慧可断臂

 傷口を押さえた手のひらから零れる血に、紲は悔やんだ。焦げたジャケットでも羽織ってさえいれば、圧迫も多少はやりやすかったろうに。自分のファッションのプライドに涙が出そうだ。


「……どうした、トドメは刺さねえのか?」


 退いていく白蛇の首を一瞥し、紲は安隆寺を見上げる。


「挑発しても無駄だ、オナカマの。貴公の臓腑には、先の煙草のような仕掛けがあるのだろう? そのまま永き三途に沈むがよい」

「血が流れるのは許してくれるのか。これでも血統書付きなんだぜ?」

「減らず口を。神附をされた巫女のものならいざ知らず、貴公の血では足りぬ」


 勝ち誇りるように口角を吊り上げ、安隆寺は喉を鳴らした。


「そういえば、貴公の連れは神附をされた気配があったか」

「――ッ!?」


 心臓がドクンと跳ね上がった。脈が速くなったせいで、出血の量も次第に増していく。堪えろ、堪えろ。そう気が逸るほど、逆効果の袋小路に追い詰められる。

 歯を食いしばる紲の頭を、安隆寺は足袋の裏で踏みにじった。


「安心したまえ。あの娘に何をしたのかは知らぬが、巫女に成り切れない欠陥品など恐るるに足りん。万が一にも、幸が不完全な時に口寄せをされれば危うかったが、既に母神になった今、時すでに遅し。言ったであろう、今さら何ができると?」


 爪先で小突くように顔中を蹂躙されるのに、紲は抵抗を止めた。


「ようやく大人しくなったな。貴公も、出過ぎなければ死なずにいられたろうに。哀れ哀れ、くわばらくわばら」

「……そうか。犬死にだったか」


 紲は強張らせていた首の力を抜き、頭を血溜まりに委ねた。耳たぶをなぞり、ひたと吸い付いてきた血液は、自分のものながら、風呂の後の耳詰まりのように鬱陶しい。

 さらには震え出したと来た。紲は安隆寺に悟られぬよう違和感を探る。

 直後にそれは確信へと変わった。紲のポケットに仕舞っていたスマホが、着信音を鳴らしたからだ。先の振動は、一瞬先んじるバイブレーションだった。


「出なくていいのかね?」


 安隆寺が嘲るように見下ろしてくる。


「……出る必要はねえよ」


 紲は頬をふっと緩めた。こんな着信音、設定した覚えはない。そう、覚えはないのだ。

 やけに軽快ファンシーな短いメロディは三度ほどループしてからプツッと途絶え、次にスピーカーから声がした。


『わたし、メリー。今、貴方の後ろにいるの』

「うん?」


 まるでこの空間で人が喋っているかのようなボリュームに、そしてそのセリフに、安隆寺が一歩退き身構える。


『ちーがうって、そっちじゃなくてあっち、狙うのは敵の方! あ、ジェニーでーす』

『はおはお、えみりーだお☆ たーげっとはつるっぱげのほうね、りょー!』


 賑やかな会話がビジートーンに変わった瞬間、周囲の空気が急激に冷え込んだ。

 安隆寺の背後にゆらりと、赤、青、黒のフレアが揺らめき、鎌にチェーンソーにマスケット銃にと手に手に物騒なものを構えた軍ロリ姿の愛らしいビスクドール三姉妹が現れた。


「――後ろか!」


 安隆寺が錫杖を翻しながら振り返った。一合した殺気は三手に別れ、けたけたと笑いながら飛び回る。



『後ろか、だって! ウケる!』

『メリー、後ろにいるって言ったよね?』


 青いドレスに銀髪、チェーンソーを携えたジェニーが笑うと、赤いドレスに金髪のメリーが鎌をだらりと下ろして不機嫌そうに唸る。


『きっとばかなんだお。のーみそがないから、かみのけもはえないの!』


 モノトーンのドレスに長い黒髪のエミリーが銃口でハゲを指せば、『『それなー!』』とグラスアイを器用に開閉したウィンクが巻き起こる。


「……お嬢さんたち、どこから来たんだね?」

『このはげ、じゅーしょをきこうとしてくるお!』

『やだー、ゲロキモなんですけどー! ヒャヒャヒャヒャ!』


 女の子たちの黄色い罵声に、安隆寺が青筋を立て、苛立ちを露わにする。


『メリーたち、遊びに来たのよ?』

「遊び、だと?」


 聞き返した安隆寺に、メリーたちはパカパカと首を縦に揺らしてから、くるりと背を向けた。


『『『いないいなーい――ばあっ!』』』


 再び振り返った三人の形相は、グラスアイが裏返り、肌はヒビ割れ、髪もボロボロにちぢれ果てた怖ろしいものだった。

 わずか一瞬、安隆寺が目を背ける。するとそこにはもう、メリーたちの姿はなかった。


『ばいばい』


 響いてきた声に、安隆寺はハッとして振り返る。


「……逃げ果せたか」


 空になった血溜まりから点々と外に続く飛沫を目で追い、安隆寺は鼻を鳴らした。






 教会から脱出した紲は、バイクで山を駆け下りていた。


「気付けが手荒すぎて、違和感が半端ねえんだが!」


 焼きつけられた腹部を撫でながら、並走する魔女に向かって叫ぶ。


「我慢しなさいオトコノコ! ……臓器は無事って本当でしょうね?」

「クソ坊主の言葉を信じていいならな」


 安隆寺が『メリーさんの電話』に気を取られている隙にニコラによって救出された紲は、彼女の火を熾す紙を丸めて傷口に捻じ込まれ、貫通した内部ごと焼灼するという強引な止血法を採られていた。

 命があるだけマシとはいえ、焼けた皮膚が突っ張り、風を受けて孔がひくひくと痙攣するのが気持ち悪くて仕方がない。せめてジャケットがあればと、改めて悔やんだ。


「まったく貴方は、会う度会う度変なモノばっかり相手して!」

「言ってくれるな。俺だってほとほと困ってるんだよ」


 最悪だわと、ニコラが大きくため息を吐いた。


「近所でいづめこ人形の遺体が出るわ、最上川に白いヒュドラが現れるわ。楪さんから電話が来て、貴方を助けてくださいって頼まれるわ!」


 合点がいった。そういえば、英から『母子シェルター』の住所を送られたのはグループのタイムラインだったか。いつぞやのように山刀伐峠まで単身乗り込む行動力を見せられていたら共倒れだったが、ファインプレーである。

 心の中で楪に感謝を送ったのも束の間、紲は耳に残った違和感に気付いた。


「ちょっと待て。お前の近所で遺体が出たのか?」

「ええそう。狭間の方でチャーリーの散歩をしていたら、巨大な蛇の頭が降ってくるのが見えて。慌てて表に戻って見れば、そこの家の奥様が、例の写真と同じように成ってしまっていたの」

「信者の家だったか……」


 肩を落とすと、ニコラはエナン帽を押さえて首を横に振った。


「違うはずよ。うちのお得意様だし。旦那さんにも話を聞いてみたけれど、蛇の目の信徒のことは知らなかった」

「何だと?」


 不用意に声を上げてしまい、刃物を擦られたような痛みに顔を顰める。

 であれば、内陸に向けて放たれた首の方でも、あの異教団とは無関係な妊婦が犠牲になったということ。教会すあなの中に非常食を溜め込んでいるのだから、籠って寝ていて欲しいものである。

 ホルダーにかけた、ケースの縁に乾いた血が残るスマホのスリープボタンに手を伸ばす。着信履歴がないことは、つまり、矢野目美優は無事だと期待していいだろうか。いくら少子化とはいえ、町に出れば妊婦の一人や二人すぐに見つかる。的は、いくらでもあるのだ。


「あの妙な教会にもあったけれど……あの坊主が首魁って認識でオーケー?」

「ああ、合ってる。ありゃあとんでもねえ業だ。テメエのやってることが善だと本気で信じ切ってる。奴に比べりゃ、不倫三昧の愛の女神アフロディーテや放蕩野郎の節度の神アポロンの方がよっぽど真っ直ぐだ」


 ニコラがうへえ、と苦虫か酸物を口に入れられたかのように表情を潰した。


「正義が膨らみ過ぎて、一人歩きしてしまったのね。自分で抱えるだけなら持て余して潰れるだけだったものを、信者を巻き込んで集団ユニオンになんてするから、そこに軸を得てしまった」


 彼女の言葉に、紲は押し黙った。

 正義。ベクトルがズレて暴走してはどうしようもない代物だが、言い換えれば、それ程のエネルギーを秘めた核でもある。馬鹿も鋏も核も正義も、使いようだ。

 あの『いづめこ人形』が破裂した時の安隆寺の慟哭は、形はどうあれ本物だった。だが自分はどうだ。被害に遭うのが美優でなければ誰でもいいなどと忌々しい考えを抱いてしまうことの、どこに正義があろうか。……自信がなかった。

 後ろ暗い不発弾ばかりを抱えた俺が、楪の隣に立っていいものなのだろうか。


「(何が、俺に任せろだ。俺を誰だと思ってるだ。クソ坊主に不意打ち喰らって死にかける雑魚が、どの口で――)」


 ヘルメットに隠れて、ぎりと歯を食いしばる。


「希望があるとすれば、穢れを食めば神性が落ちることかしら。けれどもう警戒されているだろうし……もう、神を以て神を制すくらいしかないかしら。ああもう、お客様の中に現人神の退魔師はいらっしゃいませんかー!」


 ニコラがわざとおどけるようにしてくれているのが目に沁みた。

 ドライブインまで戻ると、楪は駐車場の隅で人目も憚らず、ヘルメットをまるで木魚のように傍らに置いて、一心に手を合わせていた。


「楪……」

「可愛らしい比丘尼じゃないの。あれだけ心配させてるんだから、ちゃんと報いなさいよ?」

「……ああ、俺の全てをかけて贖うさ。だから、お前の力を貸してくれ」

「ええ、うん。何よ改まって水臭い。……んん?」


 箒を停止させて首を傾げるニコラの背を軽く叩き、紲はバイクから下りた。

 小突いて鳴らしたヘルメットの音でこちらに気付いた楪は、満身創痍の紲に瞳を大きく膨らませ、下唇をくしゃくしゃに縮ませて飛び起きた。

 無言でひしとしがみつき、髪を擦り付けてマーキングしてくるのを、紲も黙って受け入れる。


 この温もりを守れるのなら、俺は――

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