ルサンチマン
駐車場を出てすぐのガードパイプに腰かけて、祈るように手に額を埋める相森を発見した紲は、何も言わずに隣へ腰かけた。
「吸っても?」
「どうぞ」
「外にいてくれて助かった。ちょうど一服がしたかったところだ」
ケースから一本引き抜き、恭しく火を灯す。すぐ隣で吸っておいて今更ではあるが、一応の礼儀として、煙は上を向いて吐き出す。
「ふふっ、辛うじて敷地内とはいえ、指定場所以外の喫煙は大丈夫なんですか?」
「むさくるしいオッサンに囲まれて吸う方が大丈夫じゃないのさ」
肩を竦めると、相森は同情するような顔をして苦笑した。
星の綺麗な夜だった。錆に変色したコンクリートも、月明かりの色と混じり合って、幻想的な異界のようにも見て取れる。
「二色根真知のことは聞いた。どいつもこいつも、難儀なこって」
「ええ。年頃の女の子が、バケモノやエイリアンと呼ばれ続ける痛みは、想像もできません」
「ありゃあ一体なんなんだろうな。最近じゃ、スマホが林檎製かそうじゃねえかでイジメが起きる時代らしいぞ」
馬鹿馬鹿しい。足元の砂利粒をつま先で蹴り飛ばす。
「こと人間というのは、自分と違うものを恐れるそうですからね」
「別に取って食ったりしねえのにな」
「漆山さんも、そういう経験が?」
「そりゃあ、里がオカルトチックな一族だなんて知ればな。関わり合いたくはねえだろ」
「ですが、けっこうなモテ具合だったと、長南さんから聞きましたよ」
「遠巻きにはな。直接言ってきたのはハナと芽瑠だけだった」
「琴葉さん、でしたか。当時の婚約者さん。その方の存在があったから、というのは?」
「ないな。言ってなかった。ハナたちにだって、再会してから話したくらいだ」
思い返せば、担任からはともかく、同級生から名前を呼ばれたことも両手で数えられるくらいだったように思う。それも、学校行事などの避けられない理由で、事務的に呼び付けられた時くらいだ。
所属していた剣道部でさえ、何か自分に用がある際は決まって、全体連絡のように伝えるような暗黙のルールができていたように思う。我ながら寂しい学園生活である。
「だからまあ、高清水の心境も理解できなくはないんだが……よし相森、ここで問題だ。どうして高清水は屋上で煙草を吸っていたと思う?」
「それは……そういうストレスがあったからではないのですか? あるいは、空を見て故郷に思いを馳せていたとか」
「残念だが、ハズレだ。追い出されたんだよ。本来は職員室の裏手に喫煙所があったんだ。だが、口寄せ巫女の家系なんていうやべー女と同じ場所で吸いたくないってんで、灰皿を屋上に移してな。他の教師たちはこっそり体育館裏に新しい喫煙所を作ってた」
「そんな……新しい方の存在を、彼女は?」
「当然知っていたよ。ついでにいやあ、移された場所が屋上だという理由が、階段を上る高清水のスカートの中を覗くためだっつーことも、あいつは知ってた。笑えるよな。気味悪がっても、股座は拝みたいわけだ」
「笑い事じゃないような気もしますが……」
「いや笑い事だろ。何ならあいつら、表向きには高清水を除け者にしておきながら、裏では抜け駆けして付き合おうとまでしていたんだからな。聖職者が聞いて呆れる」
それも、自分の待遇の悪さに拍車をかけていたように思う。
奴らは度々、外の空気を吸いに来たなどと空々しい態度を取り繕って屋上に足を運んでいた。そこに先客の紲がいればさあ大変。昼の授業の初一発目から、ホームルームでもないのに入念な手荷物検査をされたことだってある。
「そんな風だから、どんどん人のことが信じられなくなっていくんだろうな。おそらく、二色根も似たような感じだろ。表向きには周りと一緒になって囃し立てながら、善人面して手を差し伸べてくる奴も一人や二人じゃなかったはずだ」
「……辛い、ですね」
「ああ。誰よりも愛されることを求めているのに、愛がアレルゲンになってんだから」
これが、火遊びに耽って痛い目を見た結果であれば、自業自得として切り捨てることも容易いだろう。だが、高清水も二色根も、ただ生きていただけなのだ。
身を守るために必死で凍り付かせた心は、いつしか本人にはどうしようもないくらいに分厚くなってしまった。真心の熱も届かない氷獄の中で、寒さに震える唇が奏でるのは呪詛。そんな自分を責める言葉さえも呪詛となり、永遠に逃れられなくなる。
「なあ、相森」
紲は煙草を携帯灰皿に突き入れ、二本目を咥えた。
「小説を書いた理由。変わってないか?」
火を点ける間、相森からの返事はなかった。一口目の煙を流した後で、絞り出すように「そう努めてはいます」と彼は答えた。
「先日、楪さんから言われて、ハッとしたことがあるんです」
「うん?」
「僕が、楪さんをモデルにした人物で物語を書かせてほしいと願い出た時、彼女は言ったんです。『私は、物語の主役になれるほど、出来た人間じゃないから』と」
あいつらしい。紲は思わず口元を緩めた。頬に空気を含んだせいか、煙草のバニラのような薫香が一層深く感じられる。
どうせ自分でなければ、楪は頷いていただろう。英だろうが芽瑠だろうが、近所の鼻たれ小僧だろうが、袖触れ合った誰かであれば、主人公として描かれることを応援したに違いない。
まったく、謙遜も過ぎれば罪である。あいつが笑っていられる未来のためなら、俺は指だろうが目だろうが命だろうがくれてやれる。この俺にそこまでさせられておいて、この俺に選ばせておいて、まだ謙遜ができるなんてのは、これはもう説教案件だ。
「あの時の楪さんは、一層眩しく見えました」
「眼科を紹介してやろうか? 俺の義眼を作ったとこなんだが」
おどけて見せると、「結構です」と含み笑いの声が返された。
「本当に、大切なことに気付かされたんですよ? 彼女ほどの人が人間性を問われるのならば、物語を描く、いわゆる『神』である僕は、一体何なんだろうって」
相森は言葉を探すように一度呼吸を止めてから、ガードパイプに座り直して、目を細める。
「僕は幼い頃から体が弱くて。自由に想像を膨らませることのできる物語は、夢のような世界でした。けれど、そうやって物語に耽ることは、言い換えれば、ありのままの自分を否定するということなんじゃないかと思うんです。本来手を差し伸べるべき同じ境遇の人を、否定するということにも繋がります」
「夢ってのはそういうもんだろ」
「だと、いいんですけどね」
自嘲気味に笑って、相森は顔を上げた。
「煙草、いただいても?」
「……呑むのか?」
「普段は持ち歩かないんですけどね。担当編集と喫煙所でも話せるからと手を出して、それ以来」
「ああ、あるよなそういうの。俺も元はといやあ、銀次のおっさんの影響だ」
立てた指の前に、煙草のケースを差し出す。煙草なんてやめとけと挨拶をしながら、伸ばした首の前にライターを翳す。
二人並んで煙を風に溶かしてから、相森は小さく深呼吸をした。
「……穢れているんですよ、僕も」
「何だ藪から棒に。ヤニ吸ってるからって卑屈になったか?」
「一般的に忌避されるものであるのは事実でしょう?」
彼は肩を震わせながら、ちりちりと紙巻の先端を灰にしていく。
「こういう生業をしているせいか、人間観察なんてものも、内容が陰鬱になってくるんですよ。道行く人が、急に暴漢に襲われたらどんな反応をするだろうかとか、悪事に手を染めるとしたらどうだろうかとか。果てはその人がパートナーと歩いているのなら、どんなセックスをするんだろうか、浮気をした際には……なんてことも」
「あー……そいつは軽く引くな」
「でしょう? けれど、物語はエンタメです。善か悪か、正論かどうかではなく、求められている結末でなければ売れないんです。物語としての人の正しい在り方と、現実に生きる人としての正しい在り方がごっちゃになって……最近は、少し解らなくなってきました」
溜め息を吐き、新しい空気を求める肺を踏みにじるように、煙を溜める。
遠くを見る相森の瞳は、暗かった。とてもじゃないが、楪や矢野目夫妻ら同級生には見せられない貌だろう。
「本当はもっと悪を断じたい。真知さんを苦しめたような下衆を責めてやりたい。けれど、プロとして生きるためには、そういうことは飲み込まなきゃいけない。『作家・相森宗貞』から紡がれる言葉は、虚飾塗れですよ――でも」
息継ぎをするように空を仰いで、相森は肩を大きく上下させた。
「けれど、それでも。やっぱり、誰かが求めてくれるのならって、思うんです。僕が何かを紡ぐことで、その人に笑顔を向けてあげられるのなら、僕は全霊を以て、筆を執ります」
「……そうか」
かつて、彼の実家の縁側で話をしたことを思い出す。依頼をこなした後、茶を馳走になった流れで、彼が作家志望であることを教えてもらった。
――見知らぬ誰かが本を手に取ってくれて、笑顔になってくれる。それって、ものすごいことだと思いませんか!
あの時のきらきらと輝く瞳は、純粋なそれではなくなってしまったかもしれないが。しかし確かに、今の相森の瞳の底にも燃えている。
「(いい眼ェしてんじゃねえか)」
煤塗れで燃焼不良を起こすよりは、多少穢れているくらいの方が着火剤になるだろう。一度焼きが回ることを知ったからこそ、炭としての役目を担えるのだ。
「今回の一件、あいつらにずっと付いて回っていたそうだな?」
「はい。足手纏いは承知でしたが、じっとしてはいられず……」
「いや、責めているわけじゃない。それでいい」
もうすっかり根元まで燃えて火の消えた煙草を、灰皿へと放り込む。
「推測通り、二色根真知が小野小町の役割をしている場合。楽にしてやるだけなら容易いだろう。だが、それじゃあ不服だろう?」
「……はい。真知さんは生きて連れ戻します」
「そうなれば、難易度は跳ね上がる。下手すりゃあ、俺がパチ郎をぶっ飛ばすことよりもキツい筋だ。それでも、意地でも『相森宗貞』の言葉を紡げるか?」
問いかけに、相森は一瞬息を呑んだ。そのまま唇を引き結び、じっと目を瞑る。
「成し遂げて見せます、必ず」
刮目した目には、プロの作家としてではない、一人の男としての闘志が揺らめきはじめていた。
「よく言った」
にい、と歯を見せて、紲は手を伸ばした。それに握手で応えようとした相森の手のひらを軽く打ち払う。
「バカヤロウ。その手で握る相手は別にいるだろうが。男同士の約束っつったら拳だろ、拳」
「あ、ああ……! そうですね、すみません。こういうことには疎くて」
「じゃあ今覚えるんだな」
遠慮がちに突き出された握り拳に、正面から拳を打ち合わせる。
文系故だろうか。打ち合わせた感触はひどく華奢だった。しかし、ちょっとやそっと力を入れても押し込まれることのない、男の拳には違いなかった。
達成感を得たような照れ笑いを浮かべる相森の背中を、気が早えよと引っ叩く。
そんな時、署の玄関口の方から「いたぞ!」という声がした。懐かしき三バカたちである。
「報告です! 市内に異形が現れたと通報が!」
「チッ、もう動きやがったか」
紲は相森の吸殻を受け取り、足早に署内へと戻った。
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