黄泉比良坂
まどろみの中で温もりを手繰り寄せようとした手が空ぶったことで、楪は飛び跳ねるように目を覚ました。
思わず伸ばした腕も虚しく、ベッドの端から不格好に突き出ただけ。耳を澄ませたが、家の木材が風に軋む音しかしなかった。
迂闊だった。腕枕で髪を梳いてもらった程度で、どうして繋ぎ止められたと思い込んでしまったのか。どうして、彼が見せてくれた笑顔が本物だと願ってしまったのか。
己の
ふと、手のひらに何かが触れたが感覚があった。丁寧に畳まれた便箋と、その上に置かれた指輪が目に入る。
楪はベッドから飛び起きて紙を拡げた。彼の言葉を追おうとして、外がもう暗くなっていることに気が付き、枕元のスタンドに手を伸ばす。
そこにしたためられていた言葉は、芽瑠が予言していたよりはずっと長く、けれど自分が求めていたものよりは少なかった。
一に曰く、謝罪。こんな形になって申し訳ないと、感情を押し殺したような事務的な字面。
二に曰く、私を愛してくれていたという偽りのない言葉。
楪はそこで、堪えきれずに口元を覆った。ただでさえぼやけているというのに。ただでさえ薄暗い部屋だというのに。滲んでしまった文字の海を藻掻くように、次の行へと食い入る。
三に曰く、これからのこと。吾妻や英たちを頼れということ。
「…………バカ」
姉と姪の墓はどこか菩提寺を設けて移してもらい、岩谷の山のことは忘れろというメッセージに、楪は目を閉じ、涙を拭った。
――ねえよ。一時的に神にするだけならやりようもあるが……決定打には欠ける。
失言の尻尾を掴んだ。それだけいっぱいいっぱいだったのだろう。それが解っただけで、傷んだ心がそっと温かくなる。
「本当、貴方は一言多いんですから」
緩めた頬を引き締め、楪はベッドから下りた。脱いだ服はどこにやっただろうか。探すのも手間だったので、真っ直ぐクローゼットに向かった。
動きやすい服を見繕って袖を通してから、結局、スマホがないことに気が付いた。
居間に戻り、抜け殻となった衣服を漁り、目的のものを引っ張り出す。コールの間に洗濯籠に入れてしまおう。
たっぷり十コールくらいしてから、ようやく出た英の声は、ひどく困惑していた。
『私よ……その。もしかして、もしかする?』
「はい。私は失敗しました」
電話の向こうから、ため息と、舌打ちと、息を呑む音がする。
皆揃っているのなら話が早い。
「英さんたちに、お願いがあります」
『ええ。何でも言って』
「私を、岩谷の霊場まで連れて行ってください」
今度は三つとも揃った、怪訝な吐息が聞こえて来た。
紲は古刀を引っ提げ、宙を飛び回っていた。四方八方から迫りくる牙を掻い潜り、刃の峰でいなし、たった一度の機会をひた窺う。
「クハハハハ! すわ、黄昏時に誰ぞ彼ぞとは思ったが、逃げ回るだけではないか!」
川の畔から安隆寺の快哉が打ち上げられる。
「俺は前に進んでるんだよメクラ坊主。そっちこそ、これだけの数の首があって、男一人捕まえられねえのか?」
「フン、減らず口を」
うじゃうじゃと最上川を埋め尽くす白蛇の首は、二十を超えた辺りから数えるのを止めた。まるで海から招く死者の手の群れである。
この一体一体に、教会で損壊した富樫母子のような命が詰められているのだと考えれば、改めて怖気が走る。
『目星はあるのかい?』
脳内に響くようなカナトミの声に、紲は眉を持ち上げる。
「(一度奴に仕掛けられてる。そん時に刃で受け止めているから、その傷を探しゃあいいと思うんだが……)」
『あはは、だからこんなチキンレースを仕掛けているんだね。大変だ!』
他人事のように笑う軽妙な声は黙殺した。人間にとってカラスの声は不快と相場が決まっている。せめてこいつがメスならば、耳にも心地よかっただろうが。
そんな、願うだけ無駄な苛立ちは、安隆寺に向けて放った。
「最後通牒だ。もう手を引け、安隆寺! こんなことをしたって何も救われねえ。ただいたずらに人類を滅ぼすだけだぞ!」
「くどい! 愚かな人間など滅べばよい。真白に成った楽園で、新たな歴史を始めればよい!」
紲は交差するようにきりもみしてくる首を躱しながら、上顎の牙を一瞥して舌打ちをする。こいつらもハズレだ。
「どこの世界だって、突然の死ってのは訪れるんだ。神だって子供を産んで焼け死ぬくらいだ、楽園にも楽園なりの病や死因があるだろうさ。それは逃れられない、運命なんだよ! テメエの理想は叶うことはねえんだ!」
「……運命? 運命と言ったか!」
安隆寺が目を覆って呵々と笑った。
「貴公がそれを言えたことか、オナカマの! 安らかに眠らせるべき死者を、生者の都合で引っ立てる、口寄せの一族が! まして巫女に至るための条件は、盲目の処女だったか? 盲の女というだけで探すに容易くないのに、それが一つの過疎民族の中に都合よく集まっているなど、おかしいとは思わないか!?」
「……チッ、痛えトコ突いてきやがる」
紲は顔を顰めた。止まった足が危うく食いちぎられそうになるのを、蛇の鼻っ面を蹴りつけて逃れる。
オナカマ巫女の適合者は、そのようにして生まれる。目を潰す儀式があるわけでもなく、強い力によって、そのように現れるのである。
神の眷属の運命と言えば、それまで。
子は親を択べないと人は云う。空気の汚い都会で生まれたか、空気が綺麗な代わりに危険な野生動物と隣り合う田舎に生まれたか。海で生まれたか山で生まれたか、国や人種や性別はどうか。親はどうか、家の宗教はどうか。――そこは特別の血筋なのかどうか。
人は生まれながらにして、ある程度枷が決められているのだ。
「運命だと断ずるには業が深すぎることは、貴公も解っているだろう。果たして、産まれてくる子供にそれを強いることは是か!」
「是か否かじゃねえんだよバカヤロウ! まして他人がしゃしゃり出ることじゃねえ。ノアの箱舟だって、乗り込む意思を示せるのは本人だけだ。子供を親や世界から引き離して隔離することなんかじゃねえ。テメエがやってるのは、どこまで行っても方舟ごっこだ。雪玉を投げる児戯と変わらねえんだよ!」
蛇の首の海から浮上するように、天高く飛び上がり、安隆寺を見下ろす。
ふと遠くを見れば、庄内方面からパトカーが走ってくるのが見えた。路肩に止めて降りてきた警官たちがこちらを指さし、無線に何事かを訴えている。
「やべえ、親が迎えに来ちまったか?」
そういえば、自分の姿は人に見えているのだっかと、紲は今更ながらに気が付いた。最上川に浮遊する刀を持ったライダー……都市伝説の仲間入りである。明日の何面かには載るだろうか。
「テメエもいい加減片付けて、ガキどもをお母さんのところへ還してやれよクソ坊主」
安隆寺の細めた目の奥で、憤怒の炎がぎらりと光った。
「私の使命を愚弄することは、我が子を託してくれた彼女たちへの愚弄にもなるぞ」
「別に構いやしねえさ。それに、無差別に妊婦を襲い始めた今のテメエに、その大義を振りかざす権利はねえよ」
「あまねく命を守護するためなれば」
奴の躰からめらめらと立ち昇る幽気を見て、紲はほくそ笑んだ。
「そうかい、ならば船が定員オーバーするくらいに、新しい命を生んでやる」
「黄泉比良坂の再現か。貴公こそごっこ遊びではないか。よかろう――なれば私は、それさえ
「――言ったな?」
紲は中指を立て、あかんべえをして見せた。その態度に、安隆寺のこめかみに立った青筋が膨れ上がる。
「どこまでも舐め腐りおって……ここに千引岩はないぞ、オナカマのォ!」
怒髪天を衝く安隆寺の気声とともに、紲の斜め下の方から、地鳴りの如き威圧感が噴き上がってきた。宙にいるはずなのに、足が竦んで座り込みそうになるほどだ。
「何だ、隠れていやがったのか。そりゃ見つからねえわけだ」
大きく開いた顎の、牙に着いたわずかな太刀傷を見やり、紲はその場に留まった。否、逃がれようとしたところで徒労に終わっていたかもしれない。
体は一瞬にして真白の間欠泉によって呑み込まれ、残った上半身がぐらりと揺れ、真っ逆さまに落ちていく。
「じゃあな、クソ坊主」
目を剥いて嗤う紲の上半身も、返す首によって食い千切られた。
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