教外別伝
ぶくぶくと泡の出るリラクゼーションバスに仰向けで並びながら、誰からともなく、ぐへあーっとおじさんのような歓喜の声を上げた。後頭部には冷却管の通った水枕があって、火照った首筋から頭に向かう血流を心地よくしてくれる。頭寒足熱ならぬ、頭寒首から下熱である。
「こちらに来て正解でしたねえ」
「署の大浴場じゃあ味気ないからねえ」
「まあ、ちっと向こうにも入ってみたいって気持ちはあったですけどね」
「あ、わかります。こういう縁でもないと、部外者は入ることができませんからね」
湯煙にとろんと反響した自分の声がちょっぴり可笑しくなって、楪は笑いそうになるのを誤魔化すように、一度湯に鼻先まで埋めた。六根清浄、六根清浄。
楪たちは、山形警察署の道路向かい、コンビニの裏にあるスーパー銭湯にまで足を運んでいた。署内には学校の合宿所にあるような中浴場しかないのだから、どうせならばと英が提案してくれたのだ。
「小さいお風呂になるけれど、入る方法ならあるわよ?」
「マ?」
「ええ。罪を犯して勾留されれば、場合によっては」
「人生棒に振った挙句にガチャ引かんとあかんのか」
それは勘弁だと、芽瑠が一笑に付した。
そしてまた、浴場におじさんの呻き声が響く。まだ仕事中なのか、他の客は片手で数えるほどしかいない。いるのも妙齢の方ばかりで、ジェット付き浴槽は貸し切り状態だった。
「そういえばお二人って、紲さんと同級生だったんですよね。紲さん、高校時代はどんな感じだったんですか?」
「今とそんな変わらんぞ、あのドグサレは」
芽瑠が即答した。
「ただ、昔の方が無口だったですかねえ」
「えっ、あの紲さんが?」
「あの頃はまだ、中谷のお里に住んでいたから。あまり積極的に友達を作ろうとしている感じではなかったわね」
「琴葉とも学校が別だったですし、寂しかったんだべ」
「それはありそう」
制服姿の紲を想像してみたけれど、どうもピントが合わなかった。
「あの、制服はブレザーでしたか、学ランでしたか?」
「男子も女子も紺のブレザーよ。シャツは薄い青ね」
「似合わない……っ!」
脳内で合成した画像に、楪は目をぎゅっと瞑って肩を震わせた。そもそも、あの人が机に座って座学を受けているイメージが湧かない。
「卒業アルバムの写真とか、あります?」
訊ねると、
「それが……ないのよ。例の里の件があったのが、三年の夏だったから」
「他の写真もねえんですよね。修学旅行のカメラからも徹底的に逃げてたですし」
ああ、と楪は天井を見上げた。自分が姉を失ったあの事件も、年端としては同じ頃。最期に再会できた分だいぶ持ち堪えることができたが、今でも時折夢に見て、飛び起きては生を確認することがある。なまじまだ視力のはっきりしていた頃に見たものだから、記憶に焼き付いた映像は、ずっと鮮明に苛んでくる。そんな夜は、紲の部屋にこっそり忍び込んで、彼の腕を枕にしないと眠れない。
そんな思いを、里の人分だけ抱えているなんて。どれほど辛かっただろうか。訊ねてみてもきっと、彼は笑って、私の頭をあやすように撫でて誤魔化すのだろうけれど。
「ちなみに、芽瑠が紲くんをドグサレと呼ぶのはそれからね」
「そりゃあドグサレですからね。夏休み中に音信不通になったかと思えば、ウチらの前から黙って消えよってからに、あのドグサレ」
「あんたが一番心配してたもんねえ」
「してねーしぃ?」
語尾を大袈裟なほどにしゃくれさせて、芽瑠が歯を剥いた。
「ああ……紲さんらしい。人が大変な時はすぐに来てくれるくせに、自分のこととなるとすぐ隠そうとするんですよね」
今年の年明けにも、熱が出てふらふらになっているのを痩せ我慢して、自分を米沢の雪まつりに連れて行こうとしたことがあった。生憎と、こちとら猫のように、ご主人様がやってくる足音を記憶しているのだ。ばっちり見抜いて、お説教をしてやりましたとも。
「でも、ぼっちしてた紲さんとは、どう仲良くなったんですか?」
「私は剣道部繋がりね。うちの顧問の先生、剣道だけでなく『剣術』も修めていた方だったから、その話を聞いて来たみたい」
「一方うちに弓道部がなかったために、愛しの琴葉嬢と引き裂かれた哀れなロミオですよ」
「まだ拗ねてるの?」
「拗ねてねーしぃ?」
頭の上で飛び交う火花に悪意はなかった。似た者同士である。
「芽瑠さんは?」
「げ、やっぱウチも話さんとダメですか……」
「ぜひぜひ」
ねだると、芽瑠は『あ』から『お』まで順番に呻いてから、「ちょいとグロいぞ?」と前置きして、話し始めた。
「高一ン時でしたかね。ウチは当時、『つや姫』っていうローカルアイドルをやってたですよ」
「あ、だからめるるん……」
「次呼んだら
楪の眼前にチョキを翳して、切る真似をして見せた。
「つってもまあ、別にアイドルやってたことを後悔しているとかいうわけではねえんです。ただ、どうしても腹が疼きやがるですよ。悪ぃですね」
「何か、あったんですか……?」
「ヒトコワの話よ。ウチらはメンバーが四人だったですが、前二人が強くてな。実質Wセンターみたいなもんだったです。んで、ある時運営が、ウチともう一人のメンバーにもセンター曲を作ろうという話になり、先に選ばれたのがウチだった」
少しずつ、声のトーンが強張っていく。さっきまで茶々を入れていた英も、小さく頷きながらじっと耳を傾けていた。
「そこで、もう一人の方のガチ恋勢が暴走したですよ。待ってりゃ次に来ることは約束されているってのに、何を思ったか、ウチが消えれば繰り上がるという結論に達したらしくてなあ」
そう言って、芽瑠がおもむろに立ち上がった。ほれ、と近づけて見せた滑らかな下腹部には、入浴によって血色が強く浮かんだ、痛々しい傷痕が三つ刻まれていた。
「そりゃもうめった刺しよ。おかげで
「そんな、酷い……」
口元を押さえて涙が滲むのを堪える楪に、芽瑠は詫びるように目尻を拭ってくれた。優しい指先だった。
「そこに通りかかったんがあいつだったです。上半身脱いでウチの腹にかけて、救急に電話をしながら、襲って来た奴らとも大立ち回り。まだ口寄せの力も持ってなかったのに、すわ、あれは義経か弁慶か。カッコヨカッタワー」
「そこでちょけるのはナシでしょ……」
「うるへー」
英に諫められ、芽瑠は不貞腐れるようにまた湯船へと沈んだ。
「まあ、そんなわけで、自分が産めなくなったもんですから、こうして産科医になりましたとさ、めでてえめでてえ」
「大事なところを端折ったわね。退院してから紲くんに毎日お弁当を作ってきては逃げ回られてた話」
「それはだるいってぇ……妻の前ぞ?」
「その妻の前でドグサレ呼びを続けておいて何を今さら」
「あン? 表出るですか?」
「やーよ。お風呂から出たくないわ」
「それはそう」
一触即発のようになったかと思えば、すぐに笑い声がついて出る。紲と関わったことでそう染まって来たのか、あるいは紲が彼女たちに影響されて今の人間味を得たのか。後者のことを想像しても、不思議と嫉妬心が浮かばないのに楪は驚いた。
驚いてから、嫉妬をしようと考えていた自分にも可笑しくなって、英と芽瑠につられるようにして笑う。
「昔の話だ、今のは聞かなかったことにしやがれですよ」
「うふふ、いやです。むしろ今度、もっと聞かせてください」
芽瑠が腕を伸ばして来て、むにと頬を押してきた。体型こそ自分よりも小さいのに、その風格はずっと大きく感じた。たとえ小さくても、獅子は獅子なのだと、楪は悟った。
「でもまあ、まさか再会できる日が来ると思わなかったわねえ」
「ハナから連絡受けて行ってみりゃ、例の琴葉は生骸になってるわ、神やら幽霊やらで大所帯だわで、エラいことになってたですけどね」
「……今ではみんなも、還ってしまいました」
湯気にため息を混ぜて想いを馳せていると、今度は両側から頬をむにられた。亡き姉とは全くタイプが異なるが、安心するぬくもりだ。
「縁は繋がってるわよ。もっとも、結び目を固くするのは、一緒にいられるうちにしかできないんだろうけど」
「そうそう。あんにゃろうは朴念仁ですから、欲しいモンとかあったらちゃんと言えよ~?」
「欲しいもの、ですかあ」
唸る。そういえば考えたことがなかった。命があっての物種と、日々を満喫するので精いっぱいだった気がする。けれど、何がいいだろう。彼の成分を毎日摂取させてもらっているから、今はそれだけでも胸がいっぱいで、これ以上のものを貰ったらタガが外れてしまいそうなのだけれど。
あ、そうだ。
「手紙とか、貰ってみたいですね。友達がラブレター貰っているのを見て、いいなあって」
「ああ、可愛い……っ! そうよね、わかる、わかるわあ」
英が黄色い声を上げて、飛び上がらんばかりに身を悶えさせた。
「女を出すなですよ。どうせドグサレのことです、書いても一行やろ」
「まーたそうやって捻くれるう」
「なんなら予言して見せるです? 『いつも世話になってる。好きだ。』以上! ……ふひっ、甘くてのぼせるわー」
「こーらー?」
雑な声真似に英お姉さんのお叱りが飛び、芽瑠お姉さんは隣の炭酸泉の方へと逃走した。
けれど、たとえ一行でもいいと、楪は頬を緩めた。それはきっと、決して適当なんじゃあなくって、彼なりに言葉を絞り出した、ぎゅっと凝縮された文章だから。
お気に入りの宝石箱型の小物入れに仕舞って、毎晩こっそり読み返すのだ。なんだかちょっぴり、自分が悪いことを企んでいるみたいでワクワクした。
警察署前の通りを西へ行けば、地方で鳩の色が違う系列のスーパーがある。夕方時ともあって主婦層の客が多い中、買い物カゴを取ってその隙間を縫うように売り場を彷徨う。
おヤチに任せていた頃は全く心得がなかったが、楪の手を引くようになってからは店内の歩き方にも随分と迷いがなくなってきた。フロア配置のざっくりした共通項や看板の見方なども慣れた。あとは死角である右側の客とぶつからないように気を留めるだけでいい。
「(そういや、包丁はあるのか?)」
入り口側の青果コーナーを通りながら、そんな疑問を抱く。給湯室などを探せば一つや二つ出てきそうだが、無い方向で考えるのが無難だろう。多少割高になるが、カットされた焼き肉用野菜セットなるものを二つほどカゴに放り込む。
売り場にいる女性の層は様々だった。上は山形らしく地元の婆様から、下は楪と同じくらいの若者まで。中には当然、身重の姿も見受けられる。小さな子供連れもいれば、学校指定のジャージを着た娘と連れ立って買い物をする母親もいる。
これから産まれる命。無事に産まれた命。大きく育った命。そして、それら次代を守っている命。様々な人の営みの在り方があった。
そんな余所見が祟ったか、不意に視界をつうっと過ったものに、紲は慌てて足を引いた。
「すみません」
声をかけたが、返事はない。
飛び出してきたのはベビーカーだった。母親が棚の商品を手に取っている間、持ち手を握っていた左手を無意識に押し出したのだろう。
「(……おう、悪かったな)」
じいっと見上げてくる幼児のつぶらな瞳にピースをして、踵を返す。母親の方は、ついに紲に気付くことはなかった。
スーパー内でこうした光景は珍しくない。従業員が品出しをするコンテナの隣スレスレを、小さな子供の手を引いて歩ける親もいる。どう足掻いても割れモノや棚の角やフックが避けられない場所で、走り回る子供を放し飼いにできる。
従業員らはそんな客に気付いてコンテナを押さえて待ってくれていたりするが、客はお構いなしに、その目の前で立ち止まって悠々と商品選びをする始末だ。
ほんの数秒、脇に逸れるだけ。ほんの数秒、声をかけるだけ。ほんの数秒、ベビーカーから意識を逸らさないようにするだけだというのに。
「(腹を痛めた、って割にはなあ)」
不注意は自分も同罪であるが、どうも命の扱いがぞんざいに感じられ、紲は小さく唸った。
「(お、良さそうな肉発見)」
見世物用に作られたのだろう、一パックで三千円近くする肉のセットを手に取り、吟味する。A5ランクとはいえ、あまり脂がありすぎても仕方ないが、さて。
「……芽瑠の奢りだしな」
どんな使い方をしようとどうせ一つは文句を言われるのだ。ならばその時考えようと一つ手に取り、それとは別に手頃な肉を探す。牛タンなども美味そうだ。
五人分の肉をたっぷりカゴに詰め込み、レジへ向かおうとしたところで、通り抜けようとした通路が井戸端会議に塞がれていたことにげんなりする。
「斎藤さんのとこの祖母ちゃん、先月
さらには天下の往来でする話じゃないと来た。回り込んだ隣の通路にも聞こえてくる声を聞くともなく聞きながら、ついでに目についた調味料の類を物色する。
「うん、聞いっだ。元気だったんだっけけんどにゃ。百さはなったんねべか?」
「ミチヨちゃんのお母さんの三つ上だから、まだ百にはなってねんねがや」
塩コショウはともかく、焼肉のタレは種類が多すぎて目移りがするようだ。漆山家の調味料で固定のものは油と、県民に引っ張りだこの御当地出汁入り醤油『味マルジュウ』くらいである。どうせなら、こんな機会にしか手を出さないようなタレを選びたいところだ。
「んだたって大往生だべ。うちの婆様ばもよくお茶飲み来いって誘ってけでだんだけんど」
「寂しいにゃあ。でも、寿命ばかりは神様が決めたことだべからにゃ」
聞き流していた井戸端会議の内容に、紲は思わず棚にかけた手を止めた。ビンであるその商品を取り落としそうになって、すんでのところでキャッチする。
「……そういうことかよ。そりゃあ載せられねえわな」
思いがけない天啓を得た。人にとって常識でありながら、すっかり失念していた。否、常識だったからこそ、人間である自分はそこから目を逸らしたかったのかもしれない。まったくとんでもないことをしてくれたものである。
会計を済ませ、いそいそと乗り込んだバイクのヘルメットの中で、紲は千代に八千代にとメロディを口遊むのだった。
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