方舟
橋の上に車を付けてニコラと花子さんたちに運んでもらえば、白蛇は目と鼻の先だった。
立谷沢川と最上川が交わるところの洲は、月に導かれて水嵩を増し、靴底が浸るくらいになっていた。夜闇に足を踏み外さぬよう川の流れる音に耳を澄ませながら、砂利を踏みしめる。
「――おや、今宵は招かれざる客が多いですね」
白蛇の足下から、ぬらりと人形が浮かび上がる。神経を逆撫でするような粘っこい声は夜に響き、月明かりにてらつく舌舐めずりは首筋に直接触れてくるようだ。
醜悪な汚物。一点の白も介在しない純なる穢れ。その前では、矮小なる善など立ちどころに呑み込まれてしまう。
しかし、気圧される不安はなかった。自分たちの背中には、彼という志があるから。
「招く招かぬは関係ありません。これは、御用改めです」
「主たる浅野内匠頭を討たれてやってきたのだから、忠臣蔵の討ち入りを名乗った方がよいのではないかな? ひぃ、ふぅ、みぃ……七不思議の群れを足せば、数は超えてしまうが」
「どう名乗るかに意味はないでしょう。貴方を止める、その目的は変わらないんですから」
「意味はあるさ。忠臣蔵をご存知ない? 彼らは上司を処罰されたことに逆上し、国に反旗を翻した無礼者たちだ。だというのに、民衆はその偽善劇を称え、赤穂四十七士を云い伝えた。実に嘆かわしい」
安隆寺は、袴の裾が濡れるのも気に留めず、中洲にゆっくりと踏み入ってきた。
「米沢には、吉良家側で職務を全うした山吉新八の墓がある。彼は米沢藩の出だったからな。だが、今では隅の方でひっそりと弔われているのだよ。反逆者たちはあれほど大々的に祀り上げられていながら、守護者たちは追いやられている。これは由々しき捻じれだ。誰も本質に気が付いておらぬ」
「結局何が言いたいのお爺ちゃん。自分が悪者扱いされて悔しいって?」
楪の口から別の声色が発されたことに、安隆寺の眉がぴくりと動いた。
「其方、何者だ?」
「さあ? あたしにもわっかんなーい。黄泉の座敷牢に幽閉されて、自分探しの旅どころじゃなかったもの」
「戯言を……もうよい。説いて聞かぬなら疾く消えよ! 『火血刀――火途結界』!!」
安隆寺が袖を払うと、奴の足下の水が一瞬にして蒸発し、曼荼羅が浮かびあがった。そこだけ常に高温で熱されているかのように、水が浸入を躊躇っている。
「来るわよ! ――皆さん!」
枝調と楪の叫びに、一斉に飛び上がった。楪はニコラの箒に、英と芽瑠は花子さんに掴み上げられ、川を逆上るように噴出する紅より赫い地獄の焔を躱す。
しかし、当然それで終わるはずがない。焔の影に隠れるように這い迫っていた蛇の首たちが、一斉に大顎を開いて飛び上がって来る。
「
深淵から解き放たれた地獄の番犬の鋭利な爪が、根こそぎ眼下を薙ぎ払っていく。
「ぐう、菅原さん、ダイキくん、斎藤さん、ハルカちゃん。よくも……だが、足下ばかり見ていてよいのかな!」
安隆寺の嘲笑に楪がハッと顔を上げると、もうすぐそこまで、空からの軍勢が迫っていた。
――しかし。その牙は楪たちを穿つことなく止まる。
『おきばりや……ふぁいとー!』
『『『いっぱーつ!』』』
『はなこたーん?』
『『『でぃー!』』』
四十四の花子さんが三手に分かれ、号令で蛇の首根っこを押し止めてくれたからだ。会長代理の花子さんが京ことばを出しかけても間に合ってしまうあたり、彼女らの連携力は微塵も衰えていない。
四十七都道府県から漆山家の花子を引いて四十六、そこから蛇にかかった人数が四十四。残る二人は――後方。
「女の子が頑張っているんだもの。
「胎児を殺った時の罪状と刑罰は?」
「堕胎罪、一年!」
「数えやすくていいですね。
後方からの発砲音が、楪たちの耳の近くを風切り、蛇の目を撃ち抜いた。英の精密射撃にもんどりうったところを、芽瑠の
花子さんズに勝るとも劣らない阿吽の呼吸によってものの数秒で首が爆ぜ、中からどろりと爛れたような母子の遺骸が地に墜ち、最上川に呑み込まれていく。
その地獄絵図を前に、安隆寺がわなわなと拳を震わせる。
「おのれ、おんどれら……子らは生きておるのだぞ! それでも人の血が流れておるのか!」
「私たちは元より、この手を罪に染める覚悟です。少なくとも貴方には言われたくありません!」
「ぐっ……ならば、おのれらが手を下せない者を『方舟』に乗せるまでよ! 矢野目美優を!」
「――っ!?」
「私の目を誤魔化せると思うたか。気配を隠したのは拙かったなあ! 隠された場所さえ判っていれば、その土地ごと呑噬すればよい!」
勝機に意気を取り戻した安隆寺が、蛇を一体遣わせた。遥か山の向こう、内陸の一点をめがけて、韋駄天がごとく夜空を泳いでいく。
だが、そこに追随した一条の雷が、月山の山際で蛇を仕留めた。
「何……だと……?」
「止めると、言ったはずです」
箒に腰かけ、紫電の残滓が走る梓弓を構えたまま、楪は眼下の安隆寺を睨みつけた。
「其方、まさか、その力は……いや、オナカマの血は流れていないはずだ!」
「ええ、私自身はそうです。けれどこの体には今、岩谷の里を代表する姉妹の力が宿っています。五色如来に請願し反魂の口寄せを成した姉と、ムカサリ絵馬を用いては死神に成り至った妹という、最高峰の力が!」
後者の紹介に少々私怨を籠め過ぎたか、頭の中で『反省してるってばあ……』と拗ねた声がする。それには少しだけ、申し訳なく思った。
「ならば物量で押しつぶすまで。『刀途結界』!」
「それなら私は、指が千切れてでも射続けます!」
宣言して、楪は二の矢を番えた。
空から射かける弓矢と、地を統べるチャーリーとでタイミングを測り、安隆寺をじりじりと後退させる。しかし、安隆寺の体は何かのバリアに覆われたように、傷がつくことはない。
逸る気がそうさせたか、指が悲鳴を上げたか、次に放った矢は狙いから大きく外れてしまった。
「しっかりしなさい!」
枝調の野次が口を衝く。自分の口が勝手に動くだけならいざしらず、それが駄目出しとなるとさすがに苛立ちそうになる。
当然、内にいる彼女にはお見通しで、ため息が返された。
「そうカリカリしないの。アキレウスなんかと一緒。あのハゲがこっちの攻撃を迎え撃っている以上、無敵ではないはずなんだから――解ってますよぅ!」
「お願いだから、真後ろで喧嘩するのはやめて頂戴……気が削がれるわ」
メリーさんたちを操って空中戦を受け持っていたニコラの苦笑に、楪は慌てて頭を下げた。
とにかく集中しなければ。そう視線を戻そうとした時、枝調からぐりんと首を逆に回されてしまう。「ちょっと」と声を上げかけて、ニコラに憚り、胸中で念じる。
『何するんですかっ!?』
『いえね、脆いなあって』
『それは、紲さんを食らったからですよ。色んなものを腹に含んだ彼を口にしたことで、ウメズ神の神性が下がったんです』
『ウメズ神、ねえ……』
不意に、ぞわぞわと耳の奥から頭の中にかけてまさぐられるような、むず痒い感覚に襲われた。身を捩って箒から落ちそうになるのを、どうにか踏ん張って堪える。
いやな感覚はすぐに止み、『あったあった』と枝調の嬉しそうな声に変わった。
『……頭の中を覗いたんですか』
『あたし言ったでしょう、乗っ取ってもいいのって。このくらい予測しておきなさいな』
『最低です……』
『ふふん、すぐに枝調様と呼ばせたげる。ちょっと体借りるわよ』
そう言って、楪の意識の表面を半分支配した枝調は、まるで二階の窓から近所の人へそうするような気安さで、安隆寺に声をかけた。
「ねえ、安隆寺さん。あんたさっきから、首が屠られる度に
枝調に手を振られ、間合いを切って待ての姿勢を取ったチャーリーに、安隆寺が錫杖の矛先を下ろす。
「それが、どうしたというのだ」
「どの首が誰なのかも判っているなんてすごいじゃない。あたしからすれば犬畜生と同じで、別の毛並にでもしなきゃ見分けはつかないのに。何がそんなにあんたを熱心にさせるのかしら?」
脚を組み、膝に頬杖を突いて微笑む枝調を、安隆寺は愚問だと一蹴した。
「守護するべき命であるからだ。いずれ楽園にて我が子となる者の名前を憶えることに、それ以上の理由が必要かね?」
「いーえ。ただ気になるのよ。――どうして『ウメズ』の字を違えた?」
「またも愚問よ。安穏無事に子を産めずにいる者を、平穏な世へと誘う教義だからだ」
「本当にそうかしら?」
枝調が口角を吊り上げて歯を見せた。楪はそんな表情をしたことがなかったため、自分の頬の筋肉が攣りやしないか、口の大きさが変わってしまわないか、内心冷や冷やしながら成り行きを見守っていた。
「考えてもみなさいな。梅津伊佐雄は一般人。特別な血筋でもなければ、正式に出家なり斎戒なりを経たわけでもない。安隆寺坊主だって、所詮は物の怪よ? だから、御自慢の曼荼羅も仏道の力なワケでしょう」
「……何が言いたい?」
眉間に深く縦皺を作った安隆寺を、枝調はけらけらと胸を押さえて笑う。
「男ってほんとバカねえ! ならはっきり言ってあげる。貴方がデウス・エクス・ガラクタを作るために混ぜた中津国の神道と
「知れたこと。神力は至高の霊峰たる出羽三山の地が、黒魔術はクマントーンによって――っ!?」
安隆寺が言葉を切り、驚愕に目を見開いた。
「気付いたみたいね。それらは土地や道具の力であって、あんたの力じゃあない。『良い男は良い女が育てる』って言うでしょう。悪しき場合も然り。強い信心によって歪な禍神を造り上げたのは確かにあんたかもしれない、けれど、ガラクタでもハリボテでも神は神。人間風情の手に負える代物ではないのよ」
『まさか、操られているのは安隆寺――いえ、梅津伊佐雄さんの方だってことですか』
「そ。さしずめ『産めずまま亡くなった母』を模した神サマが、それを体現するために名を変えさせたってところかしら。このバケモノは
安隆寺が崩れ落ちた。砂利の上に膝を突き、力なく天を――未だ首の尽きぬ蛇神を仰ぐ。
「認めぬ、認められぬ……いいや違う、私は確かに願った。ならば、この神は、子供たちを楽園に運んでくれるはずだ」
うわ言のように口走る彼を、枝調は冷たく突き放す。
「楽園ならもう作られているんじゃないかしら? コレは『方舟』だってあんたが言ったんじゃないの。なら、乗客が
楪が息を呑むのと、安隆寺が嗚呼と息を漏らしたのは、ほぼ同時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます