退き口

 旅館一階と二階から、津波のような二段構えの黒波が押し寄せて来る。

 楪は思わず直視したくなるのを堪え、丹田から息を吐き、努めて冷静に腰を据えた。


「(一体一体が大きい分、隙間も大きい……)」


 異形とはいえ、振り回した腕による同士討ちは避けたいのだろう。よくよく意識を研ぎ澄ませて感じれば、気配の間隔は随分とまばらだ。まして、誰が誰を狙うか打ち合わせていないのか、飛び出したはいいものの、その狙いは定まっていないように感じる。

 対してこちらは人間という存在。足場のコンクリートも、道路として考えれば狭くも思えるが、剣道で用いるコートの単位を基準にすれば、むしろ広いくらいだ。

 そして何より――


「ユズ! Phか、野球か!?」


 こちらは襲撃に対するプランを用意している。


「野球で!」


 芽瑠の問いかけに一声で返し、楪は刮目して駆け出した。

 刹那を体の正中線に寄せるように抱き締めつつ、体を翻して、降り注ぐ異形たちの間を縫っていく。


「舌を噛まないようにね、宗貞くん!」


 相森の手首より少し上を掴み、体転換の遠心力を利用して投げ飛ばす。直後に前方から飛び込んできた異形の第二波は、足捌きで交わしつつ前へ。重心を落として頭上への攻撃を躱し、相森へ肉薄すると、彼の体が行き過ぎてしまわないよう、胸倉を掴んで引き寄せる。


「(大丈夫、大丈夫)」


 心の中で、ただそれだけを自分に言い聞かせる。竹刀を持った英の苛烈な攻撃に比べれば、この程度何てことはない。多少自分が傷ついたところで、切り抜けられるならばその程度何てことはない。

 相森を追い越すように駆け抜けつつ、胸倉から肩を撫でるように指を滑らせ、再び彼の腕を取る。

 ここさえ抜ければ――しかし、当然向こうもそう易々とは通してくれない。通りを塞ぐように立ちはだかる駒は用意していたようだ。


「楪さん、前!」

「大丈夫、から!」


 敵は二組――否、二体。楪は構わず、走るスピードを上げた。


「ハナさん!」


 叫ぶ。こちらを迎え撃つように、異形らが唸り声を上げながら、腕を大きく振りかぶる。さらにスピードを上げる。間合いまで残り三、二――異形の腕が振り下ろされる。しかし寸前で、その首の根元辺りが銀の弾丸に撃ち抜かれて弾け飛ぶ。

 松脂のような血飛沫の中を潜り抜けると、楪は相森を押し出した。


「このまま走って! ごめんけど、ここからは私、役立たずになるから! とにかく今は、甲子大黒天へ向かって!」

「わ、わかった!」


 目を白黒させながらも頷いた相森の背中から目を離さないように、楪は足を動かし続けた。






***






「あいつすげえな。ほとんど目は視えていなさそうに思えたが、どうやって避けてんだアレ」


 腕を組んだキズナが、楪が駆け抜けていった方をしげしげと眺めている。


「あっち狙ってみんのも面白そうだ」

「――あら、余所見していていいの?」


 その背中へニコラが声をかけると、すかさず振り返りざまの一閃が返ってきた。

 箒から落ちるようにくるりと半回転をして躱したニコラは、帽子を押さえ、逆さ吊りの態勢のままで、からかうようにキズナへ流し目を送る。


「貴方の相手は私よ、坊や」

「ハッ、俺に一度殺されてる分際で調子に乗んなよクソ魔女。お前しか俺の相手が出来ねえから、こうする道しかなかっただけだろうが」

「ええそう。私でも、貴方の相手は出来るから来たの」

「……あン?」


 顔を顰めるキズナに、ニコラは箒を今一度半回転し「解らない?」と口角を吊り上げた。


「貴方が『漆山紲』じゃないから、私でも太刀打ち出来るって言ってんのよ」


 歯を剥き、見せつけるように中指を立てる。


「さあみんな、この指とまれGrasp this finger&あの棒とめろkill the wooden stick.!」

『『『いえーーい!!』』』


 狂喜の雄叫びとともに現れ、三方から仕掛けてくるメリーたちに、キズナは舌打ちをしながら飛び退った。






***






 一方、芽瑠はもう何体目かの異形を殴り飛ばしながら、肩で息をしている自分に気付き、苛立たしげに首を振った。


「こいつら、やけにタフになってやがる……ハぁナぁ、あっちは?」


 消滅せずに立ち上がろうとする異形を裏拳で今度こそ黙らせ、呼びかける。

 文字通り黒山の人だかりを形成している向こうでは、英が大立ち回りをしながら銀の弾丸のリロードをしているところだった。


「ユズたちが抜けたとこ! ったく、動きづらいったらないわね」

「同感。埒が明かねえですし、ハナは先に車取りに行ってこいですよ」

「芽瑠は? ニコラは上だけど、そっち一人で大丈夫?」

「適当に建物ん中入って戦えば、時間稼ぎにもなるじゃろ。ウチのことは気にすんな!」


 叫ぶように口元に添えた手を、横に振り払って異形へチョップをかまし、芽瑠は手近な旅館の壁際へと駆けた。

 ちょうどそこにあったのは、従業員用の出入り口だろうか、表の自動ドアとは違う、簡素で小さなドアだった。


「そうそう。いいですねえ、おあつらえ向きだ」


 手のひらを擦り合わせ、喜々としてドアを開けた芽瑠は、一瞬、中へ飛び込もうとするのを躊躇した。後方から迫る唸り声でハッと我に返り、異形の金的を蹴り飛ばしてから、再びドアをそうっと開けてみる。

 今度は目が合った。見間違いではないらしい。

 ドアを閉め、腕を組み、首を傾げながら振り返る。


「……そうか、夏休みが終わったから慰安旅行でもしてるんか」

「えー、何て!?」

「何でもねえー! マジで何とかなりそうですから、はよユズたちを迎えに行ってやれ!」


 頷いた英だったが、射撃を続けながら後退したところで、ふと、自分が向かっている駐車場方面への道に、異形がほとんどいないことに気付き、振り返って銃を構えた。


「へえ、気付くんだ。賢いね、あんた」

「……誰だよ、道を開けとけば、ネズミはそっちから喜んで逃げようとするって言ったの」

「君だって乗っただろう」


 口喧嘩をしながら、異形を割いて立ちはだかるのは、ツアースタッフの男と、もう一人、昨夜に見た高校生の少年だった。

 英は、銃口を向けるのをわずかに躊躇いながら、問いかけた。


「君もいたのね。何をしているか解かってここにいるの? もし、居場所がないってことなら、ここは駄目。ここだけは駄目。私たちと一緒に帰りましょう?」


 しかし少年は気だるそうな猫背で、鬱陶しそうに髪を掻き毟る。


「どいつもこいつも、キミ、キミって、うざいんだけど。僕は『お前』でも『ゴミ』でも『クズ』でもなくてさ、館山たてやま省吾しょうごって名前があるんだけど?」

「だったらそれこそ一緒に来て。このままじゃ、本当に容疑者しょうねんAになるわよ」

「なあ婦警さん、俺は大丈夫だよな? 成人してるし。綱木つなぎ涼亮りょうすけっていうんで。ちゃんと覚えてね」


 軟派な口調の男――綱木に、英は半眼で嘆息した。


「バケモノ呼ばわりに胸を痛める割には、婦警って呼び方は使うのね」

「だって、そっちは区別だろ。男性警官と女性警官。ちゃんと警察とは認めてるんだぜ? こういうのに限って、いざ女扱いされないとキレるんだよなあ。都合のいい時だけ子供扱いを求めるガキと同じじゃないか」

「…………」

「あれ、気にしちゃった? でも事実だから仕方ないよな。自覚しとくといいよ。そんなだから、キズナさんにフラれたんだってさ」

「……手を引くつもりがないのなら、ぶっ飛ばしてでも通るわよ?」

「へえ、私情で手を上げるんだ?」


 綱木は肩を竦め、館山と並んで立った。二人の足下からそれぞれ黒泥の渦が巻き、背後霊のように『伴侶』が現れる。


「「『苔の衣を我に貸さなむ』」」


 彼らが和歌の下の句のような呪文を唱え上げると、『伴侶』たちは首にしなだれかかるように覆いかぶさった。触れ合ったところから、溶けるように混ざり合っていき、二つの体が一つに変わっていく。

 半人半異の体の加減を確かめるように手足を回した館山と綱木は、血走った目をギョロギョロと、英を舐め回すように動かした。


『なあ館山クン、どっからやる?』

『とりあえず足じゃない?』


 意見の一致に軽くハイタッチを交わし、重心を落として、今にも飛びかからんとする姿勢を取った。


「(チィ、どうする。どう切り抜ける――)」


 英が歯を食いしばった、その時だった。

 コン、コン、コン。

 格上の狩りを遠巻きに見物する異形たちの喉鳴りだけが聞こえる、ほとんど静寂の夜闇に、壁をノックする音が三回鳴り響く。


「――はーなーこさーん。あっそびーましょー!!」

「「「「「「「「「はーあーいー」」」」」」」」」


 不意に、空が白んだようだった。

 それが、おかっぱ頭の少女たちが一様に胸元に巻いているバスタオルの色だと気が付いた英は、まるで恵の雨にはしゃぐ人のように、笑いながら駆け出した。






***






「もうすぐ大黒天本山だよ」


 凝視していた相森の背中から声をかけられて視線を上げれば、ライトアップされたお堂の回廊が目に入った。

 日本で唯一、弘法大師作の甲子大黒天を奉るという本山。『慈悲のあかり回廊』と名付けられたライトアップの中で、初秋の秋明菊と晩夏の向日葵とが、せめぎ合うように色を混ぜている。

 薄紫と黄色の聖域の向こうには、小槌を掲げる大黒天の像が鎮座している。その向いている方向が、お堂の正面入り口だろう。


「あとちょっと、頑張ろうね。聖域の中なら、あの異形たちは入ってこれないと思うから」


 楪はそう口にしてから、キズナはどうなのだろうと眉をひそめた。ニコラが足止めをしてくれてはいるが、奴なら入ってきかねない。

 唇を噛む。自分たちは紲から教えられたことをベースに、有事の作戦を考えることはできても、その先に一歩踏み出すことはままならない。まるで指示待ち人間の極致のような歯がゆさがあった。


「――あたっ!?」


 角を曲がろうとしたところで、不意に相森が足を止めた。楪は咄嗟に紲那を抱え込んだが、背を丸めたことでつんのめったおでこを強かに打ち付けてしまう。


「宗貞くん……?」

「ごめん。どうやら先回りをされていたみたいだ」


 相森が指示した前方には、佇む二色根の姿があった。


「どうして、ここが……」

「クス、簡単な推察ですよ。Phとは、薬剤師のこと。薬師くすしから転じて『薬師やくし』。野球とは、甲子園を指すのでしょう。読み替えれば『甲子きのえね』。急拵えの隠語にしては上々ですが、逃亡という行動が伴えば、察するに難くありません」


 月明かりに照らされて青白さの増した二色根の顔に、ぎらりと獰猛な眼光が灯る。


「真知さん。やはり、止まってはくれないんですか」

「止まる……? いいえ、古来よりの在り方に立ち返るだけです」


 興奮からか、彼女は肩を大きく動かして息をしていた。


「怪異とは元々、願いを叶える存在。『夜遅くまで起きていてはいけない』『あさましい行動をしてはいけない』。空想上の存在として人々の心に植え付けられ、性善の心を律してきた。怪異の前では誰もが手を合わせ、許しを乞う。これほどまでに、人を感動させた物語があるでしょうか?」

「感動……?」

「ええ。いかな物語に触れて涙しても、ほとんどの人は、己の行動を改めることはありません。それどころか、斯く在るべしと他者に押し付け、批難する材料にする始末。怪談も然り。最早あれらはアトラクションです。判断基準はどう怖いか、どう目新しいかというものばかりで、何故そのような怪異が生まれてしまったかなんてものは、まるで他人事! ならば現実に、身を以て罪を思い知らせる他ないではありませんか!!」


 二色根は髪をおどろに振り乱し、その勢いに自ら振り回されてしまっているかのように、ゆらゆらと、幽鬼の如くゆらめいている。

 下がるまいと拳を握りしめ、相森は叫んだ。


「たとえどんな理由があっても、百鬼夜行なんてものが是にはなりません!」

「自分が道を誤っていることなど、重々承知しております。『苔の衣を我に――」


 何かの呪詛を唱え上げようとして、二色根は咳き込み、蹲った。苦悶の表情で彼女が押さえているのは、口元でも胸でもなく、左の上腕。

 指の隙間から、服に滲んだ血液の色がじわりと浮かび、紅のように彼女の爪を染めていく。


「真知さん!」

「触らないで!!」


 相森が差し伸べた手は、振り払われてしまった。


「触っては、駄目です……貴方と私は、斎垣を隔てた彼方と此方。世界を呪い続けたバケモノに触れてしまっては、宗貞さんの優しい手が、穢れてしまう……」

「穢れるなんて、そんなことあるわけないでしょう」


 相森が一歩近付けば、二色根は怯えたように身を捩らせて一歩退がる。それを三度ほど繰り返したところで、相森は観念したように、一度足を止めた。


「教えてください真知さん。貴女が血を流しているのは、この本のインクに混ぜるためですね」

「……はい。高清水さんはあくまで呼び出す役。誰をどう呼び出すかのオーダーは、私が百物語の一編として綴る必要がありますから」

「血を混ぜる意味は?」

「思念を籠めるためです」

「思念?」

「……バケモノだって、温もりが欲しい夜があるんです」


 決して知られたくない秘密を白状するように、ニ色根は震る声で言う。

 その小さな肩に、相森は、「わかりました」と頷いた。


「やはり僕は、貴女を連れて帰ります」

「……駄目です」

「解っています。どんな事情があったとしても、袖触れあった高清水たちを、真知さんが裏切れないことも」

「…………」

「だから、もう少しだけ時間をください。貴女を苛む『斎垣』を壊すための術を、用意する時間を」


 そう言って、相森は楪の方へ目配せをしてきた。

 考えていることは同じだと、楪も頷いて返す。

 二色根は酷く困惑したように目を見開いた。


「……無理ですよ。もうすぐ百鬼夜行は完成します。それに、そちらで最も力を持つ魔女も、ウルシヤマさんに倒されたのでしょう? どうやって……」

「もう一人。いるんですよ」


 楪は、二色根を宥めるように微笑みを向けた。

 どうにか彼の代わりになれないかと模索したが、徒労だった。それもそのはず。彼は唯一無二で、自分もまた、唯一無二なのだから。

 であれば、自分の成すべきことはただ一つ。

 漆山楪として、道を繋ぐことだけだ。


「本物の漆山紲を、呼びます」

「――――っ」


 大きく見開かれた瞳が、月から一掬の光の雫を落とされたかのように、その表面を揺らす。


 そこへ、けたたましくアクセルを蒸して、英の愛車が滑り込んできた。


「二人とも、乗って!」


 急ブレーキからのドリフトによって車体の向きが反転する。後部座席のドアが開き、その遠心力に乗るようにして、数珠繋ぎになったおかっぱ頭の女児たちが飛び出してきた。


「花子さん!! 宗貞くん、こっちへ!」

「うん。――真知さん、また来ます。貴女を救い出すために、必ず!」


 車へ乗り込んでからも、相森は、立ち尽くす二色根から目を離さなかった。

 俯く彼女の表情が、闇に紛れて見えなくなってしまうまで。

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