『ムカサリ』『遺顔絵師』クロスオーバー特別短編『山寺ラプソディ』

プロローグ

 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声――


 かの有名な芭蕉の句によって、さみだれを集めて速くなる最上川と共に一躍全国的な知名度を得ている、『山寺』こと宝珠山立石寺。

 陸路から仰げば緑の生い茂るのどかな美しさに満ちている一方で、石段を上へと登りゆけば、風雪に剥き出しとなった岩肌の中に石積みがされている様は、天然の要害を利用した城郭のような荘厳さがある。


 山間を流れてくる立谷川を橋の上から遠くに眺めていた姫彼岸ねりね合歓ねむが、ぐでっと呻いた。


「ああ、三千世界のセミを殺してとにかく不貞寝がしていたい……」

「え、何それ。三千……なんて?」


 隣で欄干によりかかっていた紲那は、ジェラートをつつく手を止めて合歓を見上げる。

 しかし合歓は「都々逸さ」と茹だりきった頭を何度か左右に振って、もそもそとたっぷりと時間をかけながらジェラートを頬張った。


 山形初というジェラート屋は、今や山寺観光の定番メニューだ。イタリア仕込みのジェラティエレが『素材を活かす』をコンセプトに手掛ける目玉商品には、山形産直の果実もふんだんに使われている。刹那たちが食べているものも、鶴岡産の庄内メロンを使った二種盛り。青肉赤肉両方のフレーバーを同時に頬張るという贅沢はひとしおだ。


「ドドイツ……難しい言葉ばっかり使う大人は嫌われるぞ?」

「仕方ないだろう、都々逸は都々逸としか言えないんだから。まあ、俳句と川柳くらいしか知らない小学生には早かったかな。ごめんね」

「ガキ扱いすんなよ。それに今ので思い出した、七七七五のやつだろ。国語の教科書のコラムに乗ってた」

「正解。さすがだね」


 ご褒美だと掬って差し出してきたスプーンに、紲那はじとっと半眼になった。同じ味だろと突き返すと、私のあーんに価値があるんだよ、などと臆面もなく笑う声が、セミの声に混ざって消えていく。


 姫彼岸合歓は、高名な画家だった。なんでも遺影も手掛けるとかで、自分が生まれる頃にはすでに、母やハナ姉たちと仕事上の繋がりがあったらしい。

 その割には若く見える――そんなことを言ったら誰かしらに怒られそうだけれど――整った顔立ちは、極度の癖っ毛を誤魔化すためというベリーショートの金髪も相まって、パッと見ただけでは外国人のような色香がある。

 左右の耳に揺れるアシンメトリーのピアスは、それぞれ紫苑と萱草を模っているらしい。以前その意味を尋ねてみたが、合歓は微笑んで「大切な思い出さ」とはぐらかすばかりだった。


「あっづいねえ……ただでさえ脳みそが少ないというのに、溶けてなくなってしまうよ」

「下行ったら? 川の近くなら、少しは涼しいんじゃない」

「やーだ。濡れてしまうからね。かといって離れれば、日に照り付けられた岩方が熱いんだもの。君こそ、こんなところで油売っていていいのかい?」

「オレはほら、まだ描く場所を決めてないから」

「ははっ、上手く言い換えたもんだ」


 サボりであることをお互い自覚しているは、少し罪悪感を秘めた目をして眼下をみやった。

 そこでは、幼馴染の矢野目咲希・結希姉妹が、画板を首から下げて並び、絵を描いている。それを見守るように、日影になるところから二人の母である矢野目美優と、紲那の母親である楪が談笑していた。


 今日山寺に来ているのは、夏休みの宿題のひとつである絵画をこなすためである。毎年ここで描いた絵は、いつの間にか学生コンクールに出され、いつの間にか行われた審査を経て、いつの間にか駅前のランドマークである霞城セントラルに展示される。

 いつの時代もこういったことは子供よりも大人の方が熱量が濃いもの。ちょうど楪たちが担当していた事件の関係で合歓を山形に呼んでいたこともあり、プロの教えを請おうという話になったのだ。


「合歓姉ちゃんこそ、教えに行かなくていいの?」

「私は自主性を重んじているのさ。だいたい、夏休みの宿題に絵画の技法なんて不要だろう? というか、そもそも私、そういう理屈は知らないんだよ。写実主義って知ってるかな。見たものを見たままに描いているだけでね」

「うわあ、天才肌だー」


 棒読みで冷やかした言葉は、彼女の耳には謎のフィルターを通して届いたらしく、合歓は照れくさそうに鼻を掻く。

 変わった人だな、と紲那は思った。これまでにも何度か会ったことはある。会話は成立するし、特段言動に問題があるというわけではない。けれど、どこか思考の位相がズレているように感じる。


「セミ、元気だねえ」


 深みを持ったハスキーな声で、子供のように舌にアイスを迎え入れるのを、なんとなしに目で追う。その向こう側に、ジジ、と鳴いて飛んでいくセミが見えた。照り付ける日差しからもジリジリと音が聞こえるような気がして、慌ててジェラートを口に放り込む。


「『閑さや』って言うのにさ、めっちゃセミ鳴くよね。岩にしみ入るどころか、反響してるし」

「そりゃあ、夕方に詠んだ歌だからね」

「えっ、んだの?」

「んだの。当時は山寺は地元以外じゃ知られていなかったから、芭蕉ははじめ、山寺を訪れるつもりはなかったんだ。けれど、尾花沢の歌人にして商人、紅花こうか大尽こと鈴木清風を訪ねた時に勧められて、急遽こっちまで戻って参拝したそうだよ」

「へえ。朝に尾花沢を出て、夕方にここに着けるとかすごいな……」

「彼は歩きのプロだからね。伊達に江戸から歩いてきていないよ」


 合歓がくすくすと肩を震わせる。それもそうか、と紲那は空を見上げた。この空が夕暮れに染まった時のセミの声を想像してみる。


「もっとも、日中に詠んでいたとしても成立するけれどね」

「ああ、『諸説あります』ってやつ?」

「うんにゃ、単純な解釈の余地だよ。こじつけとも言うけれど」


 クラスに一人はいるような偏屈屋にしては無邪気な笑みを浮かべて、合歓は空に指を走らせた。


「『閑』って字は、心の落ち着いた様子を表すんだ。だから、現代人の私たちにとっては暑くてたまらなくても、彼らにとっては――いや、君だって、この雄大な大自然を感じ取れるだろう?」

「まあ、そりゃあ……」

「それに、昔はここまで気温が高くなかったからね。ちょっと前の時代でさえ、扇風機で事足りるくらいだったそうだよ」


 マジか、と紲那は頬を引き攣らせた。地球温暖化のせいだろうか。そう考えれば、これらセミの声も、暑さに悲鳴を上げている阿鼻叫喚の図に見えてきて、少しだけ背筋が涼しくなる。

 ジェラートのカップの底を掻き回しながら、合歓が続ける。


「『岩にしみ入る』の方も同じさ。さっき君は『反響している』といったけれど、それは、岩が吸い込める許容量を超えてしまって、溢れている分だとも考えられないかい?」

「だったら『岩から溢るる』とか詠んでるんじゃねえの?」

「おお、いいね。そういう感じでいこう」

「あん?」

「今のが、絵を描くための授業だよ。見たものを見たままに描くのが絵だけれど、その見方は十人十色、百人百様なんだ。だから面白いのさ」

「ええ……?」


 とんだ詭弁だと眉を潜めながら、肩に目掛けて軽くお仕置きパンチを食らわせる。殴るのではなく、当てて押し込むイメージだ。「やーらーれーたー」と合歓は大仰にのけぞって見せたが、手応え的には、足が一切揺らいでいなかったことに、紲那は呆然と自分の握り拳を見た。

 浮世離れしているのに、地に足が付いている。本当に、不思議な人だった。


「あ、紲那! 姫彼岸先生!」


 カップを傾けて底に溜まった蜜を流し込んでいると、咲希と結希の二人が欄干の向こうから回り込んできた。


「もうすぐ英さんと芽瑠さんも着くって」

「もうサボれないからね、紲那?」

「サボってたわけじゃねえし。ゆっくり味わって食べてたの」

「ほおほお、跳ねっ返りかと思っていたけれど、案外尻に敷かれているんだね」

「んなっ……」


 にやにやと膝を屈めてこちらを覗き込んでくる悪魔に、紲那は驚いてたたらを踏む。


「いつもこうです。ねー?」

「ねー? 紲那ったら、目を離すとすぐどっかに行っちゃうんで」

「うるへー」


 顔を見合って得意げな二人を睨みつけようとして、紲那は、この状況が拙いことを悟った。咲希と結希の二人だけならばいざ知らず、今は合歓もいる。


――女三人寄れば姦しい。気を付けろ、あれは男じゃ歯が立たん。


 楪や英の上司である落合が、そこに芽瑠を足した漆山家母親三人衆に言い込められるたび、苦い顔で耳打ちしてくれる注意事項だ。


「わあったよ。戻る、戻ればいいんだろ? 行くぞ!」


 カップを折り潰し、逃げるように踏み出した紲那は、背中にかかる生温かい笑い声に気恥ずかしくなって、ついには駆け出すのだった。

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