安隆寺坊主
山形警察署から大学病院までは近い。検察の肩書まで追加する気かと呆れられたが、一報を入れてから程なくして芽瑠が駆け付けてくれた。
彼女は血だまりを堰き止める雑巾やモップの先で囲まれた若宮を見るなり、すぐに腰を低くして手を合わせる。
「何が一体どうなりゃこうなるですか。口に発破突っ込んで自爆テロでもやったんか?」
「呪われたんだよ。彼が片棒担がされていた宗教は、語るべからず聞くべからずの首輪を付けられていたらしい」
「難儀ですねえ……」
帽子の上から髪をむしり、改めて遺体に近づく。頚の断面に指を突っ込んでみたり、腕を付け根から動かしてみたり、シャツのボタンを外して中を覗いてみたりと、行ったり来たりした後、大きく一息を吐いて振り返った。
「普通の遺体ですね。奥さんの方のような身体の変化はないです。
「念のため、頼む」
シートの上に擦り付けるように下足袋を脱ぎながら、芽瑠は引き連れていた救急隊員に「DWI」と告げて遺体を運ばせた。彼らとすれ違うようにやって来た清掃業者は吾妻に任せて、紲たちは部屋を出た。
「ヤバいんか」
歩き出そうとした背中を引き留められる。その声色がグラスハープの音色のように切なく揺れていることに、紲は押し黙った。
「何とかなるだろ。俺だぞ?」
「……信じるですよ。次にウチらの前から消えたら承知せんぞ?」
真剣な眼差しで突き出された握り拳に、笑って拳を突き返す。生憎と根拠はなかったが、そう在りたいという願いに偽りはない。
ロビーの方へ出ると、窓の外を眺めて缶コーヒーに口をつけている美女二人がいた。外部の人間の大移動を伴うただならぬ雰囲気に、今はさしものナンパ野郎たちも遠巻きに様子を窺っている。
「平気か?」
訊ねると、楪が赤くなった目を上げた。
「大丈夫です。凄惨なものは、これまでにも見たことがありますし」
「嘘吐け。ブラックなんて飲めねえだろお前」
自販機から適当に甘そうないちごミルクを買い、プルタブを空けて楪の手のものと取り替える。その開いた腕の中に、彼女が顔を埋めて来た。
「……少しだけ、いいですか」
「ああ」
迎え入れると、彼女は熱を確かめるようにぐりぐりと頬を擦り、何度か深呼吸をしてから顔を上げた。
「ふふっ、汗臭いですね」
「没収だ」
「あっ、ああー!」
いちごミルクを取り上げると、今にも泣きだしそうな子供の顔で追い縋られた。強くなったかと思えば、こういうところは相変わらずである。そういえば初めて対面した時も、茶菓子を前にそわそわとしていたか。
長椅子に腰を下ろす。缶を返すと、楪は宝物でも扱うように身を縮めて抱え込んだ。いや飲めよと頬をむにっておく。
「データベースで検索をかけてみたけれど、安隆寺伊佐雄でヒットするものがなかったわ」
芽瑠の分の微糖コーヒーを放り、英が肩甲骨周りのストレッチをしながら言った。
「犯罪歴どころか、運転免許の情報もまったくナシ。同名の人物もいないわ」
「戒名だからだろうな。もっとも、得度は受けていないだろうが」
一部宗派では、度牒と呼ばれる国家公認で交付される僧尼の身分証があり、それに即して戸籍上の名前そのものを変更するところもある。あるいは一つの名前を一般社会では訓読み、音読みで戒名として用いる場合もある。だがそれも百人百様であるし、まして奴のようにそもそもの出自が怪しい場合は意味がない。
初耳の芽瑠と、若宮との会話の中でさわりしか聞いていない英に、紲は昨日と今日で知り得たことを共有した。
「とんでもないわね。鶴岡の城の白蛇伝説だっけ? 異形の要素として持ち出されるだなんて、彼女たちも可哀そうに」
「子供の永久の幸せを願った心が悪用されれば、未来を閉じ込める檻に早変わりですか。とんでもねえな」
風呂上がりの一杯を飲むようにコーヒーを煽った芽瑠に、紲たちは目を瞬かせた。首を下ろしたところで自分に向けられた視線に気づいた彼女が、気味悪そうに身じろぎする。
「なんぞ……ウチ、何か言ったですか? 未来を閉じ込める檻がどうこうって話をしたのはそっちだべ」
「いや、その前よ。子供の幸せを願った心って方」
「白蛇の民話のことを言ってるんだよな?」
芽瑠は意外そうに目を丸くして、ぎこちなく頷いた。
「ですです。んなもん、野郎が死んで、残った女が考えることと言ったら子供しかねえですよ。ウチんとこにかかる患者にも、自分はどうなってもいいから子供だけはどうか無事に取り上げてくれと願う人は少なくないです」
「成程……いづめこ人形とはそこで繋がるのか」
「しっかりしろや健常者。石女のウチが最初に気付いてどーするですか」
煽り文句とともに、空き缶の底で額を小突かれた。そのままぐりぐりと押し込んでくる手から恭しく缶を頂戴し、謹んでゴミ箱に捨てさせていただく。
「で、道は見えたです?」
「いいや、まったく」
大蛇に託して子供を守ろうとした母の意思。子を健やかに育もうとした人々の意思。若宮の話では、安隆寺も難産の問題を抱えた妊婦に声をかけていたらしい。これだけでは、伝承の何を悪用したのかが見えてこないのだ。
謎が鮮明になる一方、その全容が純黒であるということが解かっただけである。光すら吸い込む闇の、どこへ棒を突き入れれば蛇が出てくるのだろうか。
「安隆寺というお寺を探してみる?」
「無駄だろうな。現代日本で知られる安隆寺ってのは、新潟の佐渡にある寺院だ。だが、山形において『安隆寺の坊主』といやあ、怪談なんだよ」
自分の缶も捨て、紲は壁にもたれかかって指を立て、語り出した。
かつて最上川の河口付近に、体長十二~三間――つまり約二十三m程の体躯を持つ黒いクジラが打ち上がった。その背中には大きく『安隆寺』という文字があり、腹の中からは僧侶のものとみられる体の一部や仏具が発見されたという。
「その怪談では、安隆寺は酒田にあった一向宗の寺とされているがな。要は、悪しきものを蛇や竜に喩えるのと同じだ。当時の船の難破事故が大きかったから、その破戒僧が化生となって喰らったからということになった話だな」
「その話を知っていて安隆寺と名乗っているのだとしたら、笑えない冗談ね」
英が歯ぎしりをする。紲はその肩を軽く叩いた。彼女の正義感は時々感心するくらいだが、あまり肩肘に力が入り過ぎるのも考え物である。だから肩が凝るのだ。
「神を止められるか、か……」
若宮の言葉を反芻する。彼に罰が下されたということは、安隆寺にとって語られたくないものはウメヅ様の真名だということになる。
問題は、それをどうやって調べるか。調べた上で、それをどう生かせばいいのか。
そんなことを考えていると、撤収をする清掃業者が通りがかった。状況が状況である、同情したくなるような沈んだ面持ちで、粛々と頭を下げていく彼らに礼を返す。
その後ろから吾妻もやってきた。
「ファイルやソファなんかは買い換えなければならないけれど、概ね元通りになったよ」
「お疲れさまでした。どうせろくに計上できないでしょうから、私も出します」
「そこは私が出すって言ってやれよ。しゃーねえ、俺からも出すぜ父っつぁん」
楪と紲の申し出に、吾妻は困ったように手を振った。
「いい、いいよ。僕が出すから、二人は気にしないでくれ」
「「どうぞどうぞ」」
「ええー……あはは、これはしてやられたなあ」
吾妻がハゲの進行した額をぺちんと叩く。そんな彼に、紲は英とアイコンタクトをとって頷いた。せっかくだ、課長の椅子も良いものにしてやろう。
「そうだ、若宮さんのご遺族と連絡も取れたよ。検死が終わったら改めて連絡してくれとのことだ」
「かしこまりです。今日は何件かMRIの予約があったはずですから、その後にはなりますが、明朝には警察に引き渡せるですよ」
「いつもありがとう、行才さん」
腹を丸めて頭を下げる好々爺に、芽瑠が「どこぞのドグサレもこのくらい腰が低けりゃなー」などと視線を送ってくるが、紲は知らんふりを貫き通した。
「悪かったな、脚が長くて」
「おう、整形外科に予約入れとくですから骨削ってもらってこい」
「フザケロ」
喫煙所にでもフケてやろうかとジャケットの内側をまさぐったところで、不意に、誰かの腹の虫が盛大に鳴いた。
「……ええと、そのう。ごめんなさいぃ」
顔を赤らめた楪が、おずおずと自己申告をする。
「そういえば昼飯を食ってなかったな。羽黒山の駐車場ンとこにあった蕎麦屋でも寄っておくべきだったか」
「頭ぶっ飛んだ仏さん見ておいて、剛毅な腹ですねェ。気に入った、ウチが奢っちゃる。肉でもいいです?」
「おい待てコラ」
不謹慎にもとれるあくどいしたり顔を獲っ捕まえると、芽瑠は遺憾の意と不満のフを露わにした。
「別に構わんべや。庄内との往復も疲れるでしょうし、正体不明の奴さんをしばくためにも精付けた方がいいですよ」
「それはそうなんだが……お前は平気か?」
「私は別に、構いませんが……?」
何を心配されているのか分かっていないという楪に、芽瑠がドヤ顔を向けてくる。
そこで、吾妻が手の平を打った。
「部屋を換気させておきたいし、いっそ外でバーベキューにしようか。僕の家にコンロも炭もあるから、取ってくるよ」
「そんな、いいんですか。それなら、良かったら吾妻課長の奥様とお子さんも是非に」
「ありがとう長南くん、けれど大丈夫だよ」
一瞬だけ、吾妻の目が遠くを映した。その哀愁に、英はそれ以上踏み込むことをしなかった。やはり彼は苦労人である。
「少し時間がかかるから、その間に、みんなはお風呂にでも入っておいで」
「お、いいな。入ってみたかったんだ署内の風呂」
「テメエは買い出しじゃボケ」
芽瑠にベルトをひっ掴まれ、紲は回れ右をさせられてしまった。
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