Eeny, meeny, miny, moe
「赤ちゃんかあ」
民宿の夕飯に出された庄内名産の塩納豆をほっぺたに付けながら、楪が可愛らしく唸った。赤ん坊なのはどちらだと嘆息しながら指摘してやると、「ん」と頬を突き出されたので、仕方なく手を伸ばす。
「子供の名前とか、悩みますねえ」
「気が早え……俺には期待すんなよ? 小難しい仏教用語とかから引っ張ってくるぞ」
「そういうこと言っている人に限って、真剣に考えるんですよ」
からかうように見せた歯に、温海カブの漬物が放り込まれる。旬は冬場の赤カブであるが、夏場のものもさっぱりと歯ごたえがあって美味い。
卓に並べられた料理は山菜と地魚を主に四季折々の山形が詰め込まれていて、デザートに庄内メロンである青肉の『鶴姫』と赤肉の『鶴姫レッド』が一切れずつ添えられた贅沢な晩餐であった。
「私、親の名前から一文字貰うのとか憧れるんですよ。男の子だったらお父さんから、女の子だったらお母さんから!」
「俺もお前も漢字一文字だから、取ったら無くなりそうだな」
「むう、無粋ぃ」
じとっと抗議をしてくる半眼は、お吸い物の椀の向こうに隠す。
「そこはほら、産まれた季節の花とかから足したり、いい意味の漢字を付けるとかしましょうよ」
「漆山寿限無寿限無五却のゆずりは」
「絶対言うと思ってました」
大袈裟にため息を吐いてみせたかと思うと、噛り付いた旬のメロンにぱっと表情が花開いた。声にならない歓喜にぴょこぴょこと跳ねながら、青肉と赤肉の食べ比べを始める。
「んー、しあわせぇ。これで露天風呂が付いてたら文句なしなんだけどなあ」
空とぼけた声でねだっているのは、砂浜のド真ん前にあるホテル八乙女のことだった。中には露天風呂付の個室があり、事前申請をすれば屋上の露天風呂を貸し切ることだってできる。
「許せ。旅費として出すならたかが数千円くらい上乗せもするが、額面じゃあ倍近くになるんだ。仕事で来ている以上申請しなきゃならないところ、さすがにハナに申し訳ねえ」
「ほうほう、つまり? 仕事じゃ? なければ!?」
どこぞの刑事と女医のようなうざったらしい迫り方をする頬を押し返す。
「わかったわかった。そのうちな」
「やたっ! その時は温海まで行って、バラの形のアイスも食べましょうね」
ここからもう少し南に行ったところにも、鶴岡市の温泉地・温海がある。近くにはあつみ温泉バラ園という、内陸は村山市の東沢バラ公園、南陽市の双松バラ園に並ぶ花園がある。
果樹王国やラーメン王国、温泉王国と多岐に称される山形は、花の王国でもあった。名産の紅花や各地の桜はいわずもがな、川西にはダリヤ園、山辺にはラベンダー、長井は百合、新庄には竜胆と数えればキリがない。
「食い意地じゃねえか。花より団子、薔薇よりバラのアイスとはな」
「もちろん薔薇も見ますよ。それはそれ、これはこれです」
皮のぎりぎりまでメロンを味わってから、拭いた手をごちそうさまでしたと合わせる無邪気な姿に、紲は思わず手を止めて見入った。
こちとらいつ死ぬか判ったもんじゃない生業だというのに、今日だけで上山城と温泉、二つの約束である。ぼやけてしまった視力では観光の楽しみも半減するだろうに、そんなハンディなどなかったかのように、どこでだってはしゃいで見せる。
まるで蜂子皇子を手招いた八乙女のようだ。後ろ向きに事を捉える俺を導き、こいつはいつだって未来を見てくれていた。あの日から、ずっと。
眩しいくらいのおねだり上手に、俺は応えることができるだろうか。この恩を返し切ることができるだろうか。もしかしたら既に、命を賭けても足りないくらいに利子が嵩んでいるかもしれない。
その夜一人で浸かった温泉の湯は、少しだけ肌に沁みた。
翌朝も六月の風は清々しくそよいでいた。初夏になって一気に熱を帯びだす味気ない気だるさが、海を跨ぐことで冷まされ、潮の香りを纏う。
「今日はどちらへ?」
「いづめこ人形についてもう少し調べたいと思ってる。例の奴らは蛇にまつわるものを崇めていたようだが、人形の方が繋がらん」
「蛇とお人形の出てくる怪談などは?」
「さあな。人形のような美貌を持った姫が蛇の怪異と化したとなれば、清姫なんかが挙がるだろうが……」
よいしょとヘルメットを掲げた楪が乗るのを、首だけ振り返って見守ろうとした時だった。視界の端に違和感を抱き、紲は楪の方を向いたままで周囲を窺った。
南北に伸びる道の南側に二台、道を塞ぐように並んでいる乗用車がある。それぞれ右の助手席と左の運転席から身を乗り出した男たちが、こちらを見ながら声を潜めて頷き合っていた。北の方は軽トラが一台。道は空いているが、こっちは憚ることなくこちらを凝視している。
「楪、乗ったら歯を食いしばれ。グラブバーじゃ危ねえから、俺にしがみついてろ」
「――わかりました」
ただ事ではない気配を察知したか、楪は乗り込む動きを早めた。彼女の手が腰に回されるのに食い気味でクラッチを離し、急加速する。
軽トラの真横をすり抜ける時、紲たちを追うようにずれた無表情の蛇の目が見えた。
「チッ……何だってんだ。ちゃんと帰ったろうがよ」
毒づきながらミラー越しに背後を確認すれば、例の乗用車たちも軽トラの横を通過してくるところだった。それらを見送った軽トラもまた、切り返して追随してくる。
「(何が狙いだ?)」
奴らの追跡は奇妙だった。映画のように車幅を寄せてきたり、銃火器を取り出したりするでもなく、ある程度の車間距離を保っているのだ。ただただ、紲たちを押しやっているだけのように。
鶴岡の端には国道七号線が通っている。南は新潟、北は秋田に通じる道だ。一度鶴岡や酒田市街に入るその道路に乗れれば良かったのだが、しかし奇しくも、道路が迂回する地点は由良の温泉地のちょうど手前からだった。
つまり、今走っているのは温泉地から加茂の方へと抜ける海沿いの県道50号。交差点が見える毎に右折しようと試みるが、待ち受けている車に進路を塞がれてしまってそれも叶わない。
「(俺一人だったら少々手荒なルートも踏めたが……)」
野暮な愚痴が浮かんでは消える。
ついには由良トンネルから飛び出してきた四つのハイビームを避けきれず、ハンドルを切る。脇に走る旧道ならば車は追ってこられないだろうと勝ち誇ったのも束の間、侵入を阻むガードレールのバリケードに躓いて車体が大きく跳ねた。
「クソッ……!」
風にあおられたか、ガードレールが倒れていて気付けなかった。愛車を宥めるようにブレーキをかけ、回転しながら路肩の草木をタイヤで抉る。
この旧道はコンクリート舗装こそされているもののガードレールの類はなく、もう数キロスピードを上げていればあわや海岸の岩場に激突していたところだった。
「楪、大丈夫か!?」
「はい、平気です!」
安否を確かめてバイクから降り、奴らの方を睨みつけた。風雪に晒されるがまま朽ちた岸壁を背景に蛇の目の徒がぞろぞろと群れる様は、他人事なら一興と手を叩くこともできただろうが。
改造カウルのスイッチを叩き、飛び出した古月山の愛刀を鞘ごと引き抜く。
「何だよ、田舎モンらしく余所者の始末でもするか? どうせならもう少し北まで行こうぜ。油戸トンネルなら怪談にもぴったりだ」
ベルトに刀を佩き、解いた下緒を右の腰へかけながら挑発する。
奴らは誰一人として、得物らしきものを持っていなかった。あるのは獲物の首を竦めさせる胡乱な蛇の目と、手に手に握られた数珠だけで、飛びかかってくる訳でもなく、夢遊するようにぶつぶつと何事かを呟いている。
「――っ!?」
不意に、紲は背中を斬りつけられたような視線の圧に襲われ、振り返った。
今にも崩れ落ちるのではないかという岩肌と、対照的にさざ波を立てる岬の光景。だが、何かがある。間違いなくナニカが来ている。
「紲さん」
袖を引かれて視線を戻せば、奴らは膝を突き、祈るように呟きの大合唱をしていた。一言発されるごとに大きくなったそれが共鳴する時、祝詞の全容が紲の耳に入った。
「綾に、綾に、
「……冗談じゃねえぞ」
「これは?」
「出羽三山の祝詞『三山拝詞』を改造したナニカだよ。くそっ、何だってんだウメヅ様ってのは!」
背後に膨れ上がる気配から楪を隠すようにしながら、紲は刀の鯉口を切った。
脳裏に昨日の男の言葉が蘇る。彼が言った『語るべからず、聞くべからず』は、湯殿山の神秘を守るための戒律。そして三山拝詞は出羽三山に奉ずる祝詞である。
そんな神聖な代物を勝手に借り受けて為したいこととは何か。
「出羽三山の生々流転……生きている胎児……まさか、テメエら……」
ふと思い至った悍ましい見当に、紲は頬を引き攣らせた。
感じていた殺気のような気配が急速に収束し、その一点から光りかがやく混沌が噴出した。
『ア……アア˝…………』
ぬらりと黒い蛇が地面から生えてくる。それは、女のおどろに逆立った髪だった。まるでメデューサに死装束を着せたような神々しい怪物が、とぐろを巻くように体をうねらせて
細く長い舌を出し入れしながら細めた蛇の目で慈しむように撫でる腹は、例に漏れず膨れていた。
「こいつがウメヅ様か。綾しくはあるが、尊くはねえなあ」
丹田にふっと力を籠め、奥歯を噛む。袈裟に斬りつけた刀に手応えこそあったが、しかし、異形の体には傷の一つも付いていない。
「なっ……」
戸惑いにたたらを踏んだこちらを上から覗き込む、愛でるように細められた女の瞳に思わず足が竦む。ケダモノがそうするように舌が紲の頬を這い、袖から滑り出て来た
異形の頬が口裂け女のようにぱっくりと裂けたかと思うと、蠱惑的に瑞々しく蠢く、女の秘所の内側を覗いたような肉襞が紲の視界を覆った。
「紲さん!」
襟首を掴んで投げられたような感覚で、紲は我に返った。地面をつまづきながら後ずさり、紲は肩で大きく息をする。奴に魅入られてからここまで、息をすることさえ忘れていたらしい。
「大丈夫ですか!?」
「ああ……悪い。助かった」
頬に伝ってきた汗ごと、舐められた気味の悪い感触を拭う。
こちらを憐れむように首をもたげる腕の蛇と、足下の混沌からゆらゆらと立ち上る無数の小さな蛇たちを前に、紲は必死で脳を回転させた。
何をどうしたくて作り上げたモノなのかは見当がつかないが、少なくとも『ウメヅ様』は神として造られたナニカ。どう太刀打ちをすればいい。
飛びかかって来た闇の蛇を、居合一閃で切り捨てる。
「こっちは斬れるのか……」
僥倖だと紲は歯を剥いた。神性を孕むのはあくまで本体のみか。
「逃げるぞ楪」
「でも、向こうは塞がれてて……!」
「知るか、一人や二人轢いてでも尻尾撒かなきゃ死ぬぞ!」
腰を突き飛ばすように抱き上げ、バイクの下へと向かう。幸いにも、信徒たちと向き合うように向きが変わっているから、あとは乗り込んで走り出すだけである。
だが、そんなことは許されるはずもなく。ウメヅ様が縋るように伸ばした腕が、大顎を開いて迫ってくる。
「くそっ、間に合わねえか!」
とりあえずバイクに楪の体を放り上げ、せめて彼女に危害が及ばないように立ちはだかって胸を開き、体の面を拡げる。
その時だった。
「――その意気やよし。ちょっと噛まれるかもしれないけれど我慢しなさい、オトコノコ」
空から降ってきた鈴のような可憐な声に、紲は目を見開いた。
「
信徒たちの唱える祝詞を上書きするように、山肌に呪文が染み渡る。招かれざる異物が紛れ込んだことに勘付いたウメヅ様の手が動きを鈍くして、警戒に喉を鳴らす。
「
次の瞬間、振り下ろされた地獄の番犬の爪が、蛇の胴を圧し潰した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます