずは、ゆっくりおやすみ。それが、妻と交わした最後の言葉になった。

 妻が流産をすることになったのは、子供が悪戯のつもりで投げた雪玉によって転倒をしたからだった。その後が最悪だった。怖くなった子供が逃げたせいで、降りしきる雪の中、腹を押さえて呻く妻が発見されるのに時間がかかってしまったのだ。


「助けてください!」


 奥様も今夜が峠だと告げる医者に、男は床に額を擦り付けて懇願した。


「何でもしますから! 借金でも、何でも、お金なら一生かけてでも払いますから! どうか、どうか!」

「梅津さん。申し訳ありませんが、手は尽くしました。後は奥様の生命力を信じてください」

「待って、待ってくれ、待ってください、ああ!」


 手を伸ばしたことでバランスを崩し、男は倒れ込んだ。起こしてようとする看護師の手を受け入れられず、そのままさめざめと泣いた。妻も雪の中で横たえたまま、こんな絶望でいっぱいだったのだろう。その無念を少しでも理解してやれるならと、芋虫のように冷たいタイルに体を擦り付けた。

 後日、雪玉を投げた子供の親から、謝罪とともに数百万ぽっちの金が積まれた。

 事実上の殺人であるのに、小学校低学年だから法的な罰はない。

 たとえ罪に問えても、母子の二人を手にかけておきながら、娘の方は堕胎罪になるという。人ひとりが産まれ出でるために大変な苦労があるというのに、産まれる前の彼らは人として扱われない。

 ならば、その期間を守護せねばなるまい。


――子どもたちが安心して産まれてこれるような、平和な世界だったら良かったのにね。


 妻の今際の言葉が脳裏を掠めた時、はじめは突き返そうと思っていた札束に、男は貪るように飛びついていた。


 その日、悪魔が生まれた。






 昨日の残りのなめこ汁を温め直し、素朴な朝食を楽しんだ紲たちは、今度は最上川沿いから回ってみようと、国道13号を新庄まで北上し、そこから国道47号線へと乗り換えて走っていた。

 たっぷり二時間近く経った頃、休憩も兼ねて白糸の滝ドライブインで足を止める。レストランスペースに宴会場までついた、大きな休憩所である。


「あじさいせんべい、生産終了してしまったんですって……」


 軒先の露店で玉こんにゃくと、山形産の米の娘豚を使用した串焼きを買ってきた楪が、寂しそうに目を伏せた。


「花子さんのお供えもの、どうしましょうか」

「他ので我慢してもらうしかねえなあ」


 受け取った豚串焼きに噛り付きつきながら、紲は肩を竦めた。『あじさいせんべい』として親しまれる菓子『新庄の花あじさい』は、新庄市の花である紫陽花をモチーフとした、クッキーのようなサクサク感のある生地にたっぷりのアーモンドを散りばめた洋風菓子である。

 鶴岡に本店を置く老舗菓子店にも『あじさい紀行』という似た菓子があるが、花子は頑として『たかはし』のそれ以外は受け取らず、どっちでもいいと雑に扱うマタと大喧嘩に発展したことを憶えている。

 串を半分まで食べ終えたところで交換し、残りを頬張りながら最上川を眺める。対岸にお不動様の社があり、そこから竜が立ち昇るように絹糸のような瀑布が見えた。


「綺麗ですねえ」

「富士の白糸と名前を同じくするだけあって、何度見てもいいもんだな」


 あの辺りの土地は最上峡と呼ばれ、山々は独立したものではなく、ほとんどが連なった峯となっている。天然要塞の不揃いな標高からなる急斜面を流れる滝だけで四十八もあり、その西端に位置する白糸の滝は『最上四十八滝』の中でも最大のものである。

 地に染みた山からの激流もまた、最上川に集められる。その清流を、かつて義経一行や芭蕉が歩いたのだと思うと、感慨深い。


「あ、そうだ……どうせこっち通るなら、若宮さんちに手を合わせて来ても良かったな」

「近いんですか?」

「いいや、鮭川の方だから、もっと手前、新庄の出口の辺りから登って行かないといけなかった。庭月観音参りも兼ねてな」

「そういえば仰ってましたね、庭月観音のムカサリ絵馬」


 楪は食べ終えた串を折ってゴミ箱にそっと落とすように入れた。


「あそこでは灯篭流しもやってるんだ。東日本随一といわれる規模でな、今年の夏にでも拝んでみたいものだが」

「わあ、いいですね。行ってみたいです!」」


 ぱたぱたと尻尾を振って付いてくる楪を後ろに乗せ、白糸の滝を発つ。もう少し先まで行けば、酒田の農道が見えてくるだろう。

 そんなことを考えながら、背中越しのお天道様に照らされた蒼穹を仰いだ時だった。


「――なっ!?」


 視界の端で白い竜が天に昇ったような気がして、咄嗟に急ブレーキをかけて路肩へとハンドルを切る。すぐ隣をけたたましいクラクションを鳴らして乗用車がすり抜けて行った。


「紲さん!」

「ああ、見えてる!」


 後続と対向の車がないことを確認し、急遽ドライブインへとUターンをした。

 ヘルメットのシールドを上げ、今一度空を見やる。

 最上川を覆い隠すように伸びた龍の首は、いつの間にか八つに増えていた。


「ヤマタノ、オロチ……だと?」


 しかし、息を呑む紲に追い打ちをかけるように、さらに一つの白い間欠泉が立ち昇り、首は九つとなった。


「おい、冗談だろ。羽黒の九頭龍王じゃねえんだぞ」


 柵から身を乗り出して覗き込めば、巨大な白龍の胴体は最上川の河口を塞ぐように浸かっていた。きめ細かな鱗の石垣が積まれた要塞のようだ。

 しかし、それによって流れが堰き止められている様子はない。振り返れば、車も普通に走行している。


「視えてないのか……?」


 紲と楪の他に、空へ注目している人物は見当たらないことは安心していいのだろうか。

 顕現するだけしておいて、以降じっとしているだけの九頭竜を見上げながら、紲はスマホを取り出した。画面をタップしようとした矢先に、英からグループ通話の着信があって、思わず冷や汗が噴き出す。

 この俺が膾まで吹く訳にはいかないと、深呼吸してから電話を取った。


「俺だ。お前の用件の前に、確認したいことがある」

『どうしたの、何かあった?』

「窓から北西の空は見えるか」

『え、ええ。ちょっと待ってね』


 紲の浅い呼吸にただならぬ気配を察したか、オフィスのドアが開く音はすぐに聞こえた。


『特に何も……え、やだ、もしかしてアレ?』

「視えてるか?」

『ええ、遠すぎてぼんやりとだけれど、蛇みたいな首が見えるわ』

『今、SNSを確認していますが、これといってツイートはありません』


 ヘルメットを被ったままスマホを顔に近づけてフリックしていた楪が、あっと声を上げた。


『いえ、ありました。「最上川に白い怪獣がいるんだけどこれナニ」……ですが添付された画像には何も映っていません』


 紲は大きく息を吐いた。幸か不幸か、アレが視える人間は限られているらしい。霊感がそうさせるのか、そのツイートの主も何らかの力のある人間――同業だったりするのか。


『――ちょっと、今重要なことを話しているの。邪魔しないでくれる?』


 くぐもった英の苛立ちの奥に、聞き覚えのあるアホな声がする。


『じゃああっちの方を見て。何か見える? 見えない? そう、なら論外だからどっか行ってくれるかしら』


 直後にぴしゃりと戸の閉まる音と、英の詫びる声がした。


「あのバカどもも少しは役に立ったか?」

『どうかしら。とりあえず彼らはバツ、吾妻さんはマルよ』


 捲し立てるように言ってから、英がため息を吐いた。


「一先ず近くまで行ってみるか」

『ああ、待って。時間があれば、安隆寺伊佐雄について報告をしておきたいのだけど』

「うん? 昨日の住所は、俺たちの知っていた場所だったろ」


 例のチラシに記載されていた住所が示していたのは、紲たちも連れられた公民館だった。あくまで連絡用を繋げるための入り口でしかなかったのだ。


『実は、芽瑠の閃きでね。「梅津伊佐雄」で照会したの』

「梅津だと!?」

『そう。一昨日、廃病院に行ったでしょう? 彼の奥さんが、そこの産科にかかっていたそうよ』

「あの病院が経営している頃にってなると、今は四、五十代か。妻と子は」

『どちらも亡くなっているわ。事故で流産して、母親も……』

「それで記録が残ってるのか」


 紲は舌打ちをした。手放しには喜べない話である。ただ同情はしても、現在進行形の凶行は断じて許すことはできない。


『今、梅津伊佐雄が運営している母子シェルターの場所らしき住所を割り出したから、送っておくわ。

 それともう一つ、多分教えておいた方がいいことだから、言っておくね』


 英が何かを言いあぐねた時の癖である、唇をぱっと弾く音がした。


『苗字の「梅津」だけれど。ルビがね、スに濁点だったの』

「……何だと?」

『芽瑠の話では、旧家なんかだとたまに見るそうよ。ただ彼の場合、後から申請して変更しているわ』

「そうか……何かあったらまた連絡をくれ」


 電話を切り、タイムライン上の住所をコピーする。地図アプリに表示された場所は、このまま最上川沿いに行った先――おそらくは、あの真白き九頭竜の麓辺りだった。


「お前はここで待ってろ、レストランでパフェでも何でも食ってていい」


 財布を楪の胸に押し付けて、紲はアイドリングしたままのバイクに跨った。


「紲さん……帰ってきますよね?」


 不安そうに寄ってくる小さな頭からヘルメットを外し、抱き寄せて口づけをする。彼女の熱が籠って蒸れた唇は、きっと勝利の女神と同化していることだろう。


「俺を誰だと思ってる。すぐに迎えに来るさ」


 まだむずがるのをヘルメットで封じてやり、紲はアクセルを回した。

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