蛇目の徒
「お待たせしました。今あるのは、こういったところでしょうか」
分厚いファイルからかいつまんだパンフレットたちをカウンターの上に拡げ、鶴岡市役所健康課の職員が各々の説明を始めようとしたのを、紲は努めて申し訳なさそうな上辺を取り繕って断った。
本間家を後にした後、市の中心部であった荘内神社に赴いたところ、これまたぐるぐると道を探す間ですぐ近くに市役所があることを知り、寄ってみたのだった。
「多いな……」
母子健康サービスや子育て支援サービス、母親教室にパパママ教室……ごった返しの字面たちに、紲は呻いた。そのほとんどが市内の総合福祉健康センターで催されるのだから、全部括った方が母体のストレス軽減のためにもいいんじゃないだろうか。
「市が主導かとか、どんな助産師さんがいるかとか、たくさん種類があるんですね」
「妊娠・出産はとても大きなお仕事ですから、たくさん悩んで、吟味するのが良いかと思われますよ」
職員の営業スマイルに曖昧な相槌を打ちながら、パンフレットを軽く眺める。自分が男だからだろうか、それとも死んだ体で子供を授かる未来が薄いためだろうか、どれも似たような内容でパッとしないように感じる。
少し、切り込んでみるか。
「実は妻が病弱で、願掛けなどがしたいのですが。教室の一環で、安産祈願の御祈祷に行くなどの行事を聞いたことはありますか?」
「え……いえ、特に聞いたことがありませんね。もしよろしければ、そこの荘内神社で安産祈願のお守りがいただけますから、相談してみてはいかがでしょう?」
そうします、と小さく頭を下げながら、紲は眉間に皺を寄せた。
この件の裏にいるだろう黒幕が意図して呪いを振りまいているのだとすれば、獲物に飛びついてくれるかと思ったが。単純に役所に届け出の出されていないものなのだろうか。
役所を後にした紲たちは、ぶらりと荘内神社へ足を運んだ。足を洗っても消えることのない
「ここは、日本さくら名所100選に選ばれているんですって。時期には桜のお守りが売っているそうですよ」
ちゃっかり市役所で観光案内のパンフレットを取って来ていたらしい楪が、新聞を大きく拡げた中年のようにしてかぶりついている。
「せっかくなんだ、まずは目の前にある四季の一幕を楽しんだらどうだ?」
よそ見の末に転んだりしないよう足を緩めながら諫めると、猫の一瞥のような半眼が見上げて来きた。
「見てますもん。紲さんって、たまぁにそういうロマンチストなこと言いますよね」
「そりゃあ、俺と見る景色なんだ、目を逸らすことは許されないからな」
「似合わないので無理しないでください。口は悪くても、俺様系じゃあないでしょう?」
くすくすとからかうような笑みに小突かれ、紲は肩を竦めた。
境内を二重に囲む堀は美しく、堀の半ばまでかかるほどに枝を伸ばした桜の木が、その季節の壮観さを物語っていた。空は青く澄み、田舎なだけあって景観を阻害するものはほぼ存在しない。遠くに望む山々の雄大さが神秘性をいっそう深めている。
「桜は霞城公園もいいですよね。今年の春は、友達と
「……いつの間に。見えたのか?」
「気合で。でも、ぼやけているとそれはそれで、上から見下ろした光の花束が、万華鏡みたいに見えるんですよ」
特権ですねと強かに拳を構えて見せる頭をくしゃっと押さえた。
「なら、来年は上山城にでも行こうか。あそこは足湯があってな、そこから城をバックに町の方を見ると、遠くの蔵王山が薄紫に燃えて見えるんだ。夜は夜でライトアップが綺麗だから、城内の桜も楽しめるぞ」
「あ、じゃああそこも行きたいです。上山に可愛いシフォンケーキ屋さんがあるって、スイーツパスポートで見ました」
パスポートシリーズは、ローカル情報紙『ZERO-23』の別冊として展開されているもので、逐次更新されてはコンビニのレジ前に積まれていることが多い。休憩がてら寄ったコンビニで見かけてはねだられるから、今日もリアボックスに二冊ほど仕入れたものが入っているくらいである。
目をきらきらとさせてから、はっと思い出したように楪は咳ばらいを一つし、お仕事お仕事と言い聞かせるように呟いた。
「ここの御祭神がウメヅ様だったりはしないんですか?」
「うんにゃ。ここはサカイ様だよ」
「サカイ様?」
「徳川四天王で有名な酒井忠次っているだろう。アレが庄内藩の初代藩主なんだよ。家康ってのは本当にとんだ狸でな、重鎮たちをぽんと辺境に送って治めさせやがる」
実際に、そうした経緯で山形には徳川の痕跡が随所に見受けられる。たとえば朝日町のパワースポット『大沼の浮島』は発見こそ大昔であるが、浮島神社を建立して丁重に保護を試みたのは徳川で、今もそこの手水場には葵の紋が刻まれている。
「ちなみに、『寛永雛』という名前から判るだろうが、マタが入っていたひな人形が今も河北周辺に文化として残っているのも、徳川の働きかけと云われている」
「へえ、徳川ってすごいんですねえ」
「そんなわけで、初代の酒井忠次、そして二代と三代……あと九代だったか。彼らを慕った省内の民の願いによって、藩の治世が終わった後にこの場に建てられた。それが荘内神社なんだよ」
念のため社務所の近くにあったパンフレットのラックを漁ってみたが、これといってめぼしいものはなかった。
「では、あっちにあった鳥居とか違いますか? ヨジロウ様みたいに、何か名前があるとか」
「残念ながら、あれは伏見稲荷の分社だよ。たしかに天童の喜太郎だとか、米沢の右近・左近だとか、名前がついている稲荷が山形には多いが、異例中の異例だ。
近いところで行けばかつて東根城で、事故死した夫の後を追って身を投げた姫に『
そもそも内陸の伝説である。まして妊娠がどうという話はなかったはずだ。
「ウメヅ様ねえ……」
雲を掴む気持ちで空を見上げると、不意に眼下から声をかけられた。
「なじょしたの」
掃き掃除をしていた用務員らしき風体の痩せぎすな中年が、まるで孫か親戚の子供でも迎えるような朗らかな表情で捲し立ててくる。
「おめだづも難産あんだが? どこの
「……すまない。内陸の人間だもんで、庄内弁は抑えめで頼めるか?」
「お、おう、んだか……あんだらも難産なんだか?」
まだ大分訛りは残っているものの、聞き取るには十分な水準には引き下がってくれた。
「私は別に妊――ふがもがっ」
「(馬鹿、話を合わせておけ)」
楪の口を慌てて塞ぎ、紲は男に作り笑いを浮かべた。
「実は、ウメヅ様の話を聞いて来たんだが……」
「あいや、あいだば見でみっが。案内すっさげ、
男は首にかけたタオルで汗を拭いながら、意気揚々と歩き出した。その足が向かうのは市役所でも市の総合保健福祉センターでもなく、新内川に沿って少し歩いたところにある、住宅地の中の小さな公民館のような建物だった。
「俺から離れるなよ」
楪が手の届く範囲にいることを確認しながら、開けられた扉を通る。
玄関から見えるところだけでも、既に異様だった。広間の造り自体は地区民が会合にでも使うそれだが、壁や梁の至る所に蛇の紋様が彫り込まれていたり、修学旅行で学生が喜々として買いたがるようなシルバーアクセサリーが引っかけられている。
「ヘビは、ちょっと不気味ですね……」
「だから魔除けになるんだよ。狛犬なんかと同じで、睨み、噛む生き物だからな」
おっかなびっくりとしている頭を宥めながら、紲は目を細めた。悪の象徴である蠍や、冷薄さの象徴である蜥蜴などでないことには一先ず安心ができるが、だからといって、真っ当なところがこんな所狭しと蛇を刻んだりするだろうか。ニコラのような黒魔術に傾倒した家でも、ここまでのことはまずしない。
招かれるままに上がると、広間の奥の壁に『ウメヅ様』の掛け軸がかかっているのが見えた。
「座って座って。今、安隆寺さまば呼ぶさげの」
「(安隆寺……? けったいな名前をしていやがる)」
給湯室から湯飲み一式を運んできた男が発した名前に、紲は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。安隆寺自体は新潟にある寺院として知られるものの、こと庄内においてその名前は別の意味を持つ。
片手で器用に茶っ葉の用意をしながら、男は受話器を耳に当てた。じめっと静まり返った室内に、まだ煮え切らないヤカンの音がふつふつと聞こえる。
「あ、佐藤でしたあ」
名乗りは辛うじて聞き取れたが、そこからは訛りが強くよく聞き取れなかった。
何度かこちらを見ながら喋っていた男だったが、突然くわと目を見開いたかと思うと、手に持っていた茶さじを取り落とした。しかし畳に零れた茶っ葉を気にする様子でもなく、スマホを持っていた手を力なく下ろすと、ゆらめくように顔を上げる。
楪が小さく悲鳴を上げた。男の眼は爛々と充血し、ぎらりと光る縦線の瞳孔――蛇目になっていたからだ。
「出て行ってくれないか」
男の口調が思いがけず普通の調子だったことに、紲は楪の腰元に回しかけた手を止めた。
「理由は?」
「ウメヅ様の御下知だ。救いが要らぬ者は帰れ」
「救いだ? 答えろ、そのウメヅ様ってのは何者なんだ。安隆寺って奴は何を企んでる?」
「語るべからず、聞くべからず」
男は糸に引かれたようにすっくと立ちあがり、卓を周ってこちらに詰め寄ってきた。
「その戒めがあるのは湯殿山だろ。テメエらみたいな異教が踏み入っていい地じゃないはずだが?」
「語るべからず、聞くべからず」
「チッ……」
危害を加えてくる様子はないが、このままでは埒が明かない。
楪へ手を伸ばしてきたのを庇い、その腕で男を突き飛ばす。男は全く力が入っていない人形のように吹き飛び、強かに壁に打ち付けられたが、しかし、何事もなかったかのようにまたゆらりと立ち上がった。
「カエレ、カエレ」
玄関の方からも声が聞こえて振り返れば、同じように蛇の眼をした老若男女が続々と押し寄せてきていた。見る限り、若い女はほとんどが妊娠しているようだ。
「視線の正体はこいつらか……? わかったわかった、一旦帰るよ」
楪を離さないように抱えながら、こちらを取り囲み間近で睨めつけてくる無数の眼の中を進む。楪の靴は蹴るように外へ放り、自分の靴はつま先につっかけて外へ出た。
こちらが敷居を跨いだが早いか、目の前で叩きつけるように扉が閉められ、すぐに内側から鍵のかけられるような音がした。
警戒は解かないまでも、一先ず楪を下ろし、靴を履かせてやる。
「なんだったんでしょう、今の……」
「さあな。帰る意思を見せた途端、ぱったり手を出してこなくなったってのも気味悪い。試しにこのまま夜まで居座ってみるか?」
無事の安堵から軽口を叩きながら振り返り、紲は絶句した。
公民館の窓という窓に張り付くようにして、奴らがこちらを監視していた。既に夜も近くなってきた薄闇の中で、眼がギョロギョロと蠢いているのが判る。
「蛇、ねえ……」
紲は奴らから目を離さず、後ずさるようにしながら楪の手を引いた。
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