白山島
バイクを停めていたところまで戻ってきた紲は、追手がないことを確認したところで、ようやく丹田から力を抜いた。その拍子に一日の疲れも漏れてしまったか、欠伸で歯が浮きそうになるのを噛み殺す。
「あの人たちはどうしちゃったんでしょうか……」
「染まっちまったんだろうさ。善かれ悪しかれ一つのことに囚われると、人ってのはああなっちまう」
風向きを確認してから煙草に火を点け、ため息とともに鬱憤を吐き出した。
人は顔である。恋にときめいている者は柔らかい笑みをするし、年中悪事を考えているような人間はやはり表情が浮ついている。強面でも目をみれば純粋さは窺えるし、いかな美人とて眉間に皺を寄せている者は思考が濁っている。無意識的な外的要因ですらそうなのだ、意識的に信奉した強い思いに囚われた貌は烈しく、人々は得てして『豹変した』と形容する。
「あの人たちと戦うことになるんですね」
「いいや、黒幕を探し出して叩けばいいさ」
「でも、あの眼は……」
「安心しろ。推測が正しければあれは、お前がムカサリ絵馬に侵された時に体に浮かんでいた呪紋みたいなもんだ。むしろ被害者だよ」
空を仰いで煙を吐けば、暗い色の雲と重なって溶けた。この推測が合っていることをただただ願うばかりだ。
「にしてもどうすっかな……ハナに令状出してもらうにも罪状がねえし。一発殴ってくれれば良かったんだが」
「むしろ殴ったのは紲さんの方ですね」
「うるせえ、ちょっと押したら吹き飛んだんだよ。俺のせいじゃない」
鼻で笑い、灰皿に吸殻を突っ込んでバイクに跨る。
「一度帰りますか?」
「一日跨ぎっぱなしで膝辛いだろ。今日は由良にでも泊まるぞ」
「温泉ですか!」
途端に元気を取り戻していそいそと乗り込んでくる温もりに、紲は苦笑した。怪異に慣れているというのも困りものである。
まだ海開きのシーズンには早く、平日であったおかげか、宿はすんなり取ることができた。
夕飯までの時間潰しがてら、人の影がない静かな砂浜にゆったりと足跡を付ける。裸足でけんけんぱをしながら波を冷やかしてはしゃいでいた楪が、ふと凪いだ潮風に導かれて視線を上げる。
由良海岸のすぐ沖には、緑の茂った山のある小さな島があり、そこまでをつなぐ赤い橋がかけられている。それを指さして、楪が飛び跳ねた。
「向こうに島がありますよ!」
「知ってる」
紲はくつくつと笑いを堪えながら彼女の足跡を追いかけた。小さな島とはいえあれだけデカいもの、海に夢中で全く気付いていなかったのはお前くらいだろう。
「あれは何ですか?」
「『東北の江の島』こと白山島だよ。出羽三山を開いた蜂子皇子が上陸したのがこの辺りだと言われていてな。一説には、その際に彼を迎えた八人の乙女たちが白山神社の祭神・ククリヒメの化身とされているんだ」
他にも弁財天や豊受大神という説、八代竜王がそれぞれ乙女になったという説もあるが、これだけしっかりとした島があるのならば、白山関わりと見るのが妥当だろうと紲は踏んでいた。
「へえ、王子様が出羽三山を開いたんですね」
「それはオウジ違いだ。いや意味は合ってるのか……? ともかく、蜂子皇子のオウは皇族のコウ。公的にも認められていて、羽黒山の山頂には宮内庁の名前が入った墓もあるぞ」
「わあ、すごい……」
髪を抑えて風を受けた楪の表情が、どこかうっとりと目を細めているように見え、紲は少しだけむかっ腹が立った。ちょっとのネームバリューくらいで褒めそやすんじゃあない。
「凄いもんか。父である崇峻天皇が謀反に遭って命からがら京都から逃げ出してきた奴が、浜辺で踊る半裸の姉ちゃんたちにホイホイ付いていったんだぞ? ただのスケベ野郎だよ」
「もう、不敬ですよ」
「名前を伏せて戦国武将か誰かの逸話として語ってみろ、誰だってそう言うさ」
大仰に鼻白んで見せる。実際、蜂子皇子がこの浜辺の景色を故郷の由良浜に重ねたことが、由良の地名の由来とされている。まさかここも温泉地となるとは彼も思わなかったろうが。
橋の前に辿り着いたところで、手を招くように掲げた女性と扇を持った女性とが並ぶ銅像を見つけ、楪が駆け出した。
「あ、これが八乙女像なんですね。
「知らん、解らん。どうせ、特別お気に入りだったのがこの二人だったんだろ。はいはい不敬不敬」
膨らみかけた頬に先手を打てば、今度は尖らせられてしまう。しかしタイミングよく鳴いたカラスの声に堪えきれなくなって、どちらからともなく噴き出した。
「そういえば白山神社って、八幡様とかお不動様みたいに、けっこう色んなところにありますよね。ククリヒメさまはどんなことをした神様なんですか?」
「それがなあ、謎なんだよ。古事記や日本書紀の正伝には登場せず、日本書紀のある一つに、一文だけ出てくるんだ」
それはイザナギがイザナミを追って黄泉の国に乗り込み、妻の変わり果てた姿に逃げ出したことで、やれ毎日一万殺すだの、やれならばこちらは一万五千産むだのという世界レベルの夫婦喧嘩を繰り広げたところである。
「ククリヒメはその言い争いの最中に現れ、何事かをイザナギに提案した。するとイザナギが『それはいい!』と彼女を褒め、争いは仲裁された……んだと。だからククリヒメは『括る』ってんで、縁結びの神や商談成立の神と言われるんだが。何を言ったらアレを仲裁できるんだ?」
「むう、想像がつきませんね……そんな凄いこと、記録が残っていてもおかしくはないのに」
「――くくるが訛った『潜る』だという説があります」
喉に張り付くような低音の嗄れ声に振り返れば、立派な袈裟をかけた法衣に身を包む僧侶の和顔があった。歳は四~五十ほどだろうか、悟りを得たように湛える柔和な笑みの貫禄がある。
紲と楪が会釈をすると、彼はゆったりとした所作で深めに頭を下げた。
「潜る。即ち身を清めろと提案したために、イザナギはその後身を清め、アマテラスをはじめとした三貴神が産まれたのだとか」
「……聞いたことはあるが、眉唾だ。クソやべえ夫婦喧嘩に割って入って、片方に『身を清めろ』と言うことが仲裁になるか? こっちが殺そうとしているなら、それで頭を冷やさせることにもなるだろうが、ブチ切れているのはイザナミの方だぞ。逆撫でして終わりだろ」
「興味深い見解です。お詳しいのですね?」
「嗜む程度にな。里がそういうところだったもんでね」
「成程、ご出身は中山ですか?」
「さすが和尚、ご慧眼で」
微笑む目と笑わない目とが交錯する。
潮風に靡く袖が元の位置へ戻った頃、僧侶がおもむろに口を開いた。
「拙僧の出身は新庄でして。村山地方にも何度か」
「尤も里は滅び、直系の巫女は絶えちまいましたがね」
「それは……存じませんでした。お悔やみを」
「どうも」
頭は下げ切らず、目礼だけを返す。対して僧侶はまた深く頭を垂れ「良い夜を」と薫風を残して通り過ぎて行った。
橋の向こうへと小さくなる背中に、楪がぼうっと呟く。
「白山の人でしょうか……でも神社なのに、お坊さんっぽい?」
「さあな、だが相当やり手だぞ。
僧侶や神主といった生業の人間の中には、確かな力がある者は珍しくない。何か問題を抱えて檀那寺へ相談に行った際、気配を感じて住職自ら出てくる、などいう話がそうだ。ニコラたちのように『こちら側』の人間の場合もそういったことが可能だが、殆どの場合『ヤバい何かがある』という異物を感じ取れるという域を出ない。
一族の末端風情の、まして女系ではなく男を見てその血を当てる芸当が出来るまでには、一体どれほどの修行を積めば可能なのか。
……あるいは、修行以外の何かなのか。
「向かった先は、白山島の地下だったりしてな」
「えっ、地下があるんですか?」
「ああ、かつて羽黒山の社殿で火災が起きた時、その煙が島から出て来たらしい。今は落盤で塞がれているその神穴は、人の立ち入りが許されないような神聖な場所だったんだとさ」
嘲笑うように足下の砂を軽く蹴りつける。失われた宝だとか、今は入れない場所だとか、世界の古代系都市伝説はこれだから困る。火事の煙が出たという話があるくらいなのだから、さっさと地盤調査でもすればいいものを。
「神秘的な場所なんですね」
「いい感想だ。お前のそういうところが好きだよ」
少し風が冷え込んで来たか。紲は脱いだジャケットを楪の肩に羽織らせ、足跡を逆に辿り始めた。
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