総員出撃
ささいな悪態のはずだった。
眠りにつくのが早い田舎の地とはいえど、それは全員に当てはまるわけではない。部活や仕事からの帰りが遅くなる者もいれば、夜のうちに各所へ荷物を運ぶドライバーらもいる。
男は、そんな夜の町の裏側でひっそりと脈動する静かな時間の中に身を置くことで、生きているという実感を得ているような気がしていた。お天道様の下を歩き、夜は健やかに眠るような人間では味わえない、特別な空気だ。
だから今日もいつものように、誰と示し合わせるでもなく、腐れ縁の仲間たちと集まってはコンビニの明かりの隅っこに屯をしていた。
「でさー、マジで上司がうぜえのなんのって」
車だって端に止めている。ある程度声を憚ってさえいれば苦情も来ない。ここ数年で灰皿という旧友が撤去されてしまい、ぽっかりと空いたスペースを偲ぶように身を寄せ合い、携帯灰皿を囲んで煙草を吹かす。ささやかな慰労会だ。
「辞めちゃいなよそんなとこ」
「それなー。考えてはいんだけどさあ。辞めようとする空気出すとちょっと優しくなんの」
「ああ、あるよな。だったら最初からパワハラしてんじゃねえっての」
よくある悪態。本気ではないし、実行に移そうと計画しているわけでもない、ただ憂さ晴らしをして、自分の心を守るための愚痴だった。どこかの成功者が『本人に言えないなら悪口を言うな』とか言っていたらしいが、別に戦いたいわけじゃない。
ひとしきり吐き出して、適当に酒とつまみを買ってから場所を部屋に移して、とりあえずビールと洒落込みながら、なんとなくの流れでヤり、雑魚寝をする。不健全だとは自覚しているが、なんだかんだ幸せな時間だ。
「はあ、あのクソオヤジ、死んでくれねえかな」
いつもの呪詛。だが、今日は違った。吐き出すや否や、首に痛みが走った。
まるで罰が当たったかのように、それ以上言葉を出せなくなる。首の様子を確かめようとして指が触れた瞬間、視界がぐらりと傾いた。
「あ、え……っ?」
それが男の、最後の言葉だった。
残った友人の男女は、何が起こったのか解らず、噴水のように噴き出しては降り注いでくる血の雨の中、カチカチとあごを打ち鳴らす。
『……イウナ』
血飛沫の奥で、唸り声を出しながら揺らめく黒い影。二人は少し前にゲーム実況で流行っていたスレンダーマンのようだと思ったが、実際に目の前にすると、ゲームとは比にならない悍ましさがある。
「なんだ、これ……」
「嘘でしょ。きもいんだけど……」
女が声を震わせると、影は悲鳴にも似たくぐもった叫び声を上げ、身を捩った。それが腕を薙ぎ払う動作なのだと男が気付いた時には、女の頭は車のボンネットを貫いていた。
ひしゃげた鉄板から生えたような女の体がびくびくと痙攣し、糞尿を垂れ流す。
『イウナ……ワルグチ……イウナ……』
「ひぃっ……!?」
男は尻もちをつき、もたつく腕で這うように逃げだした。一心不乱に逃げてから、ふと、未だに奴が襲ってこないことに気が付いた。
「は、ははっ……」
どうやら悪口さえ言わなければ、奴は何もして来ないらしい。
良かった。なら大丈夫だ。震える手で携帯を出し、生まれて初めて自分から『110』を押す。
『――事故ですか、事件ですか』
「じ、事件だ! 助けてくれ、バケモノが!!」
『イウナァ!!』
獣のように飛びかかってきた異形によって、男は道路の対面に建つ家の石塀へと叩きつけられ、びちゃりと潰れた。
* * *
「コンビニの店員が気付いた時には、異形の姿はなかったみたい。ただ、監視カメラには凄惨な一部始終が映っていたようね」
「うっわ……ンなもん見せられて可哀そうに」
「ほんとそれな。通報した夜勤の子、泣いてたらしいですよ」
一課の部屋へと戻る道すがら、向こうからやってきた英らと合流をした紲は、また外へと踵を返しながら事のあらましを聞いていた。
険しい顔で電話をしていた山王浦が、一層眉間を歪ませて通話を切った。
「既に同様の通報が数件入っているそうだ。もっとあると考えていいだろう」
「夜の町だけでこれか。うちのガ――子供みたいに、夜な夜なゲームをしてチャットで暴げ――色んなことを話しているようなのがいれば、人知れず……ということもあるだろうな」
落合は血の気のない顔で、言葉を選びながら言った。
「落合くん……その息子さんは?」
「無事だ。邪魔すんなって電話即切りされたよ。どうやら米沢周辺――広く見てもまだ置賜までなんだろう」
「深呼吸しろよ、おっさん」
安堵と警察官としての使命とでぐちゃぐちゃになっている落合の肩を、それでいいと叩いてやる。
こうした職務では身内の事案に関われないということも多い。紲はその規則が好きだった。情を抱くことは否定されていないからだ。そして、感情に任せて誤った判断をしてしまわぬよう、当人を守るための思惑があるからだ。
「まだ北上されていなくて良かったと思うしかねえな」
「……織田信長ね」
「ああ。現代における無辜の代表格だ。アレと混ざられちゃあどんなことになるか判ったもんじゃねえ」
正面玄関とは別の、出動に用いる専用通路から外へ出ると、既に多くの警察官が整列して待っていた。
敬礼で迎える彼らを横目に、紲は振り返る。
「ニコラの作った
「……各員二発といったところね。ハナにはリローダー二つ預けているけれど」
「重畳。事前に打ち合わせた通り、おっさんたちは避難誘導メインで頼む。やり方は任せた」
「応。サイレンはどうする。住民を起こした方がいいと思うか」
「それも任せる、が……奴らの性質が性質だ。下手に起きて妙なこと口走られるよりかは、このまま眠っていてもらった方がいいかもな」
肩を竦める。裏目に出れば大惨事となる
一刻も早く奴らの柱を折れば、杞憂も万事解決だ。
「ところで、頼んでいたアシは?」
「そのことなら漆山、こっちに来てくれ」
「あン?」
落合と吾妻に先導されて、紲はロータリーを下りた。捜査車両の端に、ペイントの施されていない武骨なバンが頭から停まっている。
「漆山巡査からお前の復活の計画を聞いた時点で、用意しておいたよ」
だから俺も来たんだと、悪だくみをする子供のように口角を上げた落合は、バンのトランクを開けた。
そこに収まっていた青のバンディットに、紲は大きく目を見開いた。それからもう一度落合の肩を引っ叩き、愛車の頭を撫でる。
下ろされた愛車に跨れば、まるですべての感覚が戻って来たかのようだった。
開いたカウルに刀を差し込み固定する。その間にするりとやって来た楪が、後ろに飛び乗って腕を回してきた。姿が見えないと思っていたが、既にヘルメットを装着済みという姿を見せないようにしていたのだろう。
吾妻たちがぎょっと目を見開く。
「お、おい嬢ちゃん。大丈夫なのか?」
「元より本件は十三課の扱いです。紲那も預けてきました。駄目だと言われても付いていきますからね!」
「当然だ。それにこの戦い、お前の力が必要になる」
自分のメットを被りながら声をかけると、回した腕にきゅっと力が籠った。
ふと思い出して、肩口にへばりついた頭を裏拳で一発小突いておく。
「あ痛っ? な、何するんですかっ!?」
「うるせえ。なーにが『私そんな出来た人間じゃないんですう』だバーカ」
「へっ……ああっ! 聞いたんですか、喋ったんですか、ちょっと宗貞くん!? どこっ!?」
「あいつはハナと芽瑠に同伴しているよ」
きょろきょろとメットで背中を抉ってくる楪を、紲は後ろ手で抱き締めるように抑え込んだ。
彼女の動きが止まる。背中越しに伝わる鼓動と温もりは、あの日から変わっていない。母親に抱かれて子供が安心するのは、胎内にいる頃からそれらを感じていたからだというのは、半分間違いだろう。
こいつの温もりだから、安心できるのだ。
「お前は凄いよ、楪。俺が保証する。だから二度と謙遜すんな。胸を張ってろ」
「……はい!」
はにかんだ楪がきちんと座り直したのを確認して、紲はアクセルを回した。
***
「……奴らは上杉神社の方に集中しているみたい。そこから放射状に拡がっている感じね」
箒に乗って空から街並みに目を凝らしていたニコラは、インカムに向かってそう告げた。
薄暗い家具の隙間でも虫が這えば判るように、街灯を頼りにせずとも視認は容易だった。
遠くの方で何かが飛び上がったかと思うと、それは民家の二階を突き抜けて反対側から飛び出していくのが見えた。もっとよく状況を確認すべく眼球のガラスレンズを望遠モードに切り替えようとした時、眼下の通りから衝突音がした。
襲われた車のクラクションが響き続けている。さすがにそれだけの音がすれば安眠など適わないだろう。ニコラが箒を降下させはじめた時にはもう、寝間着姿の近隣住民がすわ何事かと飛び出してきているところだった。
ニコラは舌打ちをして加速する。
「――鬼さんこちら、手のなる方へ」
挑発するように口遊む。それに気づいた異形は、血走った目でぎょろりと空を見上げ、飛び上がって来た。
すかさず呪いの紙を払い、簡易結解を作成して受け止める。
「あら地獄耳。よく聞こえる耳をお持ちね」
『イウナ……イウナアァァァ!!』
「解っているわよ」
まるで窓に顔を押し付けるように横っ面を歪めた異形は、何度空振りをしてもニコラへ腕を伸ばすことを止めない。
「――だからそんなに泣かないで頂戴な」
ニコラは目を細くして、異形へと箒を寄せた。こちらを捕えようと伸びきった手の指先を掴み、そっと撫でる。
「ちゃんと解っているわ。もうこんなことをしたくないんでしょう? 確かに貴方は世の中を呪って命を絶ったかもしれない。けれど、こんな誰かれ構わずの復讐の仕方も望んじゃいない。違う?」
『イウナ……イウナ……』
「言うわよ。何度だって言うわ。貴方は頑張った。だからもう、呪いに強制された百鬼夜行なんか続けなくていいの。……あら、ピアスを付けているのね?」
異形の頬を撫でたニコラは、漆黒の体の中にある手触りの変化に気が付いた。よくよく意識を集中させてみれば、その生前の輪郭が見えてくるようだ。
「そう、女の子だったの。気付かなくてごめんなさいね。ピアスのデザインもセンスがあるわ。貴女、とても綺麗よ」
『ア、あ……』
「けれどもう夜も遅いわ、お休みなさい」
微笑みかけて、伸ばした右腕の表面を左手でなぞる。服の内側に刻んだウィジャボードで唱えたのは『
空から降臨した双頭の番犬の爪によって、彼女の胴は真っ二つに引き裂かれた。
それでも離さずにいたニコラの手を、彼女は上から自らの手を添え、祈るように頬ずりをして、
『アリガ……トウ……』
笑みを浮かべて、光の塵となった。
静かに着地をしたニコラは、まず指を鳴らしてメリーたちを呼び、飛び出してきた近隣住民を少々手荒な方法で昏倒させて家に引きずり込んでもらった。
「まったく、どっちが通り魔なのかしらね」
苦笑する。一旦は人気がなくなったことを確認していると、チャーリーが寄ってきて頬を舐めてきた。顔の両側から挟むようにして涎塗れにしてくる双頭を、両腕で抱きかかえるように迎える。
「お帰りチャーリー。傷の具合はどう? 米沢牛をいっぱい食べたから、大分良くなったでしょう」
『バオンっ!』
「ふふっ、そりゃあ足りないでしょうね。でも安心して――」
ふかふかの毛並から顔を上げて、ニコラは通りの向こうを一瞥する。
「――メインディッシュのご到着よ」
通りを埋め尽くさんばかりの手勢を引き連れてやってきた二人の男――綱木と館山が立ち止まる。
「おい、今のはなんだ、魔女さんよ。俺たちに情けをかけたつもりかよ?」
「『解ってあげてる私ってカッコイイ』みたいなさ。そういう上から目線がムカつくんだよね」
「そうカリカリしなくてもいいわ。黄泉から無理矢理連れてこられた人たちとは違って、貴方たち実行犯は
「ちっ、舐めやがって」
ほくそ笑むニコラと、嘲笑うようにメンチを切る彼らとの視線が交わる。
「「『苔の衣を我に貸さなむ』」」
人ならざる力を纏った綱木と館山に、ニコラは鼻を鳴らした。
「『岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなん』……か。ねえ、その和歌の意味はご存じ?」
『……は? 今度は偉そうに授業かよ』
「まあまあ、米沢にゆかりのある小野小町の歌なんだから。ちょっとくらい、ね?」
というか貴方高校生でしょうと館山を宥め、不意打ちの意図はないと示すように、箒をチャーリーに預けて数歩下がらせる。
「その歌は、小町が石上寺を訪れた際、同じ六歌仙の一人で旧知の仲である遍昭がいることを聞きつけて詠んだ歌よ。『石上』を『岩の上』と擬え、岩から苔、僧衣を意味する『苔の衣』へと繋げた、小町らしいテクニカルなリリックね」
『……で? だから?』
「そう急かさないの、面白いのはここからよ? 『貴方の衣を貸してください』と言った小町に返って来た歌は『世をそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝ん』。簡単に言えば、僧衣は一着のみだから貸せないが、貸さないのも薄情。ならばいっそ、二人で寝ましょうと言っているの。この意味、解るわよね?」
『へえ、つまり、小町と遍昭はヤったんだ?』
「いいえ?」
下衆に緩んだ頬に、ニコラはあっさりと首を横に振った。
大和物語では、小町と遍昭はかつて『ただにも語らひし仲』にあったらしいが、そんな関係の二人が再会しても、その結末はあっけないものだった。
「その後小町が寺中を探しても、彼の姿はどこにもなかったそうよ」
『は? 意味わかんねえ。何が言いてえんだよ』
「私はね、遍昭の気持ちも理解できるのよ。『苔の衣はただ一重』――遍昭という男の解釈はただ一つなの。小町は遍昭を歌人として扱って歌を送るのではなく、一人の男と再会したのだと喜び勇んで駆けていれば、違う結末があったのかもね」
今更どうということでもないが、かつての自分も、あるいは――。
ニコラは自嘲気味に小さく頭を振り、チャーリーを手招きして箒を受け取る。
「つまり私が言いたいのはね。貴方たちはそうやって疑似的に伴侶を侍らせているけれど、斜に構えてバカをやっているうちは、本当の愛は掴めないわよ、ってこと」
『なんだよ、散々偉そうに講釈垂れて、結局は喧嘩売りてえだけじゃねえか。行くぞ館山!』
『命令すんな!』
大きく体を屈めてから飛びかかってくる異形に、ニコラは「これだから男って」と溜め息を吐いた。遍昭のように乙女心に通じ過ぎていても困りものだが、少なくとも不足があるのは論外だ。
「チャーリー、好きなだけお上がり。
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