第一章 女郎ノ鎌

御廟楪

「――旦那様。旦那様」


 品のある優しげな声に揺られ、紲はまどろみから意識をもたげた。わずかながら潤んだ瞳には、差し込む夕日の照り返しでさえ、いやに染みる。


「……おヤチか。眠っていたらしい。今、時間は」

「十七時半でございます」

「なんだ、十分程度か。にしては、随分永く眠らされていた気分だが」

「お加減が優れませんか? 随分とうなされていたようですが」


 くりっとした猫目が、こちらを覗き込んでくる。ほんのりと、梅の花の香りがした。小紋の柄に合わせたのだろう。

 彼女は縁あって、紲の探偵事務所の秘書兼台所番をしている。


「問題ない。少し、夢を見ていただけだ」


 目を擦った指で、眉間を揉む。頭は随分とクリアだが、気分は鬱陶しく淀んだままだ。


 夢というものは元来、記憶の整理の過程で生じた脳の短期記憶領域に意識という名の探偵がふらっと立ち寄り、雑多な倉庫の中を見て導き出した『仮想めいすいり』とやらを見せつけられる代物である。もっとも、稀に外因的要素の侵蝕――『呪い』の類も存在するが。

 三文芝居というだけで癪だというのに、六年前に起きたことをそのままただ見せつけられるなど気が滅入る。せめて吟遊詩人のように手拍子のできる韻の一つでも付けて欲しいものだ。


「我ながら、融通の利かない意識ホームズ様だこって」

「お薬は如何致しましょう」

「構わん。慣れたさ」


 汗ばんだシャツを無造作に脱ぎ捨て、おヤチから受け取った着替えに袖を通す。


「先ほど、お客様が目を覚まされました」

「そうか。体力的に平気そうなら、居間に来てもらってくれ。話が聞きたい」


 申しつけると、おヤチは微笑みと梅の香を残して退室した。

 紲は着替えを済ませると、深呼吸を一つしてから、応接室を兼ねている居間へと向かった。

 灰皿を出して煙草に火を点ける。部屋の隅では、誰かが飲んでいたのだろうか、コーヒーメーカーに中身が残っていた。

 ジャグに軽く手の甲を触れる。まだ温かい。


 茶箪笥からコーヒーカップを取り出していると、襖が開いた。


「お客様をお連れ致しました――って、旦那様! もう少しお待ちいただければ、サイフォンで淹れたものをお持ちしましたのに」

「ああ、悪い。ヨジロウ辺りが淹れていたものが目についてな。それなら、お前が用意してくれたものは客人と、俺のお代わりとして頂くことにするよ」

「ふふっ、かしこまりました」


 おヤチが相好を崩して立ち去ると、おずおずと顔を覗かせる少女が残った。


「し、失礼します……」


 昨夜保護した少女は、こうして明かりの下で見ると、随分と顔立ちが整っていることがわかる。艶やかな長い黒髪に、薄色の桜の花を思わせるような肌の白さが際立っていた。


「疲れているところすまないな」

「いえ……その、先ほどの方から伺いました。貴方が夜通し看ていてくださったと」

「いいや、世話をしていたのはあいつだよ。俺は職業柄、監視していただけだ」

「そう……ですか。それでも、ありがとうございます」


 少女は寂しそうな声色で、くゆる煙草の煙を見つめていた。


「ああ、すまない。拙かったか?」

「いいえ、お構いなく。父も煙草を呑む人でしたから」


 そう言ってはにかむ彼女に、紲は目を細める。

 過去形。件のマンションでの様子で見当はついていたが、無理につつくこともあるまい。


「そうか。適当に座ってくれ、楽な姿勢でいい」


 温いコーヒーを呷りながら促す。そろそろ、寝ぼけた頭も醒めてきたか。

 少女はほうっと安堵したように、髪を手櫛で整えてから居間に入ってきた。座布団をあごで示しても、楚々と会釈をするだけで、座らずに立っている。

 礼儀正しい様子に感心しながら、紲は煙草の煙を部屋の隅に吹きかけた。


「ええと、それは何を?」

「ちょっとした魔除けおまじないだよ。この家も聖域になってはいるが、それでも時には、話に引き寄せられて顔を出したくなっちまう輩もいてな。この煙で声を隠してしまおうってわけだ」

「はあ……」


 ぽかーんと開いた口に、思わず笑いそうになる。

 紲は彼女の視線を引き連れたまま、部屋の四隅へと煙を吹いていった。

 簡易儀式を終えて座布団に腰を下ろすと、同じように視線を落とした少女が「ぴぇっ」と小さな悲鳴を上げた。


「あの、あのあのあの!」

「どうした」

「そ、そちらのお人形さん、先ほどは壁際にいらっしゃったと思うのですが!?」


 彼女はスカートの裾をひしと摘まんで震えていた。


 煙草を揉み消しながら視線の先を辿って振り返れば、なるほど確かに、飾られていた日本人形たちから一体、雛人形の御内裏様がはぐれている。両手を拡げ、少女を迎えるように微笑むその表情は、品評では『京風の顔立ち』といわれるのだそうな。


 今となっては慣れた光景だったが、なまじこの家がどんな場所か察してきただろう少女には、殊更刺激が強いのかもしれない。


「おーおー、随分動いたな」

「動いたっ!?」

「そいつは特別やんちゃでな。除霊を拒否した理由が『もっと遊びたいから』。笑えるだろ」

「ええもう、膝ならがくがくと!」

「こいつは木目込人形の正統伝承者・金林真多呂から続く真多呂またろ人形でな、江戸時代初期に使われ、今もなお山形の伝統として残る寛永雛だ。雅やかだろう。リ〇ちゃん人形のように、気軽に『マタちゃん』と呼んでやってくれ」

「マタちゃん!?」

「ほら、お呼びだぞ、マタ。お客様だ、挨拶しろ」

「けけけ決してお呼びではございませんからっ!」


 少女の震える声が届いたか――いや、この場合は届かなかったというべきか――のように、マタちゃんはその場でくるりと振り仰ぎ、手毬を持ち上げて見せた。

 しかし、それも一瞬のことで。瞬きの間に元のポーズに戻っている。向いている方向さえ、元のままだ。


「今っ、動きっ、ましたっ!」

「はっはっは、ンなわけねえだろ。木目込なんだぞ。関節駆動はしねえよ。テメエも返事をしてやれ」

「あはい。私、御廟ごびょうゆずりはと申します。――ではなくって! 確かに毬をすいーっと上に掲げられましてですね!?」


 息を吸う余裕もなく捲し立てた楪は、ぜいぜいと肩で息をしてから、はたと唇に指を当てて考え込んだ。忙しない女である。こちらが目を回しそうだ。


「あれっ? 私がどう動いたかお話する前に『関節駆動』と仰って……いえ、そもそも『随分動いた』とか『やんちゃ』とも」


 紲は口角をつり上げた。なかなかどうして、頭は冷静に回るらしい。


 コーヒーと菓子を運んできたおヤチから「女の子をいじめてはなりませんよ」と苦言を呈されたが、肩を竦めていなす。普段は沈んでいるか逼迫した表情の人間しか訪れないのだ。打てば響いてくれる鐘など、放置する方が罰当たりというものだろう。

 ただ緊張をほぐしてやっているだけなのだ。表向きは、だが。


 ころころと変わる楪の思案顔を茶請けに、紲はコーヒーを啜った。やはり、おヤチの淹れたコーヒーは格別に香りがいい。

 しばらくして、楪は座布団にちょこんと正座し、涙目を向けてきた。


「もうっ、やっぱり動いたんじゃありませんか!」

「正解だ。ハナマルをやろう」

「意地悪な人です……」


 風船のように膨らませた頬が、ふと、はじけた。


「それでは、こちらのお人形さんたちも……?」

「いや、こいつらは殆ど動かん。せいぜい髪が伸びるくらいだな」

「十分です! もしかしなくとも、呪いの人形というものでは!?」

「まあ、赤い服を着せている限り、害はないから安心してくれ」


 真多呂人形を元の位置に戻し――ついでに軽く小突いておいてから――、席に戻る。

 楪は居住まいを正し、小首を傾げた。


「そういえば、呪いの人ぎょ……お呪いのお人形さんは、赤い和服のイメージがありますね。それは何故なのですか?」

「古来より、赤には邪気を払う力があるとかないとか。鳥居なんかもそうだろう。もっともこいつらは、払いきれてねえから呪いの人形としてここにいるんだが」

「効果があるのかないのか、はっきりしてくださいようっ!」


 今にも涙が溢れそうだった。


「はっきりしろと言われてもなー……」


 コーヒーの湯気を追うように天井を見上げ、息を吐く。


「海や虹の色みたいなもんだ。楪と言ったな。お前は海が何色か知っているか」

「海は、確か……無色透明、ですよね。青く見えているのは光の反射だったはずです」

「その通り。それなら、この呪いの人形たちを鎮める方法が仮に『海の色を纏うこと』だったとしよう。ビニールの雨合羽でも着せておくか? 朱色ではない、たとえば石の鳥居なんかは、魔除けの結界としての効力がないのだろうか?」

「それは……」

「次に虹の色。現代日本では一般的に七色として認識されているが、アジア地域はかつて五色や八色とばらばらだったし、海外でも宗教的な変化を除けば、現代でも六色がスタンダード。アフリカなんかは今でも二、三色と捉えている国もある」


 さて、とソーサーにカップを置く。


「どれが真実だろうな?」

「つまり、『赤には邪気を払う力がある』と信じることが大切、と?」

「もっとも、それさえ正しいかも判らんよ。生ける屍という概念を知らない人間の悪夢には、幽霊や怪物の類が出てきてもゾンビは登場しないように。『お化けなんてないさ』という発想すらない無垢な少年の前では、ポルターガイストさえ風のいたずら、世は事も無し、だからな」

「ですが、こうして実際に呪いの人形は存在しているのでしょう」

「俺たちがそう呼んでいるだけで、別に呪いでもなんでもなく、神羅万象の一摂理、という可能性だってあるさ」


 一般的に有名なのは、髪が伸びるという『お菊人形』だろうか。あれに関しても、人形へ髪を結わう方式や入り込んだ虫に因って、年月を経て結び目が緩くなり、髪が伸びたように見えるだけだという科学的な説が唱えられているという。現在は供養を引き受けている寺の意向により、真偽の調査はなされていないが。


 紲自身は、どちらでもいいと考えていた。正確に言えば『どちらの、あるいは両方の可能性もあるのだから、「お菊人形」がどうであっても構わない』ということである。

 まして、我が家のマタのように、ただ遊びたいというだけの存在もいるのだ。それを呪いと称することは果たして適当なのか。何か人知を外れたモノを見ればすべからく『呪い』と決めつけてしまう人間たちの思考こそ、呪わしきものではないだろうか。


 ……いや、詮無いことか。

 鼻で笑って、紲は二本目の煙草に手を伸ばした。


「ちなみに、その奥のお部屋にもお人形が?」


 楪が、人形たちの先にある部屋を指す。


「ああ。呪いそのものではなく、他者の呪いを受けた、だがな」

「ひっ……」


 息を呑む音に、紲はにい、と口角を吊り上げた。


「よし怖いな? 怖かったろう? よし帰れ、さあ帰れ。丸一日ぐったりしてたんだ。お家に帰って、ゆっくり休め。そしてもう忘れろ」


 手を払う。背後から『家具のぶっ壊れた家で休めとか鬼畜っすか』という茶化しの声が聞こえたが、無視する。知らん。リビング以外は被害なしと報告を受けているのだ。


 見たところ、楪の顔色は悪いとはいえ生者のもの。体に染みつくような死臭もないから、あの首無し男の影響はなくなったと考えていい。今も、煙草の煙を纏わせたのだ、このまま帰って布団にもぐり、これ以上関わらずに過ごせば問題ないだろう。

 紲はそう見立てていた。


 しかし、楪は俯き、唇を引き結んで、じっと動かない。


「私は……まだ帰れません」

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