エピローグ ‐ 糸解き
「母さん、まだー?」
急かしてくる息子の声に、楪は足を早めた。
玄関では、キャリー台にランドセルを乗せた紲那が今か今かと待っている。
「ごめんね、お父さんの仏壇になまなましてて。紲那はした?」
「当然。朝イチでやったし」
得意げに胸を逸らした頭を、先に玄関先へ出ていた影がぬっと伸びてきて取り押さえた。
「朝の挨拶と出かける前の挨拶は別じゃない?」
「ハナ姉ちゃんだってやってないくせに」
「私はいいのよ。紲くんに見守られるまでもないもの」
「キベンだあ……暴走運転ババアめ」
ぼそっと付け足した一言は聞き逃してもらえず、もう一本増えた手にぐりぐりと挟まれて、紲那は悲鳴を上げた。
その腕を暖簾のように「ちょっと通るですよ」と潜り抜けてきた芽瑠が、一通の葉書を差し出した。
「ちょ、メル姉ちゃん助けて……っ!」
「ババア呼びは庇えねえですよ。――ほい、相森先生からユズ宛てです」
「……宗貞くんが? わあ、宗貞くんと真知さん、結婚が決まったんだ!」
「本当? 思ったより早かったわね」
「それな。二人して『相手に相応しい人間になってから!』なんて言い出すもんだから、死ぬまで結婚に至らないんじゃないかと思っていたですよ」
「もう、二人とも……でも実はちょっと私も思ってた」
ともあれ目出たいことには変わりがない。日取りや会場は後程確認しようと茶の間のテーブルに置き、改めて靴をつっかけた。
「それでは、ハナさん、芽瑠さん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「おーう、ユズも気を付けてなー」
窓からひらひらと手を振りながら、それぞれの車が出勤していく。
今日は楪は休みを取っていた。紲那の授業参観があるからだ。
車が角を曲がるまで見送ってから楪が振り返ると、そこへ「ん」と不愛想に手が差し出された。おうむ返しのように「ん?」と首を傾げると、紲那は一度視線を逸らしてから、また手を付き出した。
「昨夜、ハナ姉ちゃんに言われたんだよ。母さんが危なくないように、手を繋いでいけって」
「あ……ふふっ、そっか、ありがとう。じゃあ、お願いしようかな?」
楪は頬がにやけるのを我慢しつつ、紲那の手を取った。はじめは中腰にならないと並んで歩けなかったのが、いつの間に、しっかりと手が届くくらいに成長した。
同時に、ふとした時に見せる仕草もだんだんと彼に似て来た。休みが合う日の前夜に行う家飲みの席で、英と芽瑠が本家との比較物真似をして遊ぶくらいにはそっくりである。
徒歩十数分のところにある小学校まで着いた時、反対側から登校してきた姉妹がこちらを指さしたのと、紲那がげっと眉を潜めたのはほぼ同時だった。
「あー、紲那、お母さんと手を繋いでる!」
「繋いでる!」
「べ、別にいいだろ。母さんなんだから」
姉妹は咲希と結希。美優と大輔の子で、姉の咲希は紲那の一つ上で四年生。妹の結希は二つ下の一年生だ。
「悪いとは言ってないじゃん。偉いと思うよ」
「わーかっこいー!」
「咲希はともかく、結希はぜってえバカにしてるよな!?」
紲那が拳を振り上げてみせると、姉妹はきゃーと悲鳴を上げながら散らばる。校門をくぐったところで二人は思い出したように振り返り、おはようございます、と楪に頭を下げてから昇降口へ駆けて行った。
「二人と仲良いんだ?」
「べ、別に……母さんたちが仲良いから、顔を知ってるだけだし」
少しだけ顔を赤らめて口ごもる紲那に、楪はにやにやとした野次馬根性が首をもたげるのを感じた。果たして、意中の相手はどちらかしら。
職員用玄関から入り、受付に並ぶ。紙に顔を寄せて名前を書いていると、背後で囁き合う声がするのがわかった。
「(はいはい、パンダですよー)」
物珍しいのか、外へ出るとこの手の反応に遭遇することは少なくない。いつもならば英や芽瑠が目を光らせもするが、彼女たちがいないからといって特別やることも変わらなかった。
あの日から、この目を後悔したことなんて一度もないのだから。
しばらく待っていると、担任が朝の会が終わったことを告げに来た。
教室に入る列の流れでも、わざとらしく行く手を横切ろうとする背中があったが、楪は慣れと、剣道で培った視野角で躱していく。教室の奥、窓際の隅っこに陣取り、皆さまに前列をお譲りしてあげれば、何故か視線を我が子ではなくこちらへ向けている人がちらほら。
これでは百鬼夜行もしたくなるんだろうなあと、他人事のように空へ視線を向ける。本日は晴天なり、だ。
やがて授業が始まった。科目は国語と称して、自分の両親を題材にした作文の発表が行われる。出席番号3番の漆山くんの順番は、あっという間に訪れた。
名前を呼ばれて元気よく返事をした紲那が、すっくと立ちあがり、原稿用紙を拡げる。
「(どんなことを話してくれるのかな?)」
自分が仮にも警察官であることを知れば、後ろ指も収まるだろうか。
しかし、紲那の第一声は、楪が予想していたものとは異なっていた。
「『僕のお父さん』、漆山紲那!」
「……えっ?」
思わず声が漏れてしまい、慌てて口を塞ぐ。
「僕のお父さんは、僕が生まれる前に亡くなりました。警察のお仕事をしていて、『ジュンショク』と言うそうです」
周囲がざわつき始めた。同情二割、好奇心三割、そして『ほらやっぱり訳アリだ』が五割といったところだろうか。
そんな中でも、紲那の発表は怯むことなく続いていく。
「僕の家には、世界で一つだけの本があります。お母さんの同級生で有名な作家の先生が書いてくれた、お父さんの話です」
「――っ!?」
楪は、押さえた口から嗚咽が漏れそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
米沢の一件後、相森に正式に依頼をし、百鬼夜行用ではない本来の流れをなぞった紲の話を綴ってもらい、英たちとお金を出し合って製本をしていたものがある。
本当ならば、もう少し大きくなった頃に渡そうと思っていたが、よもや既に読まれているとは想像だにしていなかった。
「お父さんは、世界一強くてカッコいい、僕の憧れです」
いつしかざわつきは鳴りを潜めていた。教師も素っ頓狂な内容の原稿を止めるべきか悩み、おろおろとしている。
「――こういう話をされても、普通の人たちは信じられないかと思います。けれど、僕は信じています。何故なら僕はうんと小さい頃、お父さんと約束をしたからです。『これからは、お前がお母さんを守るんだぞ』と、頭を撫でてくれたのを憶えています」
楪はしゃがみ込み、声を押し殺して泣いた。似てきていると思ってはいたが、それは大間違いだった。
紲那の中に、漆山紲の魂は色濃く受け継がれている。
「だからオレは、母さんを悪く言う人を許しません」
紲那は原稿用紙を机の上に置いた。
そして振り返り、保護者達をぐるっと見回してから、口を開く。
「入学式の時から感じていたけどさ、ひそひそひそひそうるっせえんだよ! てめえらが知りたがっていた、母さんの目の理由は今話した通りだよ、文句あるか!!」
教室に響いた怒号に、言葉を返す者はいない。驚いた隣の教室からも人がやってきて、外から様子を窺っていた。
「この中に、オレの父さんより勇敢な男はいるか? 母さんより優しい女はいるか? いないだろ! そんなてめえらみたいなのでも守るために父さんは戦ったんだ。それも知らずにふざけんな! 次に母さんの悪口を言ってみろ、オレがただじゃおかねえからな!!」
紲那は最後の人睨みを一周させると、楪の下までやってきて「ん」とハンカチを差し出してくれた。それから席へと戻り、「以上、漆山紲那!」と腕を組んで、どっかと腰を下ろした。
その背中に、追いかけていた大きな背中が重なる。確かにそこにある。
眩しさに目を擦った楪は、崩れた化粧を隠すように、窓の外へと顔を向けた。空は青く、どこまでも澄み渡っている。
ハンカチを握りしめて、思いを馳せる。
「(紲さん、見てくれていますか。紲那は貴方によく似た、立派な男の子に育ちました)」
きっと、授業をめちゃくちゃにしたことは、後でハナさんからこってり絞られるかもしれないけれど。
たぶん、これから先ずっと、芽瑠さんからイジられるネタになるのだろうけれど。
私は今、すごくしあわせです。
――ムカサリ第三部【乞待ノ百喪語】(了)
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