エクス・デウス
「もう三十秒だけ、頑張って稼ぎなさい」
そう言い遺して、枝調はウメズ神に呑み込まれた。
地に楔を打った白蛇は食い損ねた
次は逃さないという怒りが、ピリピリと肌に伝わってくる。
「(枝調さん……ありがとうございます)」
楪は黙祷を捧げた。短い時間でも申し訳ないが、その不作法はわらび餅で詫びます。
「三十秒も要らねえ。死にな」
拘束しようと伸ばしてくる安隆寺の腕を――楪は目を開いて一瞥した。
「"私に触るな"!!」
「な――っ、言霊、だと……」
気圧されたように、安隆寺の手が止まる。
「いいえ、そんな大それたものではありません。これはどんな人も持てる、ただの意志です!」
楪は振り返り、走り出した。
擦りむいた膝で、小石に切った脚で、一歩でも遠くへ。
曲げられなくなった腕で、爪の剥がれた指で、仲間たちへ手を伸ばす。
今にも破れそうな肺で、枯れて千切れてしまいそうな喉で、叫ぶ。
「チャーリーお願い、私を空へ!」
『ガウッ!!』
飛び込んだ楪を双つの口で受け止めたケルベロスが、跳躍から大きく首を振って空に打ち上げた。
その体を、箒の魔女が天秤サイドカーで受け止める。
「手荒でごめんね、垂直上昇は不得手なの!」
「構いません!」
スリングを投げるように一回転し、さらに上へと飛ぶ。
にわかに地上から殺気が膨れ上がるのを感じた。蟻地獄のように吸い込まれてしまいそうだが、決して視線は下げないようにぐっと堪える。
『『『メリーたち、今あなたの後ろにいるの!』』』
『ばけつりれーでありんすー!』
『『『よっしゃこーい!』』』
現れた人形三姉妹と、肩車で梯子を作っていた花子さんズに運ばれて、もっと上へ。
もう既に、視界の端から陸地は消えている。天を目がけた楪の目には、木々の一切すら映っていなかった。
夜空には一番星が二つ――英と芽瑠が待ってくれている。
言葉は要らない。ただ、その手を掴むだけ。
「「頼んだわよ/ですよ!!」」
雄叫びとともにぶん投げられ、楪は考え得る限り一番高いところまできた。
「(今何秒っ!?)」
まだ彼の気配は感じられない。もどかしさに肩が強張る。まったく、王子様ってやつは、いつも遅れてやって来るから困る。
くんっ、と体が重力に引っ張られ始めるのを感じて振り向けば、とうとうウメズ神がこちらに追いつかんとする寸前だった。
万事休すか。小娘の自分では無謀だったか。
「くそっ、くそおおおおおおっ!!」
落下を始める体にじたばたと悪あがきをしながら、楪が自暴自棄に叫ぶ。
「意志を棄てるな!」
蛇が大きく開いた牙から、老成した声がかけられた。
安隆寺――否、梅津伊佐雄だった。ウメズ神の牙に潜むようにしていた彼は、煉獄の炎をジェットパックのように操って、こちらへと飛んできた。
「梅津さん!? どうして……」
「君のおかげだよ、どうにか間に合えたようだ!」
むんっ、と歯を食いしばり、歳にしては限界だろう程に首の筋を盛り上げて、梅津伊佐雄は楪を更に高くへと放り投げ、ウメズ神が咬合した口の中へと消えていく。
喉を嚥下することもない、丸呑み。仮にも
ウメズ神は止まることなく、すぐさま二の太刀の大口を開いて楪に迫る。
もう、手段は――
「何かしてやがるとは思ったが、なんつーことしてるんだ、お前は」
空の色を掻き消すような稲光とともに、待ち望んでいた切り札がディールされた。
もう幾年も聞いていなかったかのように懐かしい声から、肩を抱かれる。その姿は視えなくなってしまっているが、確かに温もりを感じることができる。
「貴方を、迎えに、来たんですっ!」
渇ききってしまったはずの涙腺が、どうしようもない程の感情で満たされ、溢れていく。
「そいつはご苦労なこって――歯を食いしばってろ。ヘソを出すと取られんぞ」
「……はいっ!」
天からの裁きはウメズ神の鼻先から下顎までを容易く滑り、伸び切った蛇腹を真っ向幹竹割り断ち切っていく。
ウメズ神が断末魔の叫びを上げた。断面は即座に雷に焼かれ、わずかな再生すら許さない。
やがて
ぱっくりと裂けた大木の根本で、梅津伊佐雄が佇んでいる。
彼は心の蔵を境に左半身を断ち切られた状態で、腐敗して崩れる妻と子の蝋人形の成れの果てをかき集めるように抱き締めている。
「そうか、君は……神に成ったんだな」
咽り、血を吐きながら、梅津は宙を見つめた。それから、楪へと目を向け、
「君の中の巫女は、私が操られる側だと言ってはくれたが、その道を光として進んだのは私だ。私が、幸との約束を正しく信じ続けられていれば、あるいは……」
いや、詮無き事か。彼は力なく首を振る。
「本当にすまなんだ。赦されることはないだろうが……三途の闇にて、償い続けることにするよ」
力尽きて倒れ伏した梅津の体は、妻と子の亡骸と混じり合い、血溜まりとなって地の底へと浸み込んで行った。
安隆寺坊主と偽神から脱することはできても、一度魂に刻んでしまった業から逃れることは不可能だ。それは、いつかの遠い未来に償いを終えた暁にも同じこと。それは大なり小なり、すべての人に等しくいえること。
だから楪は、人が地獄へ堕ちるその光景を目に焼き付けた。今宵どれ程の命を手にかけたか、自分を戒めるように。
人の世では、刑に服すことで法が赦すこともあろう。その後清く生きることで、前科の歴が消えることもあろう。けれど、犯してしまった記憶は死ぬまで――死後も永遠に抱えることとなるのだから。
それでも、生きていく。だからこそ、歩き続ける。時折不意に襲ってくる
空が白み、最上川の表面をきらきらと照らし始めた。目の前で光彩が虹色の輪郭を帯びていくのに、楪は弾かれたように飛びついた。
何度もしがみついた背中の大きさは、変わらなかった。
「そこにいるんでしょう?」
嗚咽を交えている暇などないと、必死で息を継ぎながら、言葉を紡ぐ。
「みんな、紲さんのために集まってくれたんですよ。ほら、花子さんたちも来てくれて……」
「そうみたいだな。だが、俺のためじゃない。あいつらが応えてくれたのは、お前が懸命に踏み出した一歩に対してだ」
そっと、優しい手が頭を撫でてくれる。
「その縁を大切にしろ。人が生きることは呪いじゃない。
「それなら……紲さんが、勇気を持って生きてくださいよ」
「悪いな」
困ったような苦笑が耳をくすぐる。
自分だって、無理を言っているのは解っていた。彼がどんな想いで身を投げうったのかは、美優を守ると決意した時に、痛い程理解していた。
けれど一人の女としては、まだ飲み込み切れない――腑に落としたくないことだった。愚痴めいた我儘の一つくらい、どうか許して欲しい。
「幸せになれ、楪」
「なれません。私には、紲さんしかいないんですよ」
「お前は器量も愛想もいい。今は俺しか見えなくとも、いつもみたいにうんと目を凝らしながら周りを見れば、好い男の一人や二人すぐに見つかるだろうさ」
「紲さんしか見えないんじゃなくて、紲さんしか見ていないんです! 私はっ、あの日からずっと……ずっと!」
すべての体重を預けてしがみ付く。周りに仲間たちの目があることなんて構わずに、わんわんと大声を上げて泣きじゃくった。
「私、許しませんから。忘れてなんてあげませんから!」
「そうか」
「勝手に行ってしまったんですもん。お墓参りだって、してあげませんから……!」
「……そうか」
「何か言ってくださいよぅ。いつも一言多いのが、紲さんじゃないですか……」
ふと、肩に手をかけられる感覚があった。背中ではなく、胸の中に抱かれ、不意を衝かれた頬を持ち上げられる。
「お前と出会えて、俺は幸せだった」
「――っ!?」
それは、最期の余計な一言だった。これが別れだと無慈悲に突きつける、今一番聞きたくない言葉だった。
反論で縋りつこうとした唇を、やわらかな温もりに塞がれる。涙に滲んだ朝露に、光の泡となって消えゆく彼の姿が乱反射する。泡は最上川を黄金色に染め、潰えた命たちを包んで海へと流れていった。
やがて、ようやく楪が息を吸うことができたとき、静寂を取り戻した山のどこかから、キジバトの歌い声が風に乗って届けられた。
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