第三章 秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば

悪魔の証明

 捜査員たちの机から離れた壁際に島を作り、楪はニコラ、相森との三人で顔を突き合わせていた。贅沢に使った何枚ものルーズリーフが、まるでテーブルクロスのように拡げられている。


「そうか……あの夏の裏には、こんなことが」


 ボールペンを置いた相森はコーヒーカップに手を伸ばしたが、すっかり空であったため、彼の指は取っ手をなぞるだけに留まった。


「うん。それが紲さんとの出会いだったんだ」


 気付けば、楪の手元のカップも底に月が出来ている。立ち上がろうとすると、先んじてサイフォンを運んできたメリーたちに止められた。落とさないよう三人で協力しながらお代わりを注いで回る愛らしい人形たちに礼をいい、温かい苦味に口を付ける。


「書けそう?」

「うん。生い立ちから白蛇の件までの一連を……となると途方もないけれど。的を絞れば、叩き台程度の初稿なら」

「……それで構わないわ。プロの貴方に言うのもなんだけれど、今必要なのは、優れた文芸作品ではないから。彼についてのことが確立できていれば十分よ」

「承りました。それでは、小休止をしてから、寝ずの執筆ですね」


 任せてくださいと腕を叩いてから、相森はチョコレートを口に放り、コーヒーを含んだ。

 楪も一息を吐いて、紲那の相手をしてくれている芽瑠の方を窺う。赤い吊りスカートに着替えた花子さんたちの何人かが、一緒になって紲那をあやしてくれているようだった。

 こちらの視線に気が付いた芽瑠は、やることがねえと空いた手をひらひらさせた。


「もうこいつらも十三課のお抱えにしねえです? 強えし子守はできるしで、超優秀ですよ」


 彼女が手近なおかっぱ頭を撫でてやると、花子さんA(暫定)は照れくさそうに首を竦める。

 しかし一方で、奥にいた花子さんBとCから「きゅーりょーはにんずうぶんもらうぞばばあ」「すこしはじぶんでやればばあ」という空とぼけたような悪口がかけられた。


「……おう、そっちはいつぞや裏拍手してくれたヤツですね? っしゃ並べ、おしりぺんぺんじゃ」


 芽瑠は右手にグローブを付けると、花子さん二人の胴回りをがっしと掴んで引き寄せ、そのちいさなお尻をびったんびったんと引っ叩き始めた。黒魔術の銀細工がなされた平手打ちの威力に、ぶたれた花子さんたちは顔面蒼白で床をタップし始める。その光景を真似するように、紲那が自前のスポンジ剣をきゃっきゃと振り回している。


「……止めなくていいの、アレ?」

「難しいところですね。でもほら、他の人が叱られているのを見ると、本能的に避けるようになるっていいますし。躾と考えれば?」

「……それは犬の話でしょう」


 以前動画サイトで見た動物動画の中に、そういったものがあった。同じ犬の人形を使って何か注意したい動作をさせたあとに、その人形を引っ叩いて見せることで、犬本人を叱りつけなくても躾の効果があるという。

 コーヒーを啜りながら眺めていると、物置部屋に言っていた英が戻って来た。馬見ヶ崎ら三バカとともに大きいプリンターを運ぶ様は、まるで引っ越し業者である。

 山王浦に置き場所のお伺いを立て、楪たちの後ろ――部屋の角にデンと下ろす。


「古いインクジェットプリンター一丁、お待ち! もう処分するだけだから、好きに使っていいって」

「本当ですか! 良かった……」


 カートリッジ単体のコストではインクに軍配が上がるが、職務上さまざまな様式の紙を扱い、大量印刷の機会も少なくない。山形署ではほとんどトナー式に切り替えていることもあり、米沢署内にプリンターが残っていることは賭けでもあった。


「けれど、インクに血を混ぜても大丈夫なんですか?」

「……大丈夫よ。主成分の7割前後は水だもの」


 プリンターから引き抜いた黒インクのカートリッジを前後に揺らし、残量に耳を澄ませたニコラは、よしと頷いてからプリンターに戻した。


「……まあ、あまりにドロドロした血液なら不具合が出るかもしれないけれどね」

「で、出前にサラダなんてあったかしら?」


 からかうような視線と周囲からの笑い声に、喫煙者の英は口笛を吹き、メニュー表を探すふりをしながら逃げる素振りを見せた。

 しかし、彼女が部屋を出ることはできなかった。

 忙しない足音とともに乗り込んできた初老の男が、連れの警官とともに、入り口を塞ぐようにして立ちはだかったからだ。

 その姿に、室内の警官たちの表情がにわかに引き締まり、みな一様に敬礼を送る。


「十三課はいるか?」

「はっ、自分が十三課課長補佐・長南警部補であります、宇津沢うつさわ署長」


 姿勢を正した英にならい、楪も立ち上がる。

 米沢警察署長・宇津沢。上背こそ楪と同じくらいの華奢さであるものの、その堂々たる立ち姿と据わった眼差しからは、確かな威厳の圧がぴりぴりと伝わってくるようだ。


「貴様ら、我が署に何を持ち込んだ?」

「……仰る意味が判りかねますが」

「とぼけるな。署内中のトイレで『トイレの花子さん』が目撃されたと、既に何件もの報告が上がっている」


 その言葉に、楪たちはああ、と苦い顔をした。


「ご安心ください、署長。じきに収まりますので」

「何故そう言い切れる?」

「彼女たちは……その。着替えているだけなのです」

「はあ?」

「ですから。夏の怪談シーズンが終わったことで、慰安旅行に来ていたようでして。我々が急場で応援要請をしたために、バスタオル姿で……」


 事実を述べているのだから毅然と話せもしようものだが、いかんせん、明らかな不信感の刃を突き付けられたような視線の前では、歯切れも悪くなる。

 英の釈明に、宇津沢は額の皺を険しく寄せると、まあいい、と吐き捨てた。


「ならばアレはどう言い訳をする?」


 彼が指を差したのは、今しがた英たちが運んできたプリンターだった。


「言い訳だなんて、それはさすがに――」

「御託はいい。貴様らは『呪物』とやらを作っているそうだな?」

「それは……ですが、これは状況を打破するための『呪物』です」

「御託はいいと言ったはずだ、長南警部補!」


 英の瞳に灯りかけた炎は、鋭い一喝によって消し飛ばされた。

 宇津沢は一人一人、十三課に関わる面々を牽制するように睨みつけてから、おもむろに口を開く。


「漆山紲が凶刃を振るっているという情報は、私の耳にも入っている」

「あれは紛い物です。我々の知る漆山紲とは別物。高清水という女によって作られた、悪しき存在です」

「どう証明する?」

「どう……とは。何をでしょうか」

「すべてだ。彼の容疑者が漆山紲ではないということ、その高清水という女の行為に、貴様ら十三課が加担していないこと。すべてだよ」


 突きつけられた悪魔の証明に、英は言葉に詰まった。それでもどうにか口を開こうとし続けた彼女は、ようやく言の葉を絞り出すことに成功する。


「まず……まず、漆山紲についてですが。彼が二年前、白蛇の件で殉職していることはご存知でしょう」

「だからどうした。我々が無知だと思うなよ? 今回の件、ムカサリ絵馬が関わっているそうじゃないか」

「それは……!」


 思わず英は山王浦の方を見やったが、彼は申し訳なさそうに俯き、じっと頬を強張らせている。

 英も――そして楪も、理解はしていた。彼はただ、そういった情報が出ていることを報告しただけに過ぎない。むしろ、刀を改めた際に信じてくれたことをこそ感謝するべきだろう。

 警察組織という縦社会の中では、山王浦も無力な駒でしかないのだ。

 沈黙したこちらを嘲笑うかのように、宇津沢の雄弁が追い打ちをかける。


「高清水も、貴様の学生時代の担任なのだろう。接点は十分。よって、我々は貴様ら十三課を、要監視対象と判断した」

「……監視とは、具体的にどのような?」

「知れたこと。やれ」


 宇津沢が促すと、傍に控えていた警官が進み出た。彼らは英の手を掴み上げると、手錠をかける。唖然と立ち尽くす英を尻目に、次に彼らは、最も近くにいた芽瑠へと迫り、彼女の手にも手錠をかけた。


「ちょっ……これはどういうことですか!?」

「貴様らを勾留する。なに、関与していないのであれば構うまい?」

「そんなわけには行きません! もう奴らは動き始めています! 事態は一刻を争うんです。邪魔をしないでいただきたい!」

「威勢が良くなったな。焦りが出たか?」


 ほれ見たことかと言わんばかりに、宇津沢は鼻白む。


「我々としても、米沢を守らなければならぬのだよ。市民の前に立った時、背中から飼い犬に噛みつかれてはたまらないのでね」

「飼い犬ですって……?」


 英は頬を引き攣らせた。警察組織内での十三課の扱いなど解かりきっていたことだったが、こうして直接的に言葉を向けられるは稀。否応なしに苛立ちが募る。

 それは楪も同じだった。

 だからこそ楪は、手錠を片手に自分の下までやってきた警察官の顔を、思い切り引っ叩いた。

 室内に乾いた音が響き、空気の緊張感が別の意味に書き換わる。


「こ、公務執行妨害――」


 沸騰する頭でも、取り押さえようと伸びてきた腕はよく見えた。軽く掻い潜り、真っ直ぐに宇津沢へと詰め寄る。

 宇津沢の目の色が変わるが、構うことなく、真っ向から睨み返す。


「何のつもりだ、漆山巡査」

「畏れながら、タマが小さいなあと思いまして」

「……何ィ?」

「だってそうでしょう? 私たちを恐れて首輪を付けたというのに、手錠までかけなければ足りないだなんて。こんな臆病者に守られるなんて、市民がかわいそうです」

「ユズ――漆山、控えなさい」

「いいえ、一歩たりとも譲れません」


 上長の命令であっても、今は聞き入れるわけにはいかなかった。勾留などされようものなら、本当に終わってしまうからだ。


「先ほどから証明証明と仰いますが、では、私たちがそうする動機はなんですか? 山形を、ひいては国を亡ぼすつもりなら、白蛇の時にやっています。アレは妊婦のみが標的でしたから、正直なところ、私たちは安全圏にいたんですよ」

「漆山!」


 英の声に、楪は心の中で頷いた。

 彼女は止めるつもりなど毛頭なかった。口調こそ諫めるものではあるが、本当にそうすべきなら、手錠をかけられた状態でも体当たり等でねじ伏せればいいだけの話。


「対して今回は、いつ何時、どこの誰が標的になるか全く見通しが立ちません。自分たちの身を危険に晒してまで加担する動機は?」


 だからこそ、考える。英は自分に、何を託そうとしている? 何を言わせようとしている?

 そしてそれは『漆山巡査』としてのものなのか、あるいは――


「私たちの潔白を証明する方法が、一つだけあります」

「何だと……?」

「先ほど触れられた『呪物』がそうです。私たちは今、『漆山紲』をここに黄泉返よみがえらせるべく動いております」

「それは知っている! だから彼奴が犯行を――待て、何と言った?」

「お気づきですね。そうです。本物の漆山紲、つまり私の夫は、今から呼ぶんです。紛い物を打倒し、米沢を、山形を、国を、守るために」


 宇津沢の視線が、ついに攻ぎ合いの中心軸から外れた。


「背中から噛みつくだなんてとんでもありません。たる私たちこそが前に出ます。その背中を……いいえ、市民のことを、米沢署の御歴々に守っていただきたいんです! ご賢明な判断を、どうか!」


 そこで楪も一歩引き、頭を下げた。膝に付くくらいに深く、限界まで垂れる。


「く……くふふ、はっはっはっはっは!!」


 不意に轟いた、花火のように豪快な笑い声に、思わず顔を上げる。

 手を叩いて大笑いしているのは、山王浦だった。彼はひとしきり声を出すと、オフィスに集まっている部下たちにぐるりと視線を向ける。


「見たかお前ら。幼い子供連れた若いのが果敢にバケモノに挑むってのに、俺たちがだんまりこいてる訳にはいかねえやな。どうするよ、馬見ヶ崎!」


 急に話を振られ、一度はびくりと跳ねた馬見ヶ崎だったが、すぐに山王浦の視線の意味を汲むと、居住まいを正した。


「自分は山形署で、長南警部補には大変お世話になりました! 今こそ、その恩に報いる時であると考えます!」

「本当にいいのか。お前、最近彼女出来たと言っていただろう。最悪死ぬんだぞ?」

「元よりそのつもりで、自分は警察官に志願しております!」

「言いよるわ。嶋ァ! 大野目ェ! お前たちはどうよ」

「「自分たちも、馬見ヶ崎と同じ思いです!」」


 きびきびと声を揃えた二人に、山王浦は大きく頷いた。


「ようし、これより一課は十三課に付く! だが事情が事情だ、無理強いはしねえ。査定にも響かせないから安心しろ。我こそはというバカだけ声上げろ!」


 山王浦が拳を突き上げると、部屋中の拳がそれに続き、「応」の合唱で署内が揺れた。


「署長。そういう訳なんで、長南らのワッパ外してやってはくれませんか」

「……山王浦。貴官のことは評価していたんだがな。本事案がどうなろうと、貴官の処分だけは免れぬぞ」

「覚悟の上です。私のクビであれば、如何様にでも」


 頭を下げた巨体から慄くようにして後ずさった宇津沢は、勝手にしろと吐き捨てると、踵を返していった。


「山王浦さん、ありがとうございます。でも、どうして……?」

「なあに、俺も紲の坊主とは、ちょっとした縁があってな。むしろ立場上、加勢が遅れてすまなんだ」


 そう言って山王浦は、もこもこと大きい手のひらで、楪の頭をくしゃっと掻き回してくれた。

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