土湯の儀

 大輔が空手をしていたこともあって厳重注意こそされたものの、無事に釈放が決定された。

 紲たちが彼を引き連れてロビーに出ると、美優が顔を潰さんばかりにくしゃくしゃにして、愛する夫の胸に飛び込む。


「馬鹿、馬鹿! 心配したんだからね!」

「ごめん。本当にごめん」


 わんわんと声を上げてひとしきり抱き合ってから、そこでようやくここがどこかを思い出したように、矢野目夫妻は顔を赤らめて体を離した。

 離れることはないと大輔の背中を押してやると、何度も何度も頭を下げながら、互いに寄り添い合って階段を降りていく。まだ二十歳にもなっていないというのに、背中だけなら長年連れ立っているようにも見える。

 ただ、幸せそうだなと浸ることはできなかった。

 彼らの前ではお首に出せなかったのだろうが、芽瑠はともかく、うちの正直者の表情がいやにぎこちなく張り付いているのは明らかだった。


「――何があった?」


 紲が声をかけると、楪は俯いたまま、わなわなと震わせた手に握る紙を押し付けてくる。

 その書かれた文字が目に入った瞬間、紲はすべてを悟った。


「チッ、環境的要因の難産の危機さえ嗅ぎ付けて来てんのか」


 とんだクソ野郎である。

 隣から覗き込んでいた英が、記載されている連絡先に目を付けた。


「0235。鶴岡の市外局番ね」

「ああ、それが救いだな」


 安隆寺伊佐雄が単独で内陸まで踏み込めても、庄内に引っ張り込まなければ、ウメヅ様の力が及ばないのだろう。……今のところは、という注釈が付くが。


「しかし、止められたんだな」


 頭を撫でると、楪がこくんと頷いた。


「よくやった。よく守った」


 また、楪が頷いた。しかしその体から、震えが収まる様子はない。

 彼女の肩を抑えてしゃがみ込み、俯いた顔を覗き込むと、血が滲むんじゃないかというほどに下唇を噛んで、ぼろぼろと涙が零れるのを堪えようとしている少女の顔があった。

 思わず、その体を抱き締める。


「お前のおかげで友達が守れたんだ。何がそんなに不安なんだ?」

「……私、美優に理由を話せませんでした。なのに、美優は信じてくれて。私、一方的に否定をしたのにっ……信じて、くれてえ……」


 考えてみれば、自分たちにも『語るべからず』の戒律があるようなものだった。いかんせん紲にとっての知り合いといえば、現職の十三課所属刑事と、司法解剖で関わっている医者と、そして、ムカサリ呪いに巻き込まれてしまった当事者。これだけである。

 しかし楪は違う。大輔はこいつをムードメーカーだと話してくれた。昨日の朝の心霊スポット探検隊の一人だって、楪は苦手そうにしていたが、向こうからは憎からず思われていたように思う。

 後ろめたさの理由は今なら察することができるが、そんな結婚式にも楪ならと誘ってくれた美優は、親友といっていい。それでも秘め事をしなければならないのだ。歯痒いだろう。


「辛かったな」


 胸の中へ深く迎え入れると、ぐしぐしと鼻水を擦り付けられた。今は何も言うまい。


「……美優を、お姉ちゃんのようにはしたくありません」

「ああ」

「……大輔くんを、私のようにはしたくありません」

「そうだな」

「……二人の子を、結ちゃんのようにはしたくありません」

「俺に任せろ。必ず止める」


 楪の頭が、上下に揺れる。もう一度、彼女を抱く腕に力を込めた。


「……痛いでしゅ」

「ズビズビしてて何言ってるか判らねえよ」


 やはりどこか締まらないのは、楪の才能ではないだろうか。


「とりあえず今日は帰るぞ。しっかり寝て、明日だ」


 楪を放し、額をつついておく。


「悪いがハナ、この住所から連絡先から、ちょっと調べておいてくれ」

「了解。前線は任せきりだもの、こっちは任せて」

「ウチも一度戻りますかね。若宮さんの結果もそろそろ出てるでしょうし、矢野目さんに紹介するシェルターの資料も準備しなきゃなんねえですから」

「頼んだ」


 英と芽瑠に後事を託して、紲は楪の手を引いた。

 バイクを駆れば数分の距離である我が家に着き、泣き疲れた楪を寝かしつけた後で明朝用の米を研ぎ、予約スイッチを入れる。なめこの味噌汁をすっかり忘れていたが、その分明日の手間が省けるだろうか。

 明かりもろくに点けずに、紲は家の中を一人歩く。電車の音が駆け抜け、またしんと静寂が戻る。

 赤い聖骸布ならぬ生骸布を残している部屋は、楪のたっての希望でだった。顔を出す程度にを覗いてから、仏間へ赴き、手を合わせる。

 久しぶりに焚いた線香の煙は、ゆらゆらと穏やかに揺れていた。






――山形県最上地方 某所


 日本海に出る河口から、最上川沿いに国道47号線を遡れば、久遠の年月によって削られた岩盤と、流れが緩やかな地点に残る鬱蒼とした森との横断幕を対岸に望むことができる。

 かつては大江町を埋め、ヤマガタダイカイギュウの化石を遺した程の一級河川。県内の川という川を取り込み、日本三大急流に数えられる国内最長規模の最上川の、その原初の姿はさぞ雄大だったのだろう。

 幻想の森と銘打たれた、樹齢千年をゆうに上回る土湯杉の巨木が群生する地の片隅にて、月明かりから隠れるように葉の影の中へ佇んでいた男が、相好を崩す。


「五月雨を、集めて早し……か」


 それも今は昔である。地球温暖化によって海面水位が上昇したと巷では騒がれているが、世界にはこのように、さらに大きな自然の痕跡が見受けられる。なれば、水位の上昇とは、地球が回帰しようとしている営みなのではないだろうか。

 何故そうするのか。知れたこと、人間が愚かであるからだ。


「哀れなるかな電光の命。草露のあしたを待つが如し」


 五段鈔の一説を諳んじ、男は喉のいがらを取り除くような低い音で笑った。


「だからこそ、救わねばなるまい。守らねばなるまい」


 眼下では、木の根を掘り分けて造った小さな泉を、選ばれた八人の信徒たちが、彼らの『方舟』とともに囲み、祈りを捧げている。

 八代竜王の甘露である月山の仏生池の水を注ぎ再現した泉の中心で、愛する白蛇の化身が舞っていた。浄土の真白き蓮の花が後光に蕊を躍らせるようでもあり、地獄から荒魂が蠢き出でるようでもある。


 ――綾に綾に奇しく尊と梅津神の御前を拝み奉る。

 ――綾に綾に奇しく尊と梅津神の御前を拝み奉る。

 ――綾に綾に奇しく尊と梅津神の御前を拝み奉る。


 パチ、パチと手を拍つように弾ける御松明の中、祝詞だけが空気を震わせる。

 神威を孕んだ夜露に濡れた袖を掲げ、男は合掌をした。


「謹み奉る。羽黒の山よ、祓い清め給え。月読の山よ、穢れを葬り給え。湯殿の山よ、其の胎内に命を抱き、極楽浄土へと輪廻を転生せし給え――」


 五条袈裟のなりで祝詞を謡い、手の内には蛇のロザリオを挟んでいる。しかしてこれは破戒に非ず。遍く凡てを習合し、万人に救いを求める唯一たる完全形である。


「――梅津神よ。幸よ。在れ」


 男が告げると、ウメヅ神が開眼した。穢れの一片もない池が煌々と輝き、闇が影を生むことすら許さぬ一条の光が起こった。五色がまだらに入り混じった、鮮烈なる白だった。

 その眩しさに信徒たちが目を覆ってたたらを踏む中、ウメヅ神の伸ばした腕が、一つ、また一つと、供えられた方舟を呑み込んでいく。命を詰めた籠が蛇の頚を膨らませて繋がる様は、さながら大連珠のようである。

 大気の全てを抱くように腕を膨らませたウメヅ神が、信徒たちを褒めてつかわすように蛇の頚手の平を擦って回れば、彼らは背に撰法華経を受けたような神妙さで頭を垂れた。

 やがて、光の収束とともに、ウメヅ神の姿が泉に溶けていく。

 男は信徒たちに振り返り、声をかけた。


「お疲れさまでございました。これで、皆様の子は、梅津神という方舟の母艦に乗り、楽園へ向かうでしょう」


 信徒たちはおお、と歓びの声を上げた。


「(一時はどうなるかと思ったが……刻は満ちた)」


 あれから調べてはみたが、どうやら里が滅びたというのは本当らしい。連れの娘も見たところ純血ではなかった。大方、里から落ち延びたトンビの子同士で寄り添い、傷を舐め合っているだけなのだろう。恐るるには足りるまい。

 私は救わねばならない。私は守らねばならない。それが、一生を懸けてでも貫き通すと決めた、約束なのだから。


「(もう邪魔立てはできぬぞ。オナカマの)」


 くつくつと喉に張り付くような笑みが、月の隠された宵闇の中へと溶けた。

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