菊理

 海の香りが鼻をくすぐって来た頃、紲は後方を一瞥し、その賑やかさに苦笑した。


「めっちゃパトカー付いてきてるじゃねえか」

「ははっ、都市伝説の仲間入りだねえ」


 律儀に左車線だけで追ってくるならば一台いれば十分だろうに、ご丁寧に車間を開けながら列を成して追ってきている。市街地を抜ける辺りで最後尾のバンタイプが合流し、三台となっていた。

 由良浜のホテルの前を通過し、砂浜沿いに島の正面へ。さすがに白山橋に傷をつけては拙いだろうと、手前で停車した。


「お疲れ。今までありがとうな」


 メットを座席の上に置き、バイクの計器あたまを撫でてやる。


「刀は持って行った方がいいか?」

「いいや、不要だよ。古月山の太刀も良き業物ではあるけれどね」


 カナトミの答えに頷き、紲はカウルを開いた。愛刀の柄を握って別れを告げる。こいつらとは、早くも六年来の仲になるだろうか。人生の四分の一と言えば短いが、密度としては半分近く感じる。

 主を失った家族がパトカーから降りて来た警官に囲まれるのは、あまり気持ちの良いものではなかったが……バンの警官らが何やらシートを持って降りてきているところを見るに、英あたりと連絡が取れているのかもしれない。悪いようにはされないだろう。

 橋を粛々と渡っていると、不意にカナトミがくつくつと押し殺すように笑った。


「意外だ、振り返らないんだね」

「惜しめる余裕のある別れとは無縁だったもんでな」

「そうみたいだね。君の右眼を見れば解かるよ」


 夜凪の上を小走りで駆けていった風に煽られた髪の裏――人工物ニセモノが取り払われて奈落のようになっている眼窩。指はあくまで赤い糸を断ち切るためのものだったが、この右眼は神に捧げた贄。ついぞ戻ってくることはなかった。


「そういや……安隆寺のクソ坊主と初めて会った時、奴はここに入っていくところだった。何をしていたか知っているか?」

「案ずることはないよ、ただの参拝さ。ククリヒメは世界最古にして最大の戦を仲裁した神だからね、とこしへの安寧を願う彼は、この娑婆世界を括って欲しかったのだろうね。もっとも、あの御方が応えることはなかったけれど」

「そいつはありがてえこって」


 島をぐるりと回り、小山に生い茂る木々の間をすり抜け、金色の蜜があふれ出すように仄かな神光を発する亀裂を、カナトミの後に続いて潜る。


「人では眼が潰れる、そのまま頭を垂れて進みたまえ」


 カナトミの言葉に、紲は黙したまま従った。

 靴の黒が和らげてくれるが、数歩も進まないうちに灼けつくような神々しい光に体が包まれていた。眩んだ視界は極光のような色に支配され、靴底から伝わる感触も真っ平らなアクリル板の上を歩かされているようだが、内部の構造は神社の境内に近いだろうか。

 辺り一帯に甘露の池が広がり、やがて白川砂の庭に行き着く。足を踏み入れても枯山水が崩れることはないのは、どうも慣れなかった。徳川家康が見れば、ブチ切れて逆さ柱を立てまくることだろう。


「そのまま跪き、求めよ」

「――はっ」


 片膝を立てて、さらに深く頭を垂れる。カナトミが翼を拡げたのを感じたかと思うと、やがて、前方から大いなる気配が膨らんできた。

 紲は指の一本も動かせずにいた。かの神は死者と生者と取り持ったことからシャーマンの祖とも云われている。オナカマの末席を汚す者にとって、その原点との謁見である。

 重苦しい威圧感があるわけでもない、寒気のするような恐怖感でもない。ただそこに、人智を超越した存在が坐すだけ。ただそれだけで、本能が平伏せと己が時を止める。


「シラヤマヒメノカミの御言葉である」


 代弁者を務めるカナトミの声からも、飄々とした優男の色は消えていた。


「問う。汝、何を望みて参られん」

「ただ一振り、十握を振るうことの赦しを」


 紲がやっとのことで口を開くと、数秒の無言の後で、軽妙な笑い声が響いた。


「あっはははは! 君もそんな真面目な話し方ができるんだねえ。もう崩しても構わないよ、もっとも、面を上げるのは禁止だけどね」

「……チッ、笑えねえ冗談だぞクソ鴉」


 思わずシャツの胸元を緩めた。息苦しくはないが、息が詰まりそうだった。

 八咫烏や因幡白兎などは末端なれど神、だから羽黒山にてクソ鴉が化身の二人と歩くことができていても不思議ではないが、こちとら塵芥の如き人の身。仰せのままにするしかないのだから。


「さて、君がかの破戒僧と『黄泉の別れ』を再現したことで、こうして場は設けられた。それでは聞かせてもらおうか。君が剣の対価に持参した、日本書紀に載らなかった言霊を」

「ああ」


 紲は大きく深呼吸をしてから、口を開いた。


「あの場を仲裁するためにククリヒメが提案したのは『寿命』なんだろ?」

「ほう?」

「片や一万人を殺す、片や一万五千を産む。ならばもっと……と続く背比べに終止符を打つには、数をトントンにするしかない。つまり、産まれた者を寿命で死させることで、産まれる数と死ぬ数を等しくしたんだ」


 それを聞いたからこそ、イザナギは『それはいい!』と褒めそやしたのだ。

 史上最大級の喧嘩に割って入るというのに、『括る仲良くしなさい』だとか、転じての『潜る身を清めなさい』という提案では、その後にイザナギが褒めたという文脈に合わないのである。


菊理媛ククリヒメという名が持つ意味は、括るでも、潜るでもない。人間たち――ひいては人々の寿命というルールを定めたことによる『菊の理』。そうだろ?」


 天皇家の象徴である菊花紋章のはじまりは、後鳥羽上皇が無類の菊好きで、自らが打った刀に菊の銘を入れたことだとされている。しかし、それは時代の刀匠たちと同じで、『後鳥羽上皇』の印でしかない。事実、後に後醍醐天皇によって桐の紋も扱われるようになっている。

 それでも最終的に菊が象徴とされるのは、その大元にイザナギ・イザナミという始祖と、その後の理を定めたククリヒメという軸があるからであろう。


「何故歴史から抹消されたのかは知らん。人間が不老不死でないことを認めたくない者がそうしたか、あるいは、まさか国の象徴たる血脈の始祖が、そんな取り決めを褒めたなんて広まるべきではないと焚書したか。いずれにせよ、菊理の存在までは消せなかったわけだ。その提案があったからこそ、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子が産まれたんだからな」

「ならば君は、三貴子をどう見る?」


 カナトミの問いかけに、紲は肩を竦めた。


「そのまんまだよ。アマテラスはを、ツクヨミはを。そしてスサノオが嵐――すなわち、理から外れようとする者を断罪する『執行者』だ。

 前からおかしいとは思っていたんだよ。母ちゃん思って日夜泣き喚くだけのマザコンが、お父さんに勘当されて姉のところに行きゃあ『すわ、何をしに来た!』と大喧嘩だ。姉妹だろう? ましてや、まだヤマタノオロチ討伐の実績も上げてねえ末っ子をだぞ? 普通はビビらねえだろ」


 現代日本に伝わる神話では、そうして弟神の高天原来訪を警戒したアマテラスと、潔白を主張するスサノオとで、誓約勝負が執り行われた。アマテラスは三柱の女神を、スサノオは五柱の男神を息吹から生み出し、スサノオが高天原に残ることとなる。

 その後、暴れたい放題だったスサノオに胸を痛めたアマテラスが身を隠してしまったことで、かの有名な天岩戸神話へと続いていく。


「人はこの事から、アマテラスは弟に強く言えない気弱な神だと評するらしいが、とんでもねえ。ナイーヴな奴が、弟が来たくらいでブチ切れるはずがねえし、病んで籠ると決めているのに踊りひとつで出て来たりするもんか」


 しかしそれも、スサノオが『執行者』として生み出された神であるという前提でなら、一本の筋が通る。

 アマテラスが怯えたのは、スサノオが執行者であが故、何らかの裁きが下されることを恐れたのだ。むしろいちゃもんを吹っ掛けられたのはスサノオの側なのである。

 高天原での暴挙とされるスサノオの振る舞いも、誓約勝負を以て天秤にかけ、罰を執行しただけのこと。田畑、つまり食料を荒らし、主を祀る新嘗祭の道具に便を垂れ、機織りの働き手を亡き者にした。エピソードをなぞるとあまりに度が過ぎる悪戯だが、結果を並べれば、戦に敗北した側の状況と大差はない。


「アマテラスは手弱女だったから何も言えなかったんじゃない。自分が罰されているのを解っていて口答えしなかっただけだ。ツクヨミなんか見てみろ、ウケモチノカミがご馳走を用意してくれたというのに、それを口から出したってだけで斬り殺したうえ、ウケモチの体から出た農畜産物を持ち帰っただけで、農耕の神でもあるとか云われてんだぞ?

 本当にスサノオの行動がとんでもないことなら、世界が夜に包まれた時点でイザナギに鉄拳制裁ゲンコツされているだろうさ」


 だがスサノオはその後も生き、オロチ退治などの活躍から『厄払いの神』『武の神』としても名を馳せている。それら二つ名こそ、執行者の証左だ。


「だから俺は、あの真白きオロチを滅ぼすために、スサノオの力を借り受けに来た」


 紲は居住まいを正し、改めて頭を深く沈める。


「奴は永遠に子を隔離し、生々流転を阻んでいる。このままでは千代に八千代にどころか、当代が吹き飛んで終わりだ。理の神であるククリヒメ様とは、利害も一致すると思うが?」


 女神が何事か囁いているのだろう。カナトミの相槌が聞こえる。


「ククリヒメ様は問うておられる。仮に当代で人の世が潰えるとして、なにゆえ、其方が身を捧げる必要がある?」

「さっき話したろクソ鴉。俺には守りたい女が――」


 ふと、紲は無意識に言葉を区切った。本当にその回答が相応しいのだろうか。

 わざわざ三行半を突き付け、指輪まで置いて身綺麗にしてきたというのに、心は未だ、楪を見ている。そんな状態で、世を平和へとことはできるのだろうか。


「俺、は……っ」


 歯を食いしばる。忘れられるわけがない人を、意識の隅に押し込める。必要であれば踏んで、蹴って、裏っ返した離婚届でくしゃくしゃに丸めて窓から捨てて見せればいい。

 富める時も、貧しき時も。病める時も、健やかなる時も。喜びの時も、悲しみの時も。

 だがそれは、人間として、彼女の夫として生きるからこそ結ぶことができる呪いである。


「必要なんて、ねえよ。こんな大それたこと、俺にしか出来ねえってだけだ」

「うん?」

「スサノオだってそうだろう、あいつがヤマタノオロチを退治する必要なんてないんだよ。ただ、スサノオだけがそれを出来たってだけだ」


 空っぽのはずの右眼がこれ以上熱くならないように祈る。泣くな。未練を零すな。現世の全てを捨て去れ。万が一にも、おまえという贄に副菜があるなどと気取らせてはいけない。

 神に乞うとはそういうこと。人間風情の尺度での繋がりなど、まったく無視して天秤にかけられる。だからこそ、一族郎党、末代までもが習わしに囚われるのだ。

 神に成るとはそういうこと。正義の味方などでは断じてない。守護者と名乗るのも見当違い。

 ただそこに在って、剣を祓うだけ。


「あのけったいなカミサマに審判を下せるのは、天上天下古今東西、現世と幽世のどこを探しても他に並び立つ者のない、最強の俺様だからだ!

 まだ他に貢物りゆうが必要とか言ってみろ、高天原乗り込んでクソすんぞバカヤロウ!!」


 拳を突き、立ち上がる。目が潰れるのを厭わず、神の御姿を睨みつける。既にはくれてやってるのだ。アマテラスの威光を産んだ左目も、スサノオが罪を嗅ぎつける鼻でも、なんでも持っていけばいい。一太刀を振り下ろす、腕さえあれば構わない。

 しかし仰いだククリヒメの御姿は、人間如きの眼では映せなかった。そこに坐すことは感じられるが、ぼやあっとかたちをなぞる光輪が在るだけである。

 ふと、神が微笑みくださったことは理解できた。

 刹那、紲の体は眩く煌めく後光に包まれ、蓮の花弁のひとひらへと溶けていった。

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