片恋の作家
シャワーを浴びたところで、剣道のためにお化粧も落としていたことを想い出した楪たちが、バタバタと羽織ったスーツのひっくり返った襟を直した時には、とっくにニ十分以上が経過していた。
先に悠々と歩いていた芽瑠から紲那を引き取り、我らが十三課の執務室へと向かう。
「すみません、遅くなりました!」
「こちらこそすまないね。今日は非番だったのに」
応接スペースで湯飲みに口を付けていた吾妻が、柔和な笑みを湛えて迎えてくれた。
「あーま、こんちゃ!」
「はい、紲那くんもこんにちは」
ぴっと手を掲げた可愛い挨拶に、吾妻の目尻の皺が増える。霊が視えるというだけで閑職の管理者を任じられ、いつしかもうあと一年で定年というところまで来てしまったというのに、決して腐ることなく十三課を見守り続けてくれている、好々爺だ。
楪は今一度吾妻に頭を下げてから、彼の対面で成り行きを微笑ましく眺めていた客人に目を向ける。
若い男性だった。おかっぱに切りそろえた漆のような髪と、白粉を施したような色白の線の細さがきめ細やかなコントラストを醸している。
「申し訳ありません、遅れた挙句、騒がしくしてしまって……」
「いえ。職業柄、一人で籠ることの方が多いので、人の温もりを目にすることができて嬉しいくらいですよ」
ぴんと琴を鳴らしたような声に、楪はどこか聞き覚えがあるような気がした。中性的でありながら芯に男性らしさが震え、消え入りそうなのに、しっかりと耳に届く声。
はてどこだったかと記憶を辿っていた楪を見て、男性もまた同じように目を瞬かせている。
「……もしかして、御廟さん?」
「えっ? ちが――あ、そうです!」
慌てて振った首の向きに悩み、人形のようにかくかくとトンチキに頷く。最近では職場に役所にとすっかり呼ばれ慣れており、交流の続いている友人たちからも名前呼びをされているため、あやうく旧姓を否定するところだった。
恥ずかしくなると同時に、それだけ漆山の姓が自分に息づいているのだと思うと、輪をかけてこそばゆい。
「ああごめん、視力を失っていたんだったよね。
「あっ、
楪は目を丸くした。知り合いなのかと訊ねてくる英に頷きつつ、ソファに腰かけた。
「高校の同級生なんですよ。すごく勉強ができて、通知表はほぼオール5!」
「ほぼ……?」
「あはは……体育だけは、どうしても。僕は幼い頃から体が強くなくて」
苦笑した相森は、吾妻が促してくれた二杯目のコーヒーを迎えるために、手元のカップを呷って頭を下げた。
吾妻は慣れた様子で楪にお茶、英と芽瑠にコーヒーとを用意すると、自分の席に戻っていく。途中で紲那を預かってくれようとしたが、珍しくぐずって楪から離れようとしないので、このまま抱っこしておくことにした。
「すっかり大人びたね。和装をしたら、古都の貴族さんみたい!」
「恐縮だよ。楪さんこそ、綺麗になったね」
相森の世辞に楪が照れてはにかむと、その頬を紲那に引っ張られた。諫めて引き剥がし、指についた化粧をしゃぶらないように拭ってやる。
「その子は、楪さんの?」
「そうなんだ。ほら紲那、こんにちはは?」
持ち上げるように手を置き替え、相森の方へと向けるが、紲那は「やー」と首を振るばかりだ。
「あれっ、珍しい。普段は人懐っこいくらいなのに……ごめんね?」
「そういうこともあるよ。――やあ紲那くん、僕は相森っていうんだ。よろしくね」
握手をしようと差し出された手は、背中から颯爽と抜いたスポンジ剣によって打ち落とされた。
「こら紲那!」
「やー、こいつ、きらい!」
そっぽを向きながら、襟元に剣を納める暴れん坊将軍に、楪はどうしたものかと困惑した。
壁際にもたれていた芽瑠が見かねて預かろうとしてくれるが、やはり紲那は離れる気がないらしい。
ただただ相森へと頭を下げる。彼が気にしないでくれと手を払ってくれているのが救いだった。
「もしかしたら、僕が学生時代、楪さんに片恋をしていたのがバレたのかな。楪さんから離れないのも、守ろうとしてくれているのかも」
「守る? 私を?」
見ると、紲那は肯定するようにうむりと頷いて見せた。
それに芽瑠が手を叩いて笑う。
「ああ、解った。同族嫌悪ですよ。片恋だなんてキザな言い回し、他にはドグサレくらいしか言わねえですからね」
「芽ぇ瑠ぅ……?」
「いやハナ、止めてくれるな。せっかく平安ボンボンが恋心をゲロったんじゃ、ここはイジってやるところですよ。くっ……ふふっ……ユズを好く男はそんなんばっかりか」
「ごめんなさいね、あんなんで」
「いえ、仰る通り、
謙虚に受け止めてみせた相森は、上着の内ポケットから名刺ケースを取り出した。
「言い回しも職業病ですね。申し遅れました、改めまして、相森宗貞です」
名刺を覗き込んだ英が、あっと声を上げた。
「わ、ミステリー作家さんなんですか! ああこれ読みました、『
名刺に記載された代表作のポートフォリオに、英が感嘆を漏らす。それに芽瑠が「『弥陀の剣』ですと?」と頬を引き攣らせた。
「駒姫って、最上義光の娘でしたっけ?」
首を傾げた楪に、英が指を立てる。
「そそ、ものすっごい美人だったらしいわよ。噂を聞きつけた豊臣秀次によって側室に召されたんだけど、京に到着してお目通りが適う寸前で、秀次の切腹が命じられてしまったの」
「そんな……じゃあ、ちゃんと会うこともなく未亡人になったんですか?」
「それだけならまだいいわ。既に側室という肩書があったから、まとめて処刑されてしまったのよ。その時に詠んだ辞世の句の中に『弥陀の剣』が出てくるのね」
「『罪をきる弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき』だね」
執務机から、老眼鏡をかけた吾妻が顔を上げた。
「罪なき自分が如来様の剣にかかろうと、極楽浄土に行けるでしょうという誇り高き強さを見せると同時に、『弥陀の剣』を振るっているつもりの豊臣を痛烈に批判した句でもあるんだ。義光公も詩文に秀でた人だったけれど、駒姫も小野小町ばりの名句を詠む素晴らしい歌仙だよ」
「さすが吾妻さん、詳しいですね」
「僕も読んでいてね。君たちを待っている間に、サイン貰っちゃった!」
年甲斐もなくキャピッと文庫本を掲げて見せる吾妻に、楪と英は苦笑した。そんな二人の肩越しに名刺を確認していた芽瑠も、突然揉み手の姿勢をとりはじめる。
「いやあ相森先生でしたか! 片恋、とてもお洒落な言い回しで!」
「あんたも調子いいわねえ」
「ばーあろ!」
へたくそな追従笑いは、あっけなくスポンジ製の弥陀の剣に斬られた。
「宗貞くんが作家さんになっていたなんて、知らなかった……」
楪は名刺を拾い上げて、件の『弥陀の剣』以外にもいくつか作品名が並んでいることにさらに驚いた。
「一応、在学中には報酬をいただくくらいになってはいたんだけれど、短編集の末席を汚すくらいでね。自分一人の名前で本を出せるまではと思って、周りには言ってなかったんだ」
「十分凄いよ。今度買って読むね!」
「ありがとう。君こそ凄いじゃない、警察官になっていたんだね」
「あはは……名ばかりなんですけどねえ」
反射的に顔を梅干しのようにしたのは、決して謙遜ではなかった。
「この十三課に協力していたのは、紲さんだけで。私はそのお供みたいな感じだったの。元々事務作業くらいしかしていなかったから、だったらいっそ十三課のお抱えにしようかって話になってね」
「――という名目の懐柔ね。警察の方から恩を売った形にして、面目を保とうとしているのよ」
「あいつらウチにも肩書与えようとしていやがったですからねえ」
芽瑠が遠くを見つめて乾いた笑いを零した。
梅津伊佐雄が引き起こした巨大白蛇の件で、漆山紲は殉職した。本来は知る者ぞ知る結末と片付けられるところだったが、生憎と事件後に回収された『イヅメコ人形』たちは破壊するほかに手の施しようがなく、その証拠を以て、いよいよ警察も事の重大さを直視せざるを得なくなったのだ。
つまり、漆山紲の死が公的に処理されたということである。
それだけであれば聞こえもいいが、その実、功績を称えたという体にして主導権を握ろうとする思惑があった。遺族である妻・楪の収入や社会保障周りを世話するだけで、白蛇と渡り合う程の飼い犬から手を噛まれないでいられるのならば安いものだろう。
こちらからすれば、元よりそんなつもりはないのだが。貰えるのならば貰っておこうということで、今に至る。
「そんなわけで、私は巡査であって巡査じゃないんだ。一般の人が想像するような捜査はできないの。税金の無駄遣いと言われれば何も申し開きができません」
「そこは胸を張っていいのよ。あの件だって、ユズが頑張ったからこそでしょう?」
「それはそうなんですけどぉ……」
楪はむず痒くなって首を竦めた。とにかく場当たり的に必死になっていただけで、何か実力があったとか、計画性を持って事を運んだとか、そういうことは一切ないからだ。
「ところで、さっき名前の挙がった『紲さん』って、漆山さんのことだよね。彼は今日、お休み?」
「ううん。殉職したの。もう二年と半年になるかな。ちなみに、この聞かない子の父親が、紲さんです」
ね、と紲那を見やると、彼は腕を組んでふんすと誇らしげである。
「そうか……お悔やみを。祖母の件ではお世話になったんだ」
「お婆さんの?」
「うん。病で亡くなったはずの祖母が家の中を徘徊するようになってね。その時は、漆山さんと、おヤチさんって方が色々と良くしてくれて」
思いがけず出てきた懐かしい名前に、楪は頬を緩めた。
「彼の携帯が通じなくなっていたから、こちらに連絡をしたんだけど……そういう事情だったんだね」
相森は哀悼の意を示すように目を伏せ、カップの取っ手に触れたところで、「そうだ依頼!」と弾かれたように顔を上げた。
「……しても?」
おそるおそる訊ねる上目遣いに、楪はにっこりと微笑んで頷いた。
「うん。紲さんはいないけれど、鶴岡にすごい人の伝手もあるから、力になってあげられると思うよ。――あっ、もちろん、私も頑張るから!」
「ふふっ、ありがとう」
相森は安心したように眉尻を下げ、ソファの横に置いていた鞄から、ファイルを取り出した。
机の上に置かれたのは、写真だった。相森と並んで、貞淑そうな美貌の女性が写っている。彼女も線が細く色白で、ともに和装をすればよく映えそうなツーショットだった。
「こちらは、
「二色根……聞いたことあるわね。最近何かの賞を獲りました?」
「ええ、ホラー業界では最大級の賞を。とても奥ゆかしい文章を書く、人としても尊敬できる方なんですよ」
「ほーん。ホラーは読まんなあ。んで、このべっぴんがどうしたです?」
芽瑠が訪ねると、相森は重苦しい顔で下唇を引き結んだ。
「実は……先日、取材で米沢へ行った時、異形と一緒に歩いているところを見たんです」
「異形? 幽霊とかではなく?」
楪の疑問に、相森はゆっくりと首を横に振った。
「うん。あれは明らかに人の形からかけ離れていたよ」
「たまにそういうモノが、視える人にちょっかいをかけていたりするけれど、たまたまそれが並んで見えた……というのは?」
「いいえ。それどころか、まるで恋人のように身を寄せ合っていて……」
英の提示した説には、力なく拳が握られた。
「思い切って声をかけてみたんですが、その瞬間、異形の姿は消えてしまっていました。真知さんもいつも通りの微笑みを湛えていて……けれど、見間違えではないと思うんです」
何か悪いことに巻き込まれていないといいのだけれど、と零した相森のため息が、温いコーヒーに溶けた。
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