テン・ソウ・メツ

 赤倉温泉に到着した一行は、欄干からの景色もそこそこに、宿のひしめく中に踏み込んだ。

 時刻は朝の九時。結局、一時間もかからず山形・最上間を走破したことを考えれば、怖ろしいものがある。


 通報者に聞き込みをするべく、一つの旅館に入った英とは別行動をとり、紲は周囲のクリアリングを行った。山の斜面を重点的に見ていたが、現時点では臭いも感じられず、視認できる範囲には異常が見受けられない。


 隣では楪がうんうんと、背伸びしながら道路を跨いだ反対側まで覗き込もうとしていた。


「今のところ問題はない。ハナと合流するぞ」

「……はい」


 彼女は少し、気落ちしたように見える。

 仕方ないさと肩を引き寄せ、踵を返そうとしたとき、乳白色を炙ったようなくすんだ空気に包まれた。


「問題は……」

「あったな」


 霊的結界。しかし、と紲は眉を顰める。

 ヤマノケは既に御廟紫に憑いているはずである。それならば、奴がやるべきことは、通報者にしたように紲を誘惑することだろう。結界に引き込んでまで行うことではない。


 不意に、くんっ、と足下がぶれたような気がした。直後、エレベーターでの浮遊感を断続的に受けたような感覚が全身を襲う。


「な、何が起こっているんですかっ?」


 奇妙な感覚は楪にも起きているらしい。


「ハナ! ハナ!」


 英が入って行った旅館に向かって呼びかけるが、返事はない。この霊道から免れてくれているならば重畳なのだが。


「俺の傍を離れるなよ」


 楪はこくこくと頷いて、袖をつまんできた。

 周囲に視線を走らせる。どこだ、どこにいる?

 こちらから打って出るべきかと足を持ち上げた矢先、遠くから聞こえてくる、ぼやけたような低い声があった。


『テン……ソウ……メツ……』

「マジかよ。うっそだろ、おい」


 紲は目を覆いたくなった。


「これ、私がお姉ちゃんとの電話で聞いたものと、ちょっと違う気がします。少し、声が高いような……うん? いや、低い、のかも……?」

「だろうな」


 彼女の指摘に確信を得る。

 同時に、それは想定しうる最悪のケースであることを意味していた。


「楪、確かお前、ヤマノケについてネットで見たっつってたな」

「ええ、はい」

「あいつは人に取り憑くと、何て言うんだった?」

「それは、『入レタ入レタ入レタ』……あっ」


 合点がいったらしい楪が、顔を上げる。


「もしかして、これはお姉ちゃんではないということですか」

「そうとは言い切れないがな。お前の姉に入っている個体が、抜け出て来た可能性もゼロじゃあない。それに――」


 紲は楪の手を引いて、近づいてくる声を躱すように、声とは垂直方向へ移動する。

 すると、一歩進むたびに、声がずれて来た。


「えっ……?」


 山の中を反響して聞こえるせいか、今までなんとなしに一方向からと決めつけていた声だったが、それは思い込みである。

 実際は――


「これ全部が」


 山を覆った『くすんだ乳白色』の空気に溶け込むように、片栗粉のダマのような異物が点在している。

 白く大きな体で片足立ち、首はなくて、胸の辺りに大きな顔がある異形。


「ヤマノケだ」

「ひぃっ……」


 楪が眩暈を起こしたようにたじろいだ。


「どうやら土搗歌の線で正解だったらしいな。ありゃ呼び声だ。愛するものを讃え、その帰りを待ち望む歌……転じて、転じまくって、べったりと欲に塗れた。そんなところかねえ」


 紲はヤマノケたちを睨み返す。

 アレはおそらく、鉱山夫の妻か、彼らを慰撫する女たちだ。長く採掘現場に留まる男たちを待つのは、さながら戦争に出た兵士を待つことに近い。なにせ昔は設備も整わず、落盤事故などザラにあっただろうから、愛した男が死んで帰ってくるという失意に打ちひしがれた女は数知れまい。そうして怨霊となり、女の幸せを求めたが、産むのは赤の他人の子供である。愛した男との子供でもないのに、出産の痛みに耐えることなどできるはずがない。


『テン……ソウ……メツ……』

『……テン……ソウ……メツ』

『テン……ソウ……メツ……』


「ま、同情はしないがね」


 こちらを値踏みするかのように黄ばんだ眼球をぎょろぎょろと動かしながら、その場でぴょんぴょんと跳ねていた奴らが、ふと、止まった。

 視線が一点に注がれる。


「えっ、わ、私……?」


『『『『ソノカラダヲヨコセ!』』』』


 臼を引くような声が、山を揺るがした。


『テンソウメツ、テンソウメツ、テンソウメツテンソウメツ……』

「ひいぃぃぃぃぃぃ!?」


 猛スピードで山を降りてくるヤマノケから逃げ出そうとする背中を捕まえる。


「ったく、俺の傍を離れんなっつったろうが」


 紲はため息を吐きながら、稲荷の神札を出した。


『ヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセ……』

「生憎だが、そいつは無理な相談だな」


 歯を剥く。シラベを打ち破る方法など微塵も思い浮かばないが、かといって、このまま手をこまねいているというのは癪で癪で仕方がなかった。

 俺は決めたのだ。


「こいつを渡すわけにはいかねえ。死神だろうが、ヤマノケだろうがな!」

「紲さん……!」

「とりあえず、テメエはヨジロウに乗って離れてろ――六根清浄。来い『那珂與次郎』!」


 札を払う。

 ……もう一度札を払う。

 …………三度目の正直で、さらに振ってみる。


「あのう、紲さん?」

「まさかあのジジイ、寝てるんじゃねえだろうなあ!?」


 そんなわけがないことは重々承知していた。彼らにはそもそも睡眠の必要がなく、『眠る』というのは、力を使い果たして、次に蘇るまでの時間を過ごすことを言うからだ。


『テンソウメツテンソウメツテンソウメツ』


 気が付けば、ヤマノケは赤倉温泉街まで到達していた。


「帰命し奉る、『ノウマク・サンマンダ・バザラ・ダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラ・カン・マン』!」


 しかし倶利伽羅剣は現れず、印を組んだ指は、空しく前に突き出ただけだった。


「ジジイも来ねえ剣も来ねえ……一体、どうなってやがる?」

『ヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセ』


 こちらをからかうように、ぴょんぴょんと跳ねている。

 じりじりと後ずさった紲たちは、ついに壁際まで追い詰められた。背後には旅館の勝手口らしきドアがあるくらいで、袋の鼠である。


「ちっ……ステゴロでやり合うしかねえか。楪、俺が呼ぶまで出てくるんじゃねえぞ」


 ひとまず彼女をドアの中に隠そうと、取っ手に手をかけようとした時だった。

 ドアがひとりでに開き、異空間から中から伸びて来た手が楪の手を連れ去ってしまう。


「えっ、えっ? ええっ?」

「はな――こぉっ!?」


 現象に心当たりはあったが、礼を言うどころかその名を口にする間もなく、紲までがっつり襟首を掴まれ、引き込まれてしまった。

 その先は、海の中にいるような青の空間が広がっていた。宙に浮いているような感覚だけで、他にはなにもない。


「ここは……?」

「霊道だな。トイレの裏、とでも言うべきか……」

「トイレ!? それって、まさか!」

『はろはろー』

「花子さぁん!」


 ぬーんと現れた花子さんズに、楪がほっと胸を撫で下ろした。

 紲も心強く思っていたが、奥の方で、ヤマノケの真似をしてけんけんぱをする集団が気にかかった。何をしに来ているんだあいつらは。


『よじろーさまが、いらっしゃれないのは』

『おふどうさまのけんが、とどかないのは』

『けっかいのかずが、おおすぎるからー?』


 花子さんズトップ3の安定のセリフリレーで、紲はようやく合点がいった。


「つまり、あのヤマノケ全員分の霊道が重ね掛けされてるってことか?」

『『『そうおもわれー』』』


 なるほど、確かに道理は通っていた。

 数枚くらいなら突き破り、山刀伐峠の一件のように助けに入ることは可能だが、ここまで分厚ければ、それさえ適わないということらしい。

 ヤマノケに出会ってしまえば必ず取り憑かれる。その絡繰は、絶対逃亡不可避の状況に誘い込まれることで成されていたのだ。


「そうなると、結界の主ヤマノケ自身に招かれるか、霊道を通ることができる同族しか来ることができないってわけか」

『ですので、わたしたちが、きましたー』

『さすがに、けっかいのそとまでは、おつれできませんがー』

『かいちょうのあるじさまのためなら、がんばりますー』

「でかした花子さんズ!」

『『『『『ぶい』』』』』

「口ではぶいと言っているのに、ポーズはサムズアップなのですね……」


 一斉にポーズを決めた花子さんズに、楪が苦笑した。

 強い味方を得て、心の準備も済ませた紲たちは、花子さんの3カウントで飛び出した。

 ドアを開ける形で行き着いた外は、先ほど引き込まれた建物の表向かいだった。

 紲たちを見失って混乱している背中に、花子さんの一人がおもむろに近づいて――


『すにーくきるー』


 その首筋を、どこから取り出したか、トイレのデッキブラシでぶん殴った。

 他のヤマノケたちが一斉に振り返る。


『ヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセ』


 散開した花子さんズを追って無数の目が見開かれる。だがそこへ、死角から屈んで近づいた花子さんズが、両手に構えたトイレ用洗剤のフタを開き、一斉にぶちゅぅぅぅ、とぶちまけた。


『とりがー』

『はっぴー』

『ひゃっはー』


 無機質なトーンの声で淡々とヤマノケを撃退していく様は、楪が渇いた笑いを起こすほどにサイコパスじみていた。


「あのう、紲さん」

「なんだ」

「もしかして、私たちまで飛び出す必要はなかったんじゃないでしょうか」

「奇遇だな。俺もそう思っていたところだ」


 目の前は阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていた。

 ヤマノケに追い詰められればドアワープを駆使して対面から飛び出し、あるいは『ぶんしんのじゅつー』と数人がかりで袋叩きにしたり、旅館の屋根に上って『ら〇だーきーっく』をかましたり、果ては霊力で作り上げた仮説トイレ――それも、吹き抜け――の上から水の入ったバケツをひっくり返すなど、やりたい放題である。最後のそれなど、ただのイジメだろう。

 自分が彼女たちに五大明王の真言だけで渡り合ったことを考えれば、実は手加減されていたのではないかと怖気が走った。


 打ちのめされてたまらず引き上げていったヤマノケたちだったが、そこは怪物。ただでは終わらないと、集合して一つになった。紙粘土を捏ねるように歪に形を変えていったその塊は、やがて一体の巨大なヤマノケとして君臨する。


『テェン……ソォウ……メェツ……』


 一声発する度に、腹の底まで響いてくるようなおどろおどろしい声だ。


「き、紲さん、やばいです。まずいです!」

「問題ねえよ。ラスボスが控えているからな」

「へっ?」


 紲は片膝を突いてしゃがみこむと、ずっと近くで護衛をしてくれていた我が家の花子さんの頭を撫でた。


「花子、お前の力を見せてやれ!」

『かしこまー』


 とててて、と横断歩道を渡るような軽快さで前に出た花子さんが、ポケットから取り出したホイッスルを吹きならした。それを合図に、他の花子さんズが手近なドアから撤収を始める。


『よんびょう、ろくさん。いいちょうしー』


 バタン、と一斉にドアの締まる音に、我が家の花子さんはストップウォッチを片手に、満足げに頷いた。


「皆さん帰ってしまいましたが、いいんですか?」

『みんながいるほうが、あぶないのでー』


 にぺらっと無邪気に笑って見せた花子さんが、ヤマノケの方へと振り返る。その瞬間、僅かにヤマノケがたじろいだ。


 旅館の窓がかたかたと揺れ始める。風もないのに木々がざわめく。


 腕を組んで仁王立ちをする可愛らしい小学生の女の子からは、傍目にも分かるくらいの殺気がにじみ出ていた。

 ある程度戦いに慣れているはずの紲でさえ、足下から這ってくるような刺々しい冷氣に、不覚にも膝が笑いだす。


「……何が、始まるんですか?」

「花子さんの逸話は多岐にわたるが、こと山形県の一部地域には、『花子さんの正体は三つの頭を持つ体長三メートルの大トカゲで、女の子の声で油断した相手を食べる』という逸話があるんだよ。山形だけが、花子さんをおよそ人ではない存在として扱っているんだ」


 花子さんが肩越しにピースサインを見せた。気さくに肯定しているつもりらしいが、体から発される威圧感が鎮まる様子は微塵もない。

 彼女が、体の前で腕をクロスさせる。


『へんー……っしん』


 手を大きく回し、今度は逆位置でクロスさせる。


『とーう!』


 肩から降ろしたランドセルを踏み台に、ヤマノケに向かって高く飛翔した。

 花子さんは髪が伸び、手足が伸び、大人の姿を越えてもさらに成長を続けていく。皮膚に鱗の紋様が浮かび上がり、口が裂け、顎となった。


 大トカゲというよりは、むしろ竜種のそれに近い。

 ヤマノケを凌ぐほどの体長となった竜は、大きく口を開けてヤマノケの頭上から迫った。

 丸呑みだった。蛇が獣を捕食するように、喉元から腹まで、異形の形の膨らみが移動していくのが生々しい。やがて腹の底まで獲物を押し込めた竜は、ぱっと煙とともに消え失せ、そこにはぽんぽんとお腹を叩いてげっぷをする、少しお下品な女の子だけが残った。


「おう、お疲れ」

『あざまーし』


 ふんすと鼻を膨らませた時にげふっとしてしまったらしく、花子さんは鼻の根本を抑えて涙目になっていた。


「花子さんって、凄いんですね」

「まあ、こいつが特別だわな。だからこそ、NHKのカシラ足らしめているんだが」

「NHK!?」


 一体お前は何を言っているんだと言いたげな目が向けられるが、そんなことを言われても紲にはどうしようもなかった。


『にほん、はなこさん、きょうかい。なのだぜー』

『『『『『おみしりおきをー』』』』』


 旅館中のドアが開き、顔を出した花子さんズが斉唱した。さすがにこれには紲も不意を突かれた。


 再びさよならを告げていったドアの音を見送ってから、紲はさて、と気を入れ直す。

「行くか」

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