分かち合う今

 相森は後部座席から、窓の外を凝視していた。道中で遭遇した場合を考慮して、万が一にも見落とさないよう、視界を過る木々の隙間をつぶさに観察する。

 寺院らしきものがライトに照らされてからしばらくしたところで、助手席の芽瑠が「お、そこを左です」と言った。直後、車体に大きな横向きのGがかかり、相森は座席の反対側へと投げ出された。シートベルトを着けていなかったら、ドアに頭を打ち付けていたかもしれない。


「ちょっと、指示出すの遅くない!?」

「無茶言うなですよ、ただでさえ夜の山道で視界が悪いんですから。つかよくこんな道で百キロも出せんな!?」

「ええ、峠道は得意なの」

「でしょうねえ!」


 口喧嘩のような漫才を繰り広げる英と芽瑠の声を聞くともなく、相森はどうにか態勢を立て直した。「先生生きてるかー」という芽瑠の問いには苦笑いで返す。


「それにしても、本当にこっちでいいんです? さっきのニコラの通信でも言ってたじゃろ、奴らは上杉神社方面を中心としているって」

「はい。あくまで向こうは『本陣』です。僕らが目指すのはあくまで『本拠地』。百鬼夜行を生む五色沼の沼があるなら、小野小町もその近くにいるはずです」


 相森たちが向かっているのはダム湖だった。漆山紲召喚作戦では芽瑠とニコラが通ったルートである。

 主戦場である米沢市街からは離れた土地。見当が外れれば大きなタイムロスとなるが、むしろ手遅れを防ぐためには、こちらへ直行する必要があると予感していた。

 紲が「超特急便」と称した英の運転は文字通りで、夜間で車通りも少ない中パトライトの免罪符を得たスポーツカーは、あっという間に山道を駆け上がってくれている。


「けれど私たち、現場で二色根さんの姿を見ていないわよ?」

「……大丈夫です、おそらく」


 不安で肝が潰れそうになるのを堪えて、相森は頷いた。


「英さんや楪さんたちの話を聞いて思ったんです。その時、高清水はどこから出て来たんだろうって」

「ああ、そう言われてみればそうね。宿にコテージに……人が身を隠すだけならどうとでもなるか」

「問題は、今の真知さんが『身を隠している』とは限らないということですけどね」


 憂慮すべきなのは、現状彼女と連絡が付かないことだ。こちらへダム湖の情報を流したことで、監禁されている可能性は十分にあった。

 さらには、小野川温泉で英たちが対峙したという館山や綱木の異形化が気にかかる。

 そのトリガーとなる呪詛は、大黒天の前での二色根も唱えかけていた。今の彼女が自発的にそうするとは思えないが、もしも、異形の方から取り込めるとすれば話は変わる。


――貴方と私は、斎垣を隔てた彼方と此方。世界を呪い続けたバケモノに触れてしまっては、宗貞さんの優しい手が、穢れてしまう。


 彼女は自分の手を、優しい手と言ってくれた。作家として筆を執る中で、耳障りの良い虚飾に塗れてしまったのではないかと嘆いていたこの手を、案じてくれた。


「(今度は僕の番です)」


 唇を噛み、相森は顔を上げた。

 道路と並走するように川が見え、樹齢千年を超える経塚の桜の前を過ぎれば、五色沼と化した白川湖が見えてくる。英たちが戦闘をしたキャンプ場の対岸をぐるりと回って、道に合流するルートだ。

 キャンプ場前の温泉旅館・白川荘が管理するコテージが点々としているのを通過しようとした矢先、相森は目を疑った。

 一軒のコテージの壁を突き破り、紫色に脈動する繭のようなものが異様に膨らんでいる。


「何ですか、アレは……」

「ウチも知らんぞ。あの時もここ通ったですが、そん時はなかったはずじゃ」


 英が車を停めたその時、繭が口を開いたかのようにぱっくりと裂けたかと思うと、数体の異形が這い出してくるのが見えた。

 羊水で濡れているかのように粘液を垂らしている異形は、やがて立ち上がると大きく飛び、相森たちの頭上高くを米沢方面へと飛んで行った。


「ウチらは無視け。悪態吐かなきゃ襲われないってことでいいです?」

「ビンゴ……というにも手放しには喜べない状況ね……」


 相森たちは駆け下り、件のコテージへと距離を詰めた。

 近くで見る繭は想像以上に巨大で、そして歪な形をしていた。外面はぶよぶよと爛れた腐卵のようになっており、その内側で脈動する核の部分は、オーパーツで知られていたクリスタルスカルのようなされこうべ型の紫水晶のようだ。


『あな、め……あなめ……』


 されこうべから聞き覚えのある声がする。

 が窪んだ眼窩から紫の血涙を零すと、それが繭全体に染み渡り、一際大きく鳴動した。顎の部分がぱっくりと開き、嘔吐するような苦悶の声とともに新たな異形が這い出て来る。

 今度は異形たちが立ち上がる前に、英と芽瑠が蹴散らしてくれた。


「真知さん!」


 相森は繭へと飛びつき、閉じられようとする口元に腕を突き入れた。繭の内側は生温かく、断面が粘液を纏っている。わずかでも気を抜けば、押し出されてしまうようだった。


「真知さん、そこにいるんでしょう!? 僕です、相森です!!」

『あ、ああ……むねさだ、さ……』

「待っていてください。今助けますから!」


 相森は繭をかき分け、どうにか核のされこうべへ触れようと試みた。しかし断面の襞からの拒絶は激しく、さらに粘液には麻痺の作用でもあるのか、途端に体に力が入らなくなり、このまま圧に身を任せたくなってしまう。


「しっかりしろ、平安ボンボン!」


 不意にかけられた芽瑠の声で、相森はハッと我に返った。思わず転寝をしてしまった時のような感覚にぞっとする。

 繭の上に足をかけた芽瑠は、銀のグローブで断面を掴んでこじ開けようとしてくれていた。しかし、奥の方はぴったりと張り合わせたかのように塞ぎ込み、びくともしない。


「ハナ! ガワだけでもなんとかならんか!?」

「そうは言っても、撃って大丈夫なの!?」


 英は下から銃を構えてくれてはいるものの、険しい顔で発砲を躊躇しているようだ。


「お願いします!」


 相森は少しでも奥へと繭を掻き分けながら叫んだ。


「異形化をするための呪いが、あの和歌から取られているのならば、おそらく体を重ねているだけです。同化まではしていないはずです!」


 よく男女がまぐわうことを『一つになる』と言う。しかしそれは肉体が混ざり合ったり、溶けているわけではない。あくまで表現上のでしかなく、実際にその状態と化しているわけではないはずだ。

 思わず脳裏を過る不穏なビジョンを、頭を振って追い払う。受け入れるな。間違ってもその姿だけは思い描くな。彼女の名誉のために。そして、己の勇気のために。


「恨まないでね……!」


 英が放った銀の弾丸は、相森の体のちょうど真上を通過するように貫通した。それによって裂け目が拡がったところを、すかさず芽瑠がこじ開ける。


「真知さん!」


 半ば落下するように滑り込んだ相森は、腕を伸ばし、されこうべに触れた。


「真知さん、真知さん! 迎えに来ました。ですからどうか、自分を強く持ってください。この呪いを解く方法を――」


 矢継ぎ早に語りかけた相森は、そこでふと、されこうべの顎が震えていることに気が付いた。

 何かを伝えようとしてくれている。耳を澄ませて、じっと彼女の言葉を待つ。


『どうか、ころして』

「……どうして。そんなこと言わないでください! 高清水たちのことは、漆山さんが解決してくれます。もう囚われることはないんです。だから、帰りましょう?」

『わたしはもう、ばけものだから』

「真知さんはバケモノなんかじゃない!!」


 されこうべ――彼女を閉じ込める硬い殻の表面に手のひらを叩きつけ、相森は叫んだ。


「バケモノなんかであるもんか!! ああクソっ、イジメは大罪だ! どんな因習村の悪しき儀式よりも低俗で、容易で、陳腐で……誰もが行えてしまう最大規模の呪いだ! こんなにも真知さんは苦しんでいるというのに、呪いを吐いた奴らは今ものうのうとしているのかと思うと……僕は! 嗚呼、そいつらを探し出して、八つ裂きにしてやりたい……!」

「おいボンボン、てめえ、自分が何言ってるか解ってるですか!?」


 芽瑠の諫める声に、相森は「解っています!」と八つ当たり気味に答えた。


「解っています……解っているから、んです! 僕がすべきことは、真知さんを苦しめた奴らを手にかけることじゃあない。他でもない真知さん自身の苦しみに寄り添うことです!」

『むねさださん――お˝っ、お˝お……っ』


 嘔吐とともに、新たに生まれ出でた異形が生まれ出でる。

 腹部を殴りつけられ、相森は体を折ってもんどり打った。呼吸が止まる。目の奥に火花が散る。生まれたばかりでもこの膂力――いや、生まれたばかりだからこそ、ただの人間風情である自分でもどうにか生きながらえることができているのだろうか。


「話の腰を折るのは感心しねえですね!」


 芽瑠が異形を引きずり出し、殴り飛ばした。

 それに礼を言う余裕は、今の相森にはなかった。息も絶え絶えになりながら、ただ一心に、されこうべから手を離さないように踏みとどまる。


「真知さん。僕はあの日、貴女と一緒に歩いていたのが誰か別の男性であれば、胸の内を隠したまま身を引くつもりでした」


 ひどく混乱したが、同時に安堵もした。かつて漆山紲という探偵と関わったことがあったからだ。

 彼女をすぐに救えると思った。まさかこのような事態になるとは露ほども想像できてはいなかったが。


「けれど今なら、あの日貴女と歩いていたのが異形で良かったとも思うんです。おかげで貴女がずっと抱えていたものを知ることができた。僕の中で地に足が付いていなかった恋心と、本気で向かい合うことができた」

『こい……』

「はい。好きです、真知さん」


 自分でも驚くほどに穏やかな声だった。常に言葉で頭を悩ませ、どう紡ぐかだけに心血を注ぐ生業に身を置く自分から突いて出た、たった一言のシンプルな言葉。

 しかしそれは、心の芯から温かくなる魔法の呪文のようだった。


「生きていてくれて、ありがとう。痛みを抱えながらも生き続けてくれたおかげで、僕は、貴女という素敵な人と出会うことができました」


 世をのろうのではなく、大切に想う人へとまじなう言葉。

 ずっと自分が紡ぎたかった、本当の言葉。


「貴女には生きている意味がちゃんとあるんです。せっかくここまで来たんです、こんなところで諦めたら勿体ないじゃないですか。これまで一人で辛かった分、これからは僕に受け止めさせてください。僕にも、背負わせてください」


 相森は涙を流して感謝した。ああ、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。


「どうか生きてください。僕と一緒に」

『宗貞さん……』


 大きく息を呑むように二、三度されこうべが震えたかと思うと、繭が弾けた。

 どろりと氷菓子が溶けるように崩れた足場に乗って、相森は地面へと降りた。その腕には横たえる二色根が抱えられている。小野川温泉で見た時よりもさらに痩せただろうか。初めて抱く彼女の体はひどく軽かった。


 弱々しく持ち上がった瞼から覗く瞳が、彷徨いの果てにこちらの目と合う。その瞬間、月明かりを移す瞳がじわりと滲んだ。


「ごめん、なさい……」

「許しません」

「そう……ですよね」

「当然です。すごく心配したんですから。だから罰として、真知さんには僕の抱えているものも背負ってもらいましょうか」

「…………え?」

「言ったでしょう。一緒に生きてくださいって。どちらか一方からだけじゃなくて、二人で分かち合うんです。これまでのことも、これからのことも」


 その第一歩だと、相森は意を決して二色根の体を抱き締めた。強く力を込めてから、そういえば返事を貰ったわけではなかったなとか、英と芽瑠の前だったなだとか、余計なことがぐるぐると頭を巡り、今更ながらに気恥ずかしくなる。

 だが、そんなことはどうでも良くなるくらいに、


「……温かいです。とても」

「ええ。僕もです」


 大切な人と分かち合う今から、腕を離したくなかった。

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