守護せし白蛇

 海を引き裂くような絶叫が響き渡った。

 鎌首から汚泥のような黒血を振り巻いて、ウメヅ様が躰を打ち震わせる。奴の首の皮は辛うじて難を免れていて、仕留めきれなかった双頭の獣は悔しそうに喉を唸らせた。


「ねえ、貴方たちが追っていたのはいづめこ人形じゃあなかった?」


 呆れたような声とともに、本鬼毛の棕櫚帚に腰かけたニコラが降りて来た。


「俺にも解からん」

「とりあえず、あの女をぶっ飛ばせばいいのね?」


 背後で怯えた顔をしながらも祝詞を続けようとする信徒たちを一瞥し、ニコラは左腕を返して掲げた。細長い腕の表面に、ルーン文字のような字体の文字列が浮かび上がる。

 ニコラはその上を、プランシェットの隙間のように円を作った指で素早くなぞった。


「――蹂躙なさいKill them all


 主の声に双頭の獣はひと吼えで応え、牙を翳してウメヅ様へと躍りかかった。しかし、すんでのところで地を這う混沌の中へと逃げ込まれてしまう。


「あら、不意打ちでもするつもりかしら?」


 ニコラが前方を、紲が後方を。背中を預けるようにして周囲を窺っていると、一方で信徒たちは、おそろしやおそろしやと悲鳴を上げながら、一目散に各々の車で逃げ出していく。

 拍子抜けの幕切れに、目を丸くしたニコラが箒からずり落ちた。


「えっ、終わりなの?」

「そのようだ。しかし助かったぜ、プルート」

「それはディズニー。無事のようで何よりだわ……」

「この大きな犬さんは、ケルベロスですか?」


 行儀良くお座りをしている狗の首元を撫でながら楪が問う。


「その子がチャーリーよ。三つ首トライヘッドのケルベロスではないけれど、双頭ツインヘッドの悪魔であるという意味では同じ地獄の眷属ね」

「ウィジャ盤は聞いたことがあるか? 海外版のこっくりさんみたいなもんなんだが、ソレの魂を狩る悪魔がブルースなんだよ」

「それはジャッキー」


 いい加減にしろと箒でどつかれた。棕櫚の毛先を竹箒並みの膨らみまで束ねられた面は、軽く鈍器のような様相をしている。

 ニコラはため息を吐き、鞄から何某かの鳥の死骸をチャッキーに与えてやってから、腕に刻んだウィジャ盤で『Go home』と命じた。


「それにしても、よくここが判ったな」

「町に敷いていた探知網に虫の知らせがあってね。はじめは勘違いかと思ってスルーするつもりだったのだけれど、そうしたらガンガンぶっ叩かれたのよ。けれど今理解したわ。多分、そこのトンネル前の石碑の殿方ね」


 促されて道を戻ってみると、大きく『湯殿山』と刻まれた白い石碑の他に、『恵眼院本食鐵門上人』と刻まれた碑も並んでいた。


「鐵門上人は、自分が犯した殺人の罪を悔いて仏門に入った僧よ。当時流行った眼病を鎮めるべく、自分の眼球を抉り出して祈祷したことから『恵眼院』とも呼ばれているの。きっと、同じく眼を抉り出して彼女を守った誰かさんを、放っておけなかったのね」

「……そいつは有難えな」


 気が付けば自分でも驚くくらいに自然と膝を突き、手を合わせていた。さすがに、彼のように見ず知らずの人間のために身を呈することができる程出来た人間でないことは、自分でも承知している。しかし、関係者以外には伏せなければならない顛末を、第三者から見守られていたことは、少しばかりむず痒く、けれど嫌な感覚ではなかった。

 目を開けると、隣で自分よりも熱心に目を瞑っている横顔に気付いて頬が緩む。


「偉い御上人様に助けてもらったんだ。何がなんでも解決しなきゃならんな」

「立ち話もなんだし、加茂水族館までいかない? ソフトクリームでお茶しましょうよ」

「お前、その恰好で行く気か……?」

「まさか。一度着替えてくるわ――『めづらしや、山を出で羽の、初なすび』」


 門を開く呪文を唱えたニコラは、優雅に箒に跨ると、次元の狭間へと飛んで行った。






 由良から県道50号を数キロ北上すれば、世界一のクラゲ水族館で知られる加茂水族館がある。

 まだ人もまばらの駐車場へ停めて入り口に向かうと、既にシックなワンピースへ召し替えをしたニコラが、楚々と居住まいを正して待っていた。


「すみません、お待たせしましたか?」

「……ううん、今来たところ」

「デートの待ち合わせか」


 なまじ美人所が並んでいるだけあって絵面が良いのが癪である。置いていくぞと先へ入り、三人分の入館料の支払いを済ませる。

 館内の見学と洒落込みたいところだが、エントランスホールから売店の方へと乗り越えた。ここでは細かく刻んだクラゲを混ぜ込んだソフトクリームをはじめ、クラゲグルメが販売されている。

 地元由良産の塩を使っているというソルトバニラを二つ選び、片方をニコラに渡す。楪が選んだカップの方のクラゲアイスは、ソフトクリームよりもクラゲの欠片が大きめだった。


「あまり味はしないですね」


 チョコ味を一口頬張って、むつかしい顔で小首を傾げる楪に、ニコラが優しく笑いかける。


「……雰囲気を味わうの。料理のキクラゲみたいなものだから」

「ああ、そういう食材ってあるよな」


 紲もソフトクリームの先にかぶりついた。パッと見ではわからなかったが、アイスを舌で転がすように溶かしていくと、やがて微かな海の感触に行き当たった。成程、悪くない。


「そういえば、今のニコラさんは声が小さめなんですね?」


 無垢な無遠慮に、ニコラがソフトクリームに舌を伸ばしたまま固まり、目を逸らした。


「……戦いの時は、気を強く持たないといけないから」

「普段からアレで行けよ。そんなだから、観光協会から景観がどうのと難癖で押し切られるんだぞ」

「えっ、魔女の家を隠しているのって、怒られたからなんですかっ?」

「……身を隠すという実用性を兼ねているから、いいんだもん」


 ニコラがぷくうと頬を拗ねさせる。西洋の血が混じった整った顔立ちからの仕草は、カウンターで注文待ちをしていたカップルが感嘆を漏らすほどだ。


「本題だ。今掴んでいるキーワードは『いづめこ人形』『蛇を担いだ宗教』『ウメヅ様』……こんなところか」


 昨日本間から貰った御朱印擬きをテーブルに拡げ、事のあらましをニコラに説明した。


「……宗教。つまり、他にもああいう遺体が出るかもしれないってこと?」

「何なら、秘匿されているだけでもう出ているかもしれない。夫婦で信仰しているのなら外に出さないだろうしな」

「……本間さんという方は、匿わなくてもいいの?」

「希望的観測だがな。奴らは『語るべからず、聞くべからず』と言っていた。彼の場合、妻から何も聞かされていないし、語るものも持っていない。芽瑠が司法解剖を引き受けたのは昨日の時点で五日前だって話だから、仕留めるならもうやってるだろ」


 その代わり、嗅ぎ付けた自分たちの方ががっつり蛇睨みをされているのだが。


「……大掛かりなクマントーンを作ろうとしているのかしら」

「何だそりゃ。やけに可愛い名前だが」

「……胎児を込めた魔除けのお守り。肉体が形成されてすぐの胎児を取り出してミイラにし、金箔を張って造る呪物よ」

「可愛い名前からとんでもなく可愛くない情報が出て来たんですが」


 楪の手が震え、アイスに突き刺すのに失敗したスプーンがテーブルに落ちた。


「……最近では人道に反するとかで、堕胎した胎児や遺灰で代用しているみたいだけれどね」

「それじゃあ格は落ちるだろうな。逆に、母体ごと生骸にして閉じ込めてやれば、か」

「……けれど、蛇やウメヅ様とは繋がらない」


 コーンを齧り、紲は唸った。


「蛇とウメヅ様だけで考えるなら、内陸側だが、山辺に玉虫沼の話があるんだ」

「あ、知ってます。『玉虫姫』っていう、栗の入ったチョコのお饅頭が売ってますよね」


 かつて山辺の地に、父親を探してやってきた女がいた。彼女はそのまま山辺城の飯炊きとして働くようになる。その仕事ぶりは丁寧で、玉虫自身の器量も良く、すぐに城のお偉方に気に入られることとなるが、それが面白くなかった女中たちから『玉虫は殿の飯に蛇を入れている』という嘘を作り上げられ、嵌められてしまう。

 その翌朝、失意に身を投げた玉虫が、沼から発見されたという。


「ただ、蛇の嘘を恨んで蛇と化したとしても、蛇自体を信仰する理由にはならねえ」

「名前もタマムシ様じゃないと駄目ですよね」


 話を聞きながらもくもくと小さな口でソフトクリームを掘り進めていたニコラが、あっと小さく声を上げた。


「……身投げで思い出した。鶴岡にあるよ、白蛇の民話」

「何っ?」

「……城では、かつて敗戦の折、残った女たちが堀に身を投げたんだって。その際、血に染まった堀から生まれ出でた巨大な白蛇が、今でも宝を守っているとされてるの」

「あの綺麗な堀が、血に……」


 楪が悼むように睫毛を伏せた。


「成程、鶴ヶ岡城がまだ大宝寺城と呼ばれていた頃の話だな。敗戦と聞いて浮かぶものに大きなものが二つある。ひとつは、最上義光が酒田の東禅寺城主と手を組み謀反を起こさせ、当時の大宝寺城主を自害に追い込んだもの。もう一つは上杉時代、検地に抵抗した民が一揆を起こし、鎮圧されたもの。この時は、直江兼続が修復にあたるほどの損壊があったらしい」


 カップの底をこそいで最後の一口を食べてから、楪がむう、と唸った。


「兵士として出た男の人が討ち死にして、女の人も後を追ったんでしょう? 誰もいなくなるのに、そうまでして守ろうとした宝物って、なんなのでしょうか……」

「……蛇や竜というのは、昔からパブリックエネミーの代名詞だったりするから。『宝を守っている』というのは、戦利品を持ち帰れなかった勝利側の方便かもしれない」

「蛇が出たから収穫がありませんでした、ってことか」


 そんな言い分が通じた世の中も困りものである。だが実際、攻め込んだところを狐の幻術に巻かれたとか、江戸への書面の取り違えを助けてくれただとか、そういう逸話は存在する。與次郎だって、秋田から江戸までの飛脚を務めていたくらいだ。


「いわれてみれば、ヤマタノオロチなんかは悪いやつですね。では、竜神様なども悪い神様なんですか……?」

「一括りに『綾しい存在』としているだけだから、例外もあるさ。たとえば、蒙古襲来の時の神風だな。あれは羽黒山にある鏡池から現れた九頭龍王が起こしてくれたものだとされている。もっとも、時期的に台風が来ただけともされているが」

「……けれど、それに感謝した幕府から贈られた鐘楼も残っているわ。伊勢神宮への参拝が『西の伊勢参り』、出羽三山は『東の奥参り』といわれるくらいだから、霊峰としてかなり重要視されていたのね」


 ニコラの口が、ようやくコーンに到達する。


「そんな霊峰の地の、白蛇の民話を使ってまで造り上げた『ウメヅ様』か。一体、何をまもろうとしているんだか」


 靄のかかった思考をリセットするように紲が背伸びをした時、ポケットのスマホが着信を告げた。画面には『長南英』と表示されている。


「俺だ」

『おはよう。早速で悪いけど、報告ね。例の遺体がもう一つ、芽瑠のところに運ばれてきたわ』


 それは、してほしくなかった方向への進展だった。

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