第二章 迎去ノ絵

花子さん会議

「きゃああああああああああああ―――――――――っ!?」


 春の朝のまだ肌寒い空気から、布団を抱き締めるようにして逃れ、惰眠を貪ろうとしていたところだった紲は、耳をつんざくような悲鳴に飛び起きた。

 我が家の女性陣の声ではない。一体何事かと思考を巡らせたところで、そういえば昨夜から居候を預かっていることを思い出した。


 寝ぼけ眼を擦りながら部屋を出る。廊下の先を窺うと、楪が壁にもたれて肩を抱き、ガタガタと震えていた。


「朝っぱらから騒々しいな、どうした」

「ぎじゅなざあああああああああん!!」


 こちらの姿を認識するや否や、楪は與次郎もかくやの勢いで猛然とダッシュしてきた。存外ラグビー部なんか似合うかもしれない。


「あうあ、あうあ、あうあうあ……」


 寝ぼけと涙とで血走った眼をかっと見開き、鼻水を振り回し、言葉を紡ぐことさえままならないほどに歯を打ち鳴らし、こちらの胸元にひしとしがみ付いた両の手がゴリゴリと肉を抉ってくる。まるで手揉み洗い機能搭載の洗濯機が物怪となり、呑み込まれてしまったかのような不快感だ。

 楪の嗚咽が辛うじて現実を教えてくれるが、そういえば昔、古くなって軋む音が喘ぎ声のように聞こえる洗濯機とかいう動画を見た記憶がある。


「とりあえず深呼吸しろ、洗濯機女。ほれ、ひっひっふー、ひっひっふー」

「しぇんたく……ひぐっ……じゃない、でふ……それっ、にっ……らまーず……法……」

「こっちの言葉について考える余裕があるなら落ち着けアホウ」

「びぇっ……」


 おでこに軽くチョップをくれてやっただけなのだが、楪は再び「あうあう」と繰り返すだけの怪異と化してしまった。逆効果だったのかもしれない。


「あらあら、楪様の元気な一声を耳にしたかと思えば、あらあらまあまあ」


 台所から顔を出したおヤチが、鈴のように妖しい声色で微笑んだ。


「朝方からお盛んでございますね?」

「うるせえよバカヤロウ」


 紲は真顔で抗議した。

 おヤチが持ってきてくれたティッシュで鼻をかみ、水を飲み、ようやく落ち着きを取り戻したらしい楪が、まだ少しぐずりながらも、言った。


「あの、トイレに、何か凄いのが、いっぱい……」

「あー、お茶会をしてたか」


 一発で、何があったか判ってしまった。


「昨夜ちらっと話しただろう、『トイレの花子さんズ』」

「めっちゃヤバいってやつじゃないですかー!?」


 いやだいやだと駄々をこねる腕を引きずりながら、楪をトイレの前まで連れていく。

 ドアのノックは三回。


「はーなーこさん、あっそびーましょー」


 声をかけると、ややあってから『はーあーいー』と幼い声が返ってきた。


「ここここ、声がっ!?」

「安心しろって、害はねえよ」


 ドアがひとりでに開く。そこでは、トイレの中いっぱいにおかっぱの少女――『トイレの花子さん』がひしめいていた。床はもちろん埋まっており、窓の縁や、トイレットペーパーの棚にまで登っている者もいる。これでも全国津々浦々の花子さんの中から、幹部クラスしか集まっていないというのだから恐ろしい。


 便器の上に正座しているのが、『日本花子さん協会』のドンにして、我が家自慢の娘っ子、花子である。……と、思う。正直、ちゃんと見分けられているか自信はない。


「おう、お早う。こいつが邪魔したな」


 しかし彼女たちは、ふるふると首を横に振った。


『もんだい、ない。きずな、いつもあさはおそいから、びっくりした、けど』


 かぼそい声だが、頭の中に直接響いてくるから、聴き逃すことはない。

 彼女曰く、地域によっては水を流しながら名前を呼ばれることもあるため、こうでもしないと返事が向こうに聞こえず、最悪、嘘扱いされてしまうのだという。世知辛い時代のようだ。


「昨日から、暫くうちに住むことになった、楪だ」

「ど、どうも。御廟楪です……」

『『『『『よろしくー』』』』』

「ぴぇっ……」


 花子さんズが一斉に挨拶したときに幽気が揺れたせいか、楪はまた泣きべそをかいていた。

 害がないと言われても、にわかには順応できないらしい。


「だからすまないが、会議の時間をずらしてもらうことはできるか?」

『『『『『いえっさー』』』』』


 彼女たちは立てた二本の指を、額の上で跳ねさせた。一糸乱れぬ動きである。これでシンクロナイズドスイミングでもやったらバカ受けするのではないだろうか。


「ず、随分フランクなのですね……?」

「だから言ったろ。いたずら半分じゃなければ、怒られねえもんだよ」


 そんなこちらをよそに、花子さんズは顔を突き合わせていた。


『じかん、どうするー?』

『うちはもっとはやくてもいーよ』

『えー、あーしはちょっとつらいかなー』


 代案の検討らしい。

 そこへ、楪がおずおずと手を挙げた。


「あの、今回は私が時間を知らないばかりにお邪魔してしまったようですし。私の方がこの時間にお手洗いを使わないようにしますから、どうぞ、いつも通りに」


 花子さんズの視線がぴたっ、と楪に集まったかと思うと、これまた全く同じタイミングでぱちくりと瞬かせた。


『あいやびっくり』

『すごくいいひと』

『それでは、おれいに』

『『『『『どうぞおつかいくださいませー』』』』』


 一度ドアが閉められ、また開いた。そこには、花子さんズの姿がない。


「良かったな。トイレ使ってもいいってよ」

「はあ、生きた心地がしませんでした……」


 がっくりと肩を落とした楪だったが、はたと振り返った。


「紲さんはあっち行っててください!」

「へいへい」


 こういうところは抜け目ないのが流石は女子だと、踵を返そうとした時だった。

 トイレの中へ一歩踏み入れていた楪の足元にぬっと現れた花子さんが、下から青白い顔で覗き上げ、小首を傾げた。


『おどろかせてごめんね?』


 それは、花子さんからすれば心配のつもりだったが、


「ひぃぃぃぃぃぃっ!?」


 ペタンと座り込んでしまった楪にとっては、やはり怪異以外の何物でもなかったようだ。











 やがて居間で朝食にありつこうとした紲は、珍妙な光景に頭を抱えた。

 楪はトーストに噛り付きながら「もうお嫁に行けない」としゃくり上げ、部屋の隅っこでは、体育座りの花子さんが申し訳なさと絶望に打ちひしがれている。

 そんな彼女たちの間を、ピエロのように行ったり来たりしているのが真多呂人形だった。


『おつおつ! パイセン、ちょっと漏らしちゃっただけっしょ? 誰にでもあるって。お漏らししねーで成長した人間はいねーっすって。アゲてこ? ね?』

「ごめんなさい、今はそっとしておいてください……」

『おおぅ、人形形態のオレにも動じないとは、こりゃガチでナーバってるっすね……』

「テメエもちゃっかり脅かそうとしてんじゃねえよ」

『も、とは酷いっすよマスター。花子のは不慮の事故っす!』


 ねー、と同意を求めるが、天井の染みから花子さんの視線がずれることはない。


「え、ちょ、しかってぃー? ちょーっち話聞いてくんね? 先っちょだけ、先っちょだけだから!」


 ついには人形から出てきて話しかけるが、効果は見られなかった。


「駄目っす。オレっちお手上げっす」


 白旗を上げて戻ってきたマタは、大人しくパンに手を伸ばした。


「マタちゃん。食事中なのですから、お漏らしだのC調言葉だのは言うものじゃありませんよ」

「おヤチ姐さん、そこオレが怒られるとこっすか! それを言うなら昨日、お菓子食べながらゲロだのなんだの言ってたオッサンズに言ってくださいっす!」


 マタがこちらに指を突き付けて吠える。

 思わぬ矛先を向けられ、紲とヨジロウはパンにジャムを塗る手を止めた。


「旦那様……?」

「誤解だおヤチ。山の神について話していただけだから、致し方なかったんだよ」

「ちっ、告げ口失敗っす」

「マタちゃん……?」

「退散するっす、ごちそうさまっすー!」


 おヤチが振ったビンタを華麗に躱したマタは、パンを加えたまま真多呂人形へと雲隠れてしまった。こうなってしまってはどうしようもない。人形を引っ叩いたところで、中に入っているだけのマタの魂がどうなるわけでもないからだ。


「まったくもう。あとでお灸をすえて差し上げなければですね」

「パンまで消えたぞ。どうなってんだアレ……」


 諦めて腰を落ち着けたおヤチとともに朝食を食べ進めていると、軒先から声がした。


「ごめんください、長南です。紲くん、いる?」

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