第一章 異安心
旧交
メモ帳との睨めっこから顔を上げた楪が、ザルにあけていたなめこを鍋にかき入れ、満足そうに頷く。すっかり板についてきた手つきを横目に、紲は油を敷いたフライパンに卵を割り入れた。
「今日はターンオーバーの気分です」
「固さは」
「半熟で」
受け取った殻を三角コーナーへ捨てながらのおねだりに、フライパンを回しながら返事する。
焼けた卵白の滑りがよくなった頃、棚に置いていた子機が鳴った。電子音声で読み上げられた『メルルンさんです』に、紲は眉を上げる。
「また珍しい奴から電話が来たな」
「私が出ますね」
「いいや、俺が出るよ」
まさか元カノさんですかあ、などと茶化してくる上目遣いは満面の半笑いで一蹴する。
家にいる時はスマホへの着信を転送するようにしていた。大半は英経由のもののため助手に任せても良かったが、たまには任せられないものもある。そして稀に、任せない方が面白いものもあった。今回がそれだ。
ちょっとした悪戯を思いついた気分で、紲はフライパンを返してから子機に手を伸ばした。
「俺だ」
『おう、ウチだ』
「よし切るぞ」
わざと受話器を離しながら言うと、電話口から『待てやコラ』と恫喝する声が聴こえる。相変わらず元カノ(仮)は元気そうである。
「手短に頼む」
良い頃合いの目玉焼きを並べていた皿に載せ、二枚目のためにほんの少し油を足す。
『テメエに相談があるです。ちょいと妙な遺体が運ばれて来たですよ』
「いつの間に監察医に転身したんだ?」
『手短希望なら掘るんじゃねえですよ。その辺も後で説明すっからとにかく来い。ハナには連絡済みですから』
それだけ告げて、電話は切れた。
煮立った鍋に豆腐を入れながら、楪がそわそわとこちらを窺っている。
「飯食ってから出るぞ」
「私も行っていいんですか?」
「来るなと言ったらぎゃあぎゃあ喚く奴がどの口で」
「だって、修羅場
妄想の逞しい頬を指で挟み、紲は二個目の卵にヒビを入れた。
新鮮な山の幸を使った遅い朝食は白米を軽めに済ませ、バイクを走らせて大学病院まで向かう。着いたのはもうすぐ昼になろうかという頃だった。
エンジンを切ったところで、紲ははたと首を傾げる。
「そういや、どこに行きゃあいいんだ……?」
肝心なことを聞くのを忘れていた。無意識に彼女の勤務する科に一番近い裏手側の駐車場へ停めたが、そこは遺体を扱うような場所ではない。解剖を行うとなれば安置室でもないのだろう。
仕方なくLINEを立ち上げ、英にメッセージを送る。
既読を待っていると、近くに停まった車から降りてきた幸の薄そうな色白の女性が、こちらに気付いてあっと声を上げた。
「楪……?」
「えっ、嘘、美優!」
わっと顔を綻ばせ、楪は美優と呼んだ女性に駆け寄った。今朝の犯罪者と比べれば、天と地ほどの温度差だ。それにしても、今日は電話の主といい目の前の女性といい、同級生ラッシュである。
「紲さん、紹介しますね。中学・高校と一緒だった、同級生の小関美優ちゃんです。私の視力が落ちた時も、色々と手伝ってくれた優しい子なんですよ」
振り返って誇らしげに語る楪の隣で、美優は何かを言いたそうに口をわずかに開いたが、すぐに閉じて微笑みを取り繕った。その理由は、腰の後ろに隠した左手を見なくとも、ゆったりとした服に隠されたものを考えれば容易に想像がついた。
「楪。はしゃぎたいのは構わんが、その子にぶつかるなよ」
「はあい。……んっ? ええと……?」
注意の意味を咀嚼した楪が目を瞬かせ、バツの悪そうに頷く美優から視線を下ろすと、ようやく合点がいったようで手のひらを打った。
「わあ、おめでとう! 相手はもしかして、私も知ってる人?」
「うん……大輔なんだ」
「矢野目くんかあ。言ってくれれば良かったのに」
「ごめんね。その、デキ婚だったから。発覚したのも在学中だったし。言い辛くて」
撫でられたことで輪郭がはっきりした腹はたしかに、卒業式の三月頭から
「式は産後になると思うけれど、その時には楪を呼んでいい?」
「うん、もちろん。必ず行く」
楪の頷きにほうっと安堵したような表情を見せた小関――もとい矢野目美優は、紲に会釈をして院内へ向かった。
背中を見送りながら、楪が寂しそうに目を細める。
「少し、元気がなさそうでした」
「そりゃあ事情が事情な上、妊娠も大変なんだろうさ」
いつの間に既読と返信が来ていたスマホの電源を切った紲は、鉢合わせて美優に気を遣わせないようもう少しだけ間を空けてから、楪の手を引いた。
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