第三部【乞待ノ百喪語】

プロローグ

――約二年前。山形市某所。


 それは、とても数奇な運命ぐうぜんでした。


 彼を失ってから、私は、耐えきれずに山形の地を飛び出しました。

 生まれ故郷だったわけでもありませんでしたから、別段未練などはありませんでした。

 そうして私は、誰かの求める姿に擬態し、この星空の下の片隅で、ひっそりと生きながらえていました。

 面の皮を厚くして心を殺し、化けの皮を被って手招き、猫を被って抱かれる。


 ええ、きっと幸せだったのだと思います。……普通の人ならば。

 私が満たされることはありませんでした。だって、世の男性たちはみいんな、私を女として求めるんですもの。


 己の欲しい時に飯を作り、目に障らぬよう家事をこなしてみせる女。

 己を誇りたい時に、閨で慎ましやかに受け止めてくれる女。

 己が折れそうになった時に、優しく手を添え、耳を傾けてくれる女。


 彼らの悩みの種といえば、他人と自分を天秤にかけた時の不幸の傾き具合だけ。


 ほんとうの不幸に縛られた者は、皿に上ることさえできないことを、知らないのです。

 ほんとうの不幸に囚われた者は、他者の幸福ばかり願うことを、知らないのです。


 十年ほどが経ったでしょうか。奇しくも私は、山形の地へ出戻りすることとなりました。それも、かつて勤めていた、あの学校に。

 けれどそこにはもう、彼はいません。私を女としてではなく、ひとつの魂として見てくれた彼は、いません。試しに屋上の扉を引いてみましたが、鍵がかけられていました。


 いっそのこと、後を追ってしまおうか。そう思ったこともあります。

 歓迎会の場で、いつもより五割増しの酒を呷りました。けれど吐くばかりで、私の体はちっとも倒れてくれません。


 仕方がないので、帰り道のコンビニで、酔い覚まし用の水と、手首を切るためのカッターナイフを購入しました。客の購入物に対して等しく無関心でいてくれる店員の態度が目に染みました。男性の方でしたら、酔いに任せてぐらついていたかもしれません。

 店員が女性で良かった。そう思ったのは、それから十分ほどよたよたと千鳥足で進んだ頃でした。


 一軒の民家の前に、御霊燈がかけられていたんです。


 先んじて死なれたような気がして、嫉妬心が首をもたげました。

 通夜でしょうか。葬儀でしょうか。いずれにせよ、あまり人の出入りのない様子のこぢんまりとしたものに見受けられました。しかしどうやら、寄る辺の少ない孤独者というわけでもないようです。軒先に駐められた車がやけに良いものだったことに興味を惹かれました。


 ちょうど玄関から、人が談笑しながら連れ立って出てきて、片方の方が煙草に火を点けました。

 私は思わず塀の陰に隠れて様子を窺いました。


「ん? なあハナ、銘柄変えたです?」

「紲くんが吸ってたピースよ。余ってたからって、さっき楪ちゃんから貰ったの」

「ほーん」


 聞こえてきた声に、私は呼吸が止まりそうになりました。酔いの影響も後押しして、全身に脂汗がびっしりと浮いたのが分かりました。

 コンビニの袋からペットボトルの水を取り出し、震える手でキャップを開けようとしたところで、家の方から、縁側の窓が開けられる音がしました。


「……一本吸ってみたら? こういう生業の家なのだし、モドキにはなるわよ」

「ヤニに御利益ぅ? ハナ、火ィ」

「はいはい。あ、楪ちゃんはダメね。まだ十九でしょう?」

「そんなあ。お神酒は未成年でも飲めるじゃないですか!」


 ぱたぱたと子犬のように駆けてきた女の子が、やだやだと煙草のケースに手を伸ばしています。

 彼女は知らない顔でした。ですがあのような青い果実では、気に留めなくても良いでしょう。


 その小娘を腕のつっかえ棒で押し止めている女性にも覚えはありません。ただ、見た目こそ人形ドールのようでも、中身が何歳か判ったものじゃない若作り。怖気がします。


 はじめに出てきた二人は、懐かしい顔でした。忘れもしません。約十年前、三年の間ほぼ毎日のように見ていたのですから。


 先に煙草を吸い始めた長身の女性が、長南おさなみはなぶささん。正義感が強く、警察官志望だった生徒。『彼』とは、剣道部として接点がありました。


 もう一人の小柄な女性が行才ぎょうさい芽瑠めるさん。当時ローカルアイドルとして活動をしていた彼女を狙った殺傷事件を機に、『彼』と強く接点を持ち始めた生徒。彼女の言葉に『医者』とありましたから、希望進路は叶ったのでしょう。


 もっとも二人とも、彼に袖にされ続けておりましたが。


「でも私、初めて紲さんとお会いした時、魔除けにってタバコをもらいましたよ?」

「……ニコチンもタールも入っていない呪具でしょ」

「ああ言えばこう言うー! 私だって紲さんの遺品にあやかりたいんですよう!」

「わぁーったわぁーった、一口含むだけぞ?」

「わーい! ……げほっ、げほっ!? 何でずがごれ。全然美味しくない……っ」


 涙目になった小娘に、長南さんたちは笑い声を上げました。


 私も嬉しくなって、ほっぺたを持ち上げました。なんということでしょう。こんなにも素敵な夜があったでしょうか。


 屋上での逢瀬を重ねること、九十九度。あの夏、彼の住む里が大変な事態に見舞われたという話を最後に、百度目が訪れることはありませんでした。

 まるで深草少将のように。

 もう、望みはないとばかり思っていたのに。


――私だって紲さんの遺品にあやかりたいんですよう!


 嗚呼、彼がなんて!!


「(あなめ、あなめ……)」


 夜風が目に沁みます。夏の気だるい温度が、瞳から零れる水分をドライヤーのように乾かしてしまいます。

 私はひくひくと打ち震える背筋を堪えながら、叫びたくなるのを堪えて走り出しました。走りながら、ピアスを外しました。

 他の男のために見せるものなんて、最早何一つとして不要です。お洒落なネイルチップも全部外して、空のペットボトルと未開封のカッターナイフごと、お気に入りのブランドバッグに押し込んで、居酒屋の裏のゴミ箱に捨てました。


 ああそうだ、帰ったら、髪の色も戻さなければ。彼が似合うと言ってくれた、あの頃と同じダークブラウンに。


「クス……やっと一緒になれるね、漆山クン」


 花の色は 移りにけりな いたづらに。


 彼は今の私を、愛してくれるかしら。

 でも大丈夫、ちゃあんと解ってるよ。

 私には貴方しかいないように、貴方には私しかいないもの。


「待たせてしまって、ごめんなさい」


 私が未熟だったせいで、貴方は、一族のことについて何も解っていない小娘たちに見送られる羽目になってしまった。

 おいたわしや、漆山クン。カアイソウ。カアイソウ。


 けれど私、あれから沢山勉強したの。ほら、勉強なら得意だから。知っているでしょう?


 だから、今度こそ――


「私が、貴方の還る場所に成ってあげるからね」


 貴方の苦しみを解ってあげられるのは、私だけなのだから。

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