魔の手
「なんとかできそうか?」
美優を楪たちに任せて十三課の巣に戻り、清掃用薬品の臭いの残るロッカーから替えのジャケットを取り出し、紲は訊ねた。
英が脱いだブラウスを自分のデスクへ放り投げ、ヘアスプレーを噴きながら唸る。
「さすがに何かあったものを揉み消すのは無理ね。彼女に安心できる要素を提供するくらいかしら。――使う?」
上半身下着姿の英から、ヘアスプレーの尻を向けられた。
「さすがに同じ匂い付けてんのは拙くねえか?」
「あら、貴方もそういうところ気にするようになったのね。既婚者も大変だ」
「さっき人を巻き込みやがった奴がどの口で……」
顎をしゃくれさせて抗議すると、英は「ごめんって」と苦笑しながら予備のブラウスに袖を通した。
彼女が消臭スプレーを振りまいたジャケットを羽織ってから、紲たちは道すがら確認していた取り調べ室に向かう。ドラマのようなミラー部屋があるわけでもない、オフィスに隣接した小さな部屋だ。
部屋の外から室内の様子を見ていたベテラン警官が、紲たちに気付いて表情を強張らせる。
「長南か。新聞の勧誘ならお断りだぞ?」
「そう邪険にしないでくださいよ、落合先輩。ちょっと知り合いの知り合いの連れが絡んでいて、様子を見に来ただけなんです」
出くわしたのが署内でも顔の利く人間だったことに、英の肩の力が少し緩んだ。
紲が部屋の中を覗くと、礼儀正しそうに背筋を正して警官の問いに答える、温和そうな顔立ちの好青年が見えた。楪の同級生ということもあって若いことは想像していたが、暴力沙汰を起こした人間にはとても見えない。むしろ毅然と、信念を持って自らの状況に甘んじているようにさえ見える。サイコパスか、あるいは。
「状況は?」
「もう終わるところだよ。通報したのが義父らしくてな。身内の喧嘩だってんならそれまでだ。今病院に行かせているそのお義父さんと連絡が取れ次第、釈放だよ」
「通報時点でそれは判らなかったんですか?」
並んでデスクの縁に腰かけた英の問いに、落合は困り果てたように肩を竦めた。
「それが、あっちの夫婦ともに『他人です』の一点張りでな。だから一先ず連れて来たんだ」
「だとしても、あいつもあの様子だ。別にランプ付けて来ることはなかったろ」
「これでも反対はしたんだ。むしろあちらさんからはサイレン鳴らせとまで言われててな。そしたら彼も構わないって言うんだ。言葉は悪いが、気味悪すぎて適わん」
徹夜明けでもないのにクマが浮かんだような顔で、落合は諸手を挙げた。
紲は同情するように苦笑を返し、思案顔になった。
昨今では、救急車両を呼ぶときにさえランプを消してくれと頼む人間が多いらしい。命の緊急性より、周り近所の注目を集めることを厭うからだ。つまり、そんな中でサイレンを鳴らすよう要求するのは、家から連行される矢野目大輔を衆目に晒し、吊るし上げるため。
「その義父とやらと連絡が着くまでで構わない。世間話をしてきても?」
「ああ、好きにしろ。長南がいるなら大丈夫だろ」
「俺の信頼はゼロかよ」
ぼやいたらケツに強めの蹴りを入れられた。十三課に対する態度は人によって様々で、中には落合のように元々英とは知り合いで、個々人を見て接してくれる存在もいる。まして自分のような得体の知れない者にも歩み寄ってくれているのだ。ケツを蹴られるのも手荒な可愛がりだと思えば、悪い気はしなかった。
調書を取り終えた警官に会釈をし、入れ違うように部屋に入る。
「矢野目大輔だな?」
訊ねると、彼はしっかりとした声で「はい、そうです」と頷いた。
「こんばんは、長南です」
「漆山だ。話はざっくり聞いている。君の高校の同級生で、御廟楪というのがいただろう。俺はあいつの夫だ」
「ああ、あなたが噂の。御廟さ――楪さんがいつも嬉しそうに話をしていました。彼女は明るくて、僕たちのムードメーカーだったんですよ」
「そうか」
紲は目を細くした。楪のことだから、ただわちゃわちゃと走り回っていただけなのだろうが。
「ハキハキと礼儀正しいのね。部活は何を?」
「その……空手を修めていました」
「成程な。学生の部活とはいえ高校生ならそこそこいっぱしだ。サイレン鳴らしてまで追い出したくなるわけだ」
しかし、大輔は強張った顔で、首を横に振った。
「違うんです。お義父さんが僕を追い出したいのは、僕が高校生のうちに美優を妊娠させてしまったことを赦していないからなんです。もちろん、僕が悪いことも解っています。避妊はしていたのですが、何分初めて同士で、上手く出来てなくって……」
「ったく老害ってのは、真昼間から
「茶化さない」
腰元の肉を抓られてしまい、紲は身を捩った。当の大輔が噴き出しているのだから良かろうに。いや、自分が叱られているから笑われたのだろうか。……結果オーライだ、考えるまい。
「にしても、そんな風に自分を戒めている真面目なお前が、どうして暴力沙汰なんか」
「……実は、お義父さんたちは毎日のように美優に電話をかけて、早く僕と別れて子供を堕ろせと言ってくるんです。着信拒否をすれば、今度はメールやLINEにまで。それで美優にストレスがかかってしまって」
「ひでぇ話だな。テメエの娘だろうに」
だからこそ強いてきているのかもしれないが。しかし、良薬も過ぎれば毒となるし、言葉とは言の刃である。たとえ非のない正論であっても、振りかざせばDVとなるものだ。
「仮に中絶するにも、期間ってなかったかしら?」
「はい、二十一週と六日――美優は、今月の末がそうで。それまでに押し切ろうとしているんですよ。ですから、今日はちょうど昨日までの出張の振替休みだったので、お土産を持って、美優の実家へ止めて貰うよう頭を下げに行ったんです」
「だが拗れた、と」
「……はい。僕に対するものなら甘んじて受け入れます。けれど、美優とお腹の子まで悪く言われるのは耐えられませんでした。自分たちの言うことを聞かない美優は娘じゃなく、ただの売女だなんて。あまつさえ、子供は他の男との間に出来た穢れた子かもしれないだなんて……! あんなに優しい美優を苦しめて、心が穢れているのはどっちなんだ!」
青白くなるほど強く握りしめた拳の上に、大粒の雫が落ちる。
「確かに僕は、まだ独り立ちすらできていません。僕の親に頼りながらの生活です。けれどせめて結婚資金は僕が頑張るんだって、子供に胸を張れるよう頑張ろうねって……だのに。
漆山さん、僕たちはそんなに、咎められなければならないことをしたんでしょうか?」
嗚咽だけは漏らすまいと下顎に筋を立てて、大輔が赤くなった瞳で訴える。
紲は言葉に詰まって、頬を掻いた。怪異の絡まない人生訓など、武骨な自分に聞くだけ野暮だろう。かといって、切り捨てることは憚られた。
「俺も無責任さでは似たようなものだからな……だから、俺なりの答えを返しておく」
手を伸ばし、大輔の頭に手のひらを乗せる。軽く力をかけてもびくともしない、武辺者の意固地な首は、一体どれだけの想いを背負っているのだろうか。
「よくやった。お前が、お前の大切な人を守るために振るった拳だ。胸を張れ」
大輔の食いしばった歯が一度大きく膨らむ。堪えようと震えるバカヤロウを撫で回して諫めると、やがて取調室に遅い夕立が降り始めた。
給湯室のポットと格闘して煎れた温かいお茶を持って、楪はロビーへと戻った。
指先に温かいものが触れたことで、ようやく美優が大きく呼吸することができた。芽瑠の見立てでは、えずきもなく、大人しくしていれば大丈夫とのことだった。
ほかほかの湯気にそっと一口つけたところで、彼女の動きがロボットのようになる。
「やっぱり苦い? ごめんね、職員用のお茶が粉末で……入れ過ぎちゃって」
「もう、別に責めたりしないよ。ありがと」
そう言って、ようやく美優はくしゃっとした笑顔を見せてくれた。卒業してからたった数ヶ月のことだけれど、すごく懐かしく感じる。
美優は楪を宥めるようにもう一口つけてから、じっと紙コップに視線を落とした。
「うちの親、大輔のことをすごく嫌ってるんだ。だから多分、お父さんが彼のことを煽ったんだと思う」
「私も、大輔くんが理由なくそういうことをする人じゃないって、信じてる」
肩に手を回すと、彼女はくすぐったそうにはにかんだ。
「……私のせいなんだ」
「えっ?」
「去年の今頃さ、楪の視力が悪くなったじゃない? それから楪が『カッコいい紲さん』の話をしだして。夏休みが終わったら、指輪を首から下げてて。あの時、けっこうクラスがパニックになったんだよ?」
「そう、だったんだ」
知らなかった。夏休みの後から周囲の恋バナが多くなっていた気がするけれど、受験勉強の合間の息抜きだとばかり思っていた。そのきっかけがまさか自分にあるとは露ほども。
驚く楪の一方、芽瑠は『カッコいい紲さん』の辺りで顔を背け、美優の背中に隠れて笑いを堪えている。
「だから熱に浮かされちゃったのかなあ。あ、別に、全然、楪のせいにしてるわけじゃないんだけどね。なんていうか、恋に焦ったってところもあって。そうしたら、バレンタイン過ぎた辺りで、生理が来なくなって……」
「……後悔してるの?」
「ううん、それだけは絶対にない。大輔のことはちゃんと、本当に好きだよ。けれど、私がもっとちゃんと地に足をつけていれば、大輔が苦しむことはなかったのかなって。この子も、ちゃんと歓迎されていたのかなって」
お腹を撫でる美優の慈しむような母の目に、偽りはなかった。しかし、その奥は不安に揺れていた。
「やっぱり考えちゃうんだ。不純な動機で妊娠した私に、この子のお母さんになる権利はあるのかな、って」
「そんなこと……」
ないと言うのは簡単だった。けれど、自分がそう答えていいのだろうか。二十歳以上か未満かという世間体や、成人式での和服。ひいては、自分の失われた視力。そういった都合で大切な人との子を成すことを遠ざけている自分が、無責任に答えていいものだろうか。
「産もうとしてる。その時点で権利はあるですよ」
答えに窮した楪の代わりに、芽瑠がきっぱりと切って捨てた。彼女は立ち上がり、自販機の方へと歩きながら、財布から小銭を出して追加のコーヒーを買う。
缶のプルタブをかちりと引いて、壁に寄り掛かった表情は、医者としてのものになっていた。
「まあ、ヤッた先から産めばいいってもんでもねえですが……。きちんとケツ拭こうとしてるんだ、立派なもんです。なんなら今から担当変えてでもウチが受け持っちゃる。喜んで取り上げますから安心せい」
歯を見せて笑う芽瑠に、美優が頭を下げた。
「ありがとうございます。何と言えばいいのか……」
「それが仕事ですからね。ただ、他のことはウチの管轄外ですよ。矢野目さんが一番言葉を交わすべきはパートナーだ。二人で答えを見つけてくれです」
「はい」
頬を伝った涙が、紙コップの中へと落ちた。
「実は、あまりに酷くなるようなら、母子シェルターに入ろうかって、大輔と話していたんです。いっそ庄内に行ってしまえば、手出しもできないだろうって」
美優が鞄からクリアファイルを取り出し、中から折りたたまれた一枚の紙を拡げた。
それを覗き込んで目を走らせた芽瑠が、ぎょっと目を見開いた。
「楪。
「はい。えっ、まさか……ごめん美優、ちょっと良く見せて!」
楪は美優の手から半ばひったくるように取り上げ、目を凝らした。
『うめづ会』の見出しに血の気が引く。『子供を守るために』『未来のために』。そんな謳い文句が白々しい。
――あの男の名前は安隆寺伊佐雄いさお。伊氏波の伊に、佐賀県の佐、英雄の雄と書いたはずです。
代表の名前がオフィスで若宮が話していた字面と一致したことで、心臓がガンガンと警鐘を鳴らした。今度は自分の方が過呼吸を起こしてしまいそうだ。
「ごめん、美優。理由は話せないけれど、ここだけは駄目。他のところにして、お願い」
「う、うん……楪がそう言うなら」
「うちの病院から紹介できるところもあるですから、二度手間になって申し訳ねえですが、明日以降、うちに顔を出してくれです」
水際で食い止められたことを、楪は天に感謝した。美優のぬくもりを確かめるように、そして祈るように。何度も、何度も、その手をさするのだった。
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