婆娑羅
境内の中心には、藻の一つさえない鏡池が、名前に違わぬ澄んだ水面に空と杉の木を映していた。古書では『羽黒神社』と書いて「いけのみたま」と読んでいたというのも頷ける。
縦二十八メートル、横三十八メートルという規模も、元寇の折に九頭龍王が現出でたという逸話に相応しい悠々たる御姿。ここからすぐ東には、幕府から贈られたという大鐘が控えている。
「銅鏡が埋納されているから『鏡池』なんですって。池の表面のことじゃないんですね」
案内板を覗き込んでいた楪が、驚いた顔でぱっと身を翻し、池を覗き込んで目を凝らす。
「何も見えませんが……?」
「埋められてるって言ったろうが。それに、水面がそうだと捉えても間違いないさ。銅鏡を埋めることで、池そのものを呪物――という言い方は拙いか。聖なるものらしめているんだから」
「羽黒山が現世を司ると考えれば、鏡というのも重要ね。『深淵を覗き込む時』って言葉があるでしょう。この池に映ったあちら側の世界から、神様の
昂る好奇心がそうさせたか、はたまた美しき鏡面の前では偽りは見破られてしまったか、ニコラは素の表情になってうっとりとしてから、ハッと頬を赤らめて服を握った。
「もうそのままいろよ」
「……言わないで。魔女には神秘性が必要なの」
そっぽを向く彼女に、紲は呆れて笑った。
水面へ反射した陽の光を追いかけて振り仰げば、そこが三神合祭殿である。一棟の中に本殿と拝殿が完結している、羽黒の修験道独自のもので、『合祭殿造り』と称されているようだ。
「お姉ちゃんと、結ちゃんを、見守っていてください」
社殿の正面で、これまでより一層恭しく二礼二拍手をした楪が、深く頭を下げた。こればかりはもう、楪自身がどれほど尽力しようと叶わない願いである。
紲もその隣に並び、手を合わせた。ツクヨミを祭神とする月山に届くのであれば、自分からもひとつ、黄泉の国について願うことがあったからだ。
「(たとえこの身が滅びようと、俺は楪を守る。だから、どうか――)」
目を伏せた。これから先の未来、愛する人の笑い顔が翳ることがありませぬように。
悪にでもなると謳った歌がある。だが、それ自体は容易いことだと、里が滅びてからのムカサリ絵馬のことを通して紲は考えていた。本当に難しいのは、悪になってまで何を成そうとしたのか、その信念を通すこと。それは、生きるということ。彼女を生かすということ。
「(こいつを見守ってやってくれ、琴葉。ヨジロウ、おヤチ、マタ、花子――)」
そして、忌み名を呼び、顔を上げる。
楪の手をとって階段を降りると、鏡池のほとりで待っていたニコラが、スマホから顔を上げた。
「……そっちの天宥社で、蜂子皇子の御尊像が拝観できるみたいだけど、行く?」
「おお、スケベ野郎の面が見られるのか」
「紲さん、さすがに境内の中では控えてください」
楪が困ったように眉尻を下げた。まるで我が子に恥をかかされて咎める親のような呆れ顔に、紲は仕方なく両手を挙げる。
灯篭の添えられた社が天宥社だった。御開帳された内部には、黒々と厳めしい顔つきで二人の童子を従えた僧形の肖像――蜂子皇子御尊影が展示されている。彼が僧形をしているのは、元々出羽三山が如来様を見出したことで開かれた地だからである。しかし出羽三山ほどの霊峰でさえも、明治の神仏分離令からは逃れられず、今の形に至っているのである。
「あれが、蜂子皇子なんですか? 思っていたよりも、怖い顔をされているんですね」
楪が不安そうに胸の前で手を握る。無理もない。肖像に描かれた蜂子皇子は肌がどす黒く、目はぎょろりと見開き、口は耳元まで裂けたように描かれており、鬼の貌と言われても頷けるくらいだからだ。
「スケ――蜂子皇子は、出羽三山で修行したことで『能除太子』と呼ばれているんだ。能、すなわち人間の煩悩だな。四苦三十六、八苦七十二、足して百八。それだけの民の苦悩を聞き、取り払おうとしたことで、御自らに穢れが溜まり、このような鬼面に成られたらしい」
「……この肖像が蜂子皇子を描いたものではないという説もあるよ。持っている道具や髪型から、右下が『
「成程な。たしかに、不動明王が開山したなんて図式になるのは妙だ。てっきりスケベに鼻の下伸ばしてるから、口があんなに緩んでるのかと思ったよ」
「怒られますよ?」
「はいはい不敬不敬」
しかし、わざわざ童子を従えた御姿を肖像にしていることには何か意味があるはずである。昨今では歴史上の人物の肖像画や銅像が訂正される事例も珍しくないから、いつ有力説がひっくり返っても不思議ではない。
「にしても、能除太子ねえ。どうしてこう、宗教ってやつは、どいつもこいつも救いを求めているんだろうな」
「幸せを願うことは普通なんじゃないですか?」
「考えてもみろ。世の中にはスクナヒコナみたいに、酒や温泉の神だっているんだ。人生は楽しいもの! みんなで集まってはっちゃけよーぜ! ひゃっはー、はっぴーらーいふ! みたいな宗教があってもいいだろ」
わざとらしい棒読みのパリピ再現に、ニコラが噴き出しそうになる口元を抑えてぷるぷると肩を震わせていた。
「――
「ほら、あんな風なチャラ男とか」
聞こえてきた素っ頓狂な調子の歌を指さしてから、紲は頭を押さえて振り返った。また妙な奴がいたものである。
山頂へ直通の道路側から美女二人を侍らせて歩いてくるのは、派手な江戸紫色のサテンシャツに身を包み、今時オモチャでも見当たらないような星型のサングラスをかけた金髪のやべーやつだった。両側で微笑みを湛える美女は淑やかな和風美人に見えるため、違和感の陰影がより激しく見える。
「何だアレ……」
きっとキ〇ガイという名の怪異だろう。目を合わせないように顔を伏せる。しかし時すでに遅く、目が合ってしまったヤツはサングラスを額にかけて、るんるんと腰をくねらせるようにして近づいてきた。
「やあ、ボク様を呼んだのは君たちかな。
「何も用はねえから帰ってくれないか……」
きらっきらと金剛石のように煌めく瞳がうざったらしい。チャラ男のサングラスを元に戻し、お引き取り願う。だが奴はめげなかった。
「ボク様は用があるよ。キュートなレディと、ミステリアスなレディ。君たちの瞳に乾杯だ。今晩空いてるかな?」
「ええと、その、夫がいるので遠慮します……」
「……私、ダンディなおじさまが好みなので」
楪とニコラから袖にされると、チャラ男はダメージを食らったように仰け反った。
それで紲は悟った。ああ、これはマタの系譜だ。アレが育ち方を間違えるとこうなるのだろう。
またしても奴はめげず、胸に手を当ててニコラの前に跪く。
「君が望むなら、鴉の色をも変えてみせよう。さあレディ、君の理想とするダンディ像を言ってごらん?」
「……そうね、ヨトゥンのような逞しくて強いおじさまかしら」
「あ、ああ! 知ってる知ってる。ヨトゥンね! 彼はボク様のズッ友だよ!」
「んな訳あるか。ヨトゥンは北欧神話の霜の巨人。つまりは種族名であって、個の人物じゃねえよ」
「シモの巨人だって!? なんだ、欲しがりなだけだったんじゃないか」
早く言ってくれよと大阪のおばちゃんのように手を払う七転び八起きのチャラ男に、紲とニコラは眉間を抑えた。対象から逃れた楪はもう他人事で、愉快な光景に小さく手を叩いている始末である。
「鬼王丸を持ってきてりゃ今すぐなます切りにしてやるのに……おいそこの姉ちゃんたちよ、こんな奴に侍らされてていいのか? そんなに羽振りがいいのか」
訊ねてみるが、美女たちは微笑むばかりだった。
「実はボク様、三本目の立派なモノがあるんだあ。見たい? ねえ見たい?」
「もうお前は黙ってろ」
太陽のような笑顔を引っ叩き、サテンの首根っこを掴んで美女たちの下へと送り返す。
「いいのか、ボク様に乱暴をすると、
「こんな奴放っといて行くぞ。……たく、奴らの痕跡でも見つけられないかと思ったが、とんだバカがいただけだった」
「バカだとぅ!? もう怒った、タカミーに言いつけてやる!」
「おう、ついでに桜井と坂崎にもよろしく伝えておいてくれ」
げんなりしながら後ろ手に手を振り、紲は奴の視線から楪を隠すようにしながら、山頂入り口から境内を後にするのだった。
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