生存者

 紲那は固唾を飲んで、芋煮鍋の中で沸き立つ気泡を見つめていた。それは徐々に勢いを失っていって、ぴたりと鳴りを潜めた。同時に、カセットコンロの火もはたと消えてしまった。


「……縁起が悪いね」


 遣る瀬無さげに髪を掻き上げながら、合歓がコンロのつまみを回して止める。

 彼女の言葉の意味をにわかには理解できなかった紲那は、一見しただけでは数十秒前となんら変わらないのどかな景色の中に忙しなく視線を彷徨わせて、何往復かしたところでようやく合点が行った。

 途端に、急に怖くなってきて、下あごがかたかたと震えはじめる。


「なあ合歓姉ちゃん、俺たちの方が消えたって、どういうことだよ?」

「そうだな……ううん、どう説明したものだろうか」

「はっきり言ってくれ。オレは子供だけど、バカじゃない」


 ぐっと奥歯を噛み締めながら、半ば睨め付けるように合歓を見上げる。

 合歓はくすりと穏やかな顔で笑って、紲那の肩越しに後ろの方を見やった。


「(あっ、そうか。咲希と結希もいるんだ……)」


 紲那はハッとした。ちらりと横目で窺うように様子を見れば、二人は体をぎゅうと縮めたまま、震えることも、身を寄せ合うこともできずに顔を青白くさせている。

 小さい頃に絵本で見た、ハリネズミのようだと思った。怖さを紛らわすためにくっつきたいのに、その行動さえ裏目に出てしまわないか不安で、近づけないでいる。

 紲那は意を決して――努めてさりげなく――後ろ手に探った女子の細い手首を掴んだ。


「大丈夫。オレがついてる」

「紲那……」

「でも、お母さんたちが」

「大丈夫。大丈夫だから」


 自分にも言い聞かせるように繰り返して、紲那は、自分のボキャブラリが少ないことを呪った。芽瑠姉ちゃんたちが「女の子には同調してやれ」と言っていた記憶があるけれど、この状況で『怖い』に同調すればドツボにハマりそうだったし、何より結局、その同調した後の言葉を続けられそうにない。

 不幸中の幸いだったのは、二人の手を握っていることで、自分の冷や汗を拭う暇がなかったことだろうか。気にしないように気を張っているうちは、強がっていられるから。


「きっと母さんたちも、オレたちがいなくなったことには気付いている。必ずニコラ姉ちゃんが来てくれるから、それまでの辛抱だ」

「そう、だよね。うん、頑張ろう、結希!」

「うん……ひっく、お母さぁん!」

「あーもう、泣くなよ!」


 こうなってはもう、女子のなだめ方なんて知らない。ぐずりはじめた手を姉と繋がせて、紲那は合歓の方に向かった。

 咲希と結希を視界に収めながら周囲を注意深く観察している合歓に、小声で問いかける。


「……で? マジでオレらの方がヤバいの? 母さんたちの方じゃなくて?」

「ああ。空気が違うからね」

「空気ぃ? 相変わらず暑苦しいだけだと思うんだけど」

「暑いことは暑いんだけど、それよりもずっと怠い……そうだなあ、冷めてきたお風呂に入り続けているような虚無感、といえば分かるかい?」

「……全然、分かんねえ」

「あははっ、そっか。まあ、知らない方がいい温度だ。忘れてくれ」


 服の上から胸元を握りしめて、どこかぎこちなく笑う合歓に、紲那はきょとんと首を傾げた。

 大人はたまに変なことを知っている。こっちが知りたがると、決まって「子供には早い」と秘密にして、少し寂しそうな顔をする。


「まあいいや、とりあえず腹減ったし、芋煮を食ってから考えようぜ」

「――ダメだ、少年!」


 弾かれたように血相を変えた合歓が、おたまを取り上げた紲那の手を掴んだ。

 想像より二回りくらい強い力に、紲那は反射的な抵抗も出来ずに固まってしまう。


「ごめん、オレ……」

「いや、私の方こそすまない。事前に注意しておくべきだった」


 突然合歓が声を上げたことに驚いて、咲希と結希もおそるおそるやってくる。


「ここは、私たちが元いた世界とはズレた場所なんだ。そういうところで物を食べることは『黄泉戸喫ヨモツヘグイ』と言ってね、ズレた世界に閉じ込められてしまうと言われているんだよ」


 合歓の言葉に、咲希たちがひっと小さな悲鳴を上げた。


「ごめんね、怖がらせるつもりじゃなかったんだけど。ああ、大人の私がしっかりしないとな」

「こんな状況じゃお互い様だろ。皆で協力して、出る方法を探さないと」

「えっ、ニコラさんが来るまで待てばいいんじゃないの?」

「あっ、やべっ……」


 紲那は自分の失言に気が付いて、思わず顔を顰めた。しかし、それよりもずっとくしゃくしゃな顔をして、咲希と結希が今にも泣きそうにしているものだから、もうオロオロとするしか術はなかった。

 合歓が咲希たちの肩を抱き寄せて宥めながら、苦笑気味のアイコンタクトをくれる。

 仕方がないから、紲那は持ちうる知識を総動員して二人に説明をした。父さんと母さんの出会いを記した『世界に一冊だけの本』は、ページが擦り切れるくらいに読んでいる。


 ここが幽世であること。その時間の進み方は現世と異なること。ニコラが助けに来てくれるのは間違いないが、それは自分たちにとってどれ程の時間になるか見当も付かないこと。

 そして、こんな場所に引き込まれた以上は、何かしらの原因があること。

 時折合歓が、遺顔絵師としての経験から補足を入れてくれたが、おおよそ否定されなかったところを見るに、嫌な予想は当たってしまっているのだろう。


「問題は、どこに行くかなんだけれど……」


 先頭を紲那、殿しんがりを合歓という布陣で土手を上がった一行は、東西に延びる道の向こうへとめいめいに目を凝らした。

 けれどどれだけそうしていても、そこには見慣れた田舎の風景としか思えない。都会から来た合歓でも、違和感は見つけられないらしかった。


 ふと、結希が消え入りそうな声で「お寺」と呟いた。


「ここって、お化けの世界なんだよね。じゃあ、何で山寺はあるの?」

「そりゃあ、別に寺や神社だからって神聖なものってわけじゃねえから――」


 言いかけて、紲那は合歓と顔を見合わせた。


「山寺はさすがに神聖な場所だよな?」

「それならそれで、避難所には持ってこいだね」

「……ちなみに、そうじゃない場合は?」

「そここそが元凶、ってところかな」


 もう遠回しな言い方をしなくなった合歓に、紲那は引き攣った空元気の笑顔で返す。大丈夫。はっきり言ってもらった方が気が楽だ。


「(大丈夫。オレには父さんと母さんの血が流れているんだから)」


 拳を握りしめる。男の約束を、ときどき夢に見る。どんなことを言っていたのかはノイズがかかっていて、ぜんぜん思い出せないけれど。

 鬼が出るか蛇が出るか。意を決して一歩目を踏み出そうとした紲那だったが、突然山間を稲妻のように響いてきた男の悲鳴に、驚いて足を踏み外すところだった。


「な、何だ!?」

「あっちみたいだね――って、こっちに来たあ!?」


 合歓が素っ頓狂な声を上げて身構える。


 既に悲鳴は吐き尽くしてしまったのか、謎の男の声は嘔吐の瞬間を無限に繰り返しているような、息切れと泣きじゃくる声になっていた。

 そしてその声が近づいてくるとともに、白と黒の色をした肉毬が、徐々にでっぷりと肥えたスーツ姿の男の輪郭を鮮明にしていく。


「合歓姉ちゃん、足がある! 生存者だよ!」

「別に足があるからって生者とは限らないよ……ああこら、待つんだ少年!」

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