犠牲者

 どれほど意識が後方へ向いていたのだろうか、中年の男性は紲那の何度目かの呼びかけでようやく気が付いたらしく、ハッと顔を上げては仰け反るままに尻もちをついた。


「……おっさん、大丈夫?」


 その見事な転びっぷりのおかげで幾分か冷静になった紲那は、声をかけながら覗き込み、手を差し伸べる。

 男性は決死の形相で何かを繰り返し呟きながら、紲那の細い腕を手繰り寄せるように体を起こしたかと思うと、今度は祈るようにうずくまり、こちらへ縋って来た。


「助けてくれ、殺される、殺される殺される殺される……!」


 しかし、紲那と合歓が男性の走ってきた方を見やっても、追って来るナニカの姿どころか、気配も感じられない。


「おいおっさん、何があったんだよ。何に殺されるって?」

「女……女! 殺される! 殺されるぅ!」

「落ち着け、何も追いかけてきていない!」


 合歓の一喝に、男性は一度ひときわ大きな悲鳴を上げたが、そこで初めてこちらと目が合うと、しばらく息を切らしたまま硬直した末に、どっと全身の力を抜いた。


「私は生きて……いや、君たちは? 君たちは生きているのか!?」

「ああもう、落ち着けといっただろう。ほら、まずは汗を拭くんだ」


 男性は合歓からハンカチを受け取ると、恐縮したように何度も頭を下げながら、首筋から拭き始めた。


「私は姫彼岸合歓。この子たちは連れ……一言で表せば同じマレビトさ」

「マレビト、とは?」

「ふむ、言葉の意味は知らないか……つまり一般人?」


 首を傾げる男性をよそに、あごに手を当てて思案顔をしていた合歓だったが、すぐに元の表情に戻って男性に向き直った。


「簡単に言えば、貴方と同じく異界に迷い込んだ人間さ。安心していい、今はまだ生きているよ」

「はあ……」

「それで、貴方は誰で、どうしてここに? 見たところ、スーツも腕時計もブランド品。巻き込まれるのとは無縁そうだけれど」

「ええと、私は高擶たかだま正次郎しょうじろうと申します。どうしてここにいるのかは、わかりません……」


 がっくりと項垂れた顔は汗が引き、青白くなっている。


「ここに来る時、元の世界にいた日の家を出てからの行動を教えてもらえるかい?」

「家? 家……ああ、家を追い出されて」

「追い出された?」

「はい。私が仕事ばかりにかまけていたのが悪かったんです。コロナ禍が明けて、さあこれからという時で、がむしゃらでした。気が付けば、妻は不倫、娘は援交で……豚の居場所はもうないと。出て行けと。そう言われて」


 紲那は目を伏せて奥歯を噛んだ。世の中には父親の背中を求めて止まない人間もいるというのに、平気で父親を疎んじる者もいる。

 もちろん、親だからというだけで赦さなければならないわけじゃない。それが解っているからこそ、何も言えなかった。母の言う通り「うちはうち、よそはよそ」なのだ。


「……少年、大丈夫かい?」

「ああ、何でもねえよ。子供の前でする話じゃねえよなあって思っただけ」

「あっ、えっ、すみません」


 紲那は空とぼけたつもりだったが、今度は高擶の方がびくりと反応する番だった。


「ねえお姉ちゃん、エンコーって何?」

「パパ活みたいなものだよ」

「最近の子供は、まったくもう。すまない高擶さん、気にしないでくれ――」


 謝罪を言いかけた合歓の唇が、ハッと中途半端なところで止まった。


「高擶……もしかして、高擶さんの家は天童の清池?」

「どうして、それを?」

「私の友人が警察の人間でね、今朝方あなたの家に行ったんだよ。出動の電話がかかった際、高擶という名前が出ていたのを憶えている」

「そうでしたか、捜索願を出してくれていたのか……」


 高擶は大きく呼吸をすると、腰が抜けたかのようにぺたんと座り込んだ。

 紲那は合歓の袖を引き、耳打ちする。


「いいのかよ? 捜索願なんかじゃねえだろアレ」


 先刻合流を果たした英たちの話では、家族は父親を亡き者として扱っていたはずだ。まして十三課にお鉢が回って来たのだから、ただ事ではない。


「先ずは元の世界に帰る気力を出してもらわないといけないからね」

「そういうことね。真実は合歓姉ちゃんから教えてやれよ? オレはパス」


 短い打ち合わせを終えて、振り返ろうとした紲那は、高擶がほっと吐き出した安堵の息の中に混じった言葉に足を止めた。


「縁を切ろうとしなければ良かった」

「縁? どういうことだよおっさん」

「実家のある宮城に向かおうとしていたんだ。ふらふらと車を走らせて、気が付いたら山寺にいてね。ならばまずは参拝して縁を切ろう。一泊して、それから宮城に行こう。そうしたら、気が付いたらここへ」


 紲那と合歓は目配せをした。これは『呼ばれた』というやつなのだろう。


「どこで道を間違えたんだろう……やり直せたらなあ」


 仮初の希望を握りしめるようにげんこつを作り、高擶が立ち上がろうとする。

 その時だった。茹だるような夏の暑さがにわかに冷え込んだかと思うと、ぞわりと、嫌な感覚のする空気が紲那たちの全身を撫でた。


『ユルサナイ』


 きりきりと頭の内側に響く声は、黒板を引っ掻いたような嫌な甲高さがある。

 その怪物は、高擶の背後に現れていた。一見すると女性のようだが、黒くくすんだ全身に紅葉のような血の痕がべったりと付いていて、生きた人間とは到底呼べない有様だった。

 女がじりじりと近づく度に、引きずるようにして持っている鎌が地面と擦れ、からからと笑い声のような不気味な音を立てる。


「で、出たぁ!」


 高擶は尻もちをつき、どうにか後ずさろうと足掻く。しかしその体が進むことはなかった。


『ヒトタビ、キレタ、イトハ』

「い、嫌だ! 死にたくない!」

『モドラナイ』

「みんな私の後ろへ!!」


 飛び出した合歓が紲那たちの前に立ちはだかるのと、女が鎌を振り回したのは同時だった。

 一薙ぎの斬線とシルエットの重なった合歓は、達人の刀に切られた竹が時間差で落ちるように、ゆらりと膝を折る。


「ぐうっ……!」

「合歓姉ちゃん!?」

「私は大丈夫。紲那くん、姫様たちを連れて逃げるんだ」

「合歓姉ちゃんを置いて行けるかよ!?」


 その場から引き剥がすように合歓の肩を引っ張った紲那は、彼女の向こう側にいた高擶の今際の姿を見てしまった。

 心臓の高さを切られていた高擶の脂っこい体は、合歓が崩れ落ちた時間よりもずっとたっぷりの時間をかけてずれていき、べちゃっと地に落ちた。一瞬、鮮やかに断たれた胸部の断面が見えたかと思うと、待ちかねたといわんばかりに血飛沫が上がる。


「見るな! 逃げろ!」


 合歓の叫びに、紲那はおろおろとしながらも首を横に振った。

 合歓を心配すべきか、手にかけられた高擶に目を向けるべきか、背後で泣き出した咲希と結希に気を払うべきか。それとも、こちらを指差すように鎌を掲げている女から目を離せずにいるべきか。わからない。

 けれど、合歓を置いていくことだけは間違いだと思った。


 女は紲那たちを順繰りに指さすと、ふっと姿を消した。周囲の気温が戻ったことで流れ出した汗は、冷や汗と脂汗と弾き合って、ねっとりと背中を濡らす。


「……はは、次は私たちの番ってわけか」

「合歓姉ちゃん、大丈夫か!?」

「「姫彼岸先生ぇ!」」


 鼻を啜りながら飛びついてきた姉妹を、亡骸から遠ざけるように抱え込みながら、合歓はもう一方の手で胸元に手を当てた。

 切り裂かれた衣服の奥にある、同じ形をした薄い切り傷。そこには、滲み出た血の赤よりも鮮やかな赤に輝く宝石があった。


「それ、ペンダント?」

「お花の形してる」

「そ。チューリップだよ。どうやら守ってもらったみたいだ」


 お守りだよと笑って、合歓は両耳に咲いたシオンとカンゾウを取り外し、それぞれ咲希と結希の手のひらに握らせた。


 合歓に大事がなかったことにどっと安堵した紲那は、足がよろめきそうになって踏ん張った拍子に、高擶の亡骸と目が合った。

 生を懇願する泣きそうな眼が、こちらに縋って来るようだ。


「……悪い、おっちゃん。安らかに眠ってくれ」


 震える唇でそう呟くと、高擶の身体は光の塵となって風に消えた。

 神秘的にもとれるその光景に、紲那は胸が締め付けられるのを感じた。口にした追悼の言葉は、形だけのものだったからだ。


 今しがた会ったばかりの人間を心から悼むことができるほど、母さんのように出来た人間じゃない。それどころか、高擶の死体が転がったことで、『意味不明な状況』から『ヤバい状況』へと明確に切り替わったことに、どこか安心している節まである。


 オレは、おかしいんだろうか。

 こんな状況と隣り合わせだった父さんは、どうして勇敢であれたんだろうか。

 どうして、命を懸けようと思ったんだろうか。


「(死にたくない)」


 こんなにも口は乾燥しているのに、肺に籠った陰湿な空気は黴っぽく気管支を刺激してくる。

 紲那はたまらず道端に蹲り、咳き込むように胃液を吐き戻した。

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