第54話 修羅場

 久しぶりの部活に、秋姉と村野という男との関係性の考察、そして課題と、何かと疲れる一日だったせいか、布団に入ると直ぐに睡魔に誘われ、目を閉じた。


 夜中、不意に身体に重みを感じ、おぼろげな意識の中目を開ける。俺の目の前には少し薄着の秋姉がいた。


 あー、秋姉か。そういえば、幼い頃は一緒に寝たこともあったっけなぁ。

 は!? 秋姉!?


 その瞬間、完全に目が覚めた。


「あ、秋……っ!」


 俺の口を秋姉が抑える。そして、ウインクをしながら「シーッ」と言った。


「雪穂ちゃんにバレちゃうから、ね?」


 秋姉の言葉にハッとしつつ、コクリと頷く。秋姉がどういうつもりで俺に跨っているのかは不明だが、どういう事情があるにしてもこの状況を他人に見られるのは不味いだろう。


「ど、どういうつもりだよ?」


 小声で秋姉に問いかける。

 暗くてよく見えなかったが、秋姉は少し硬い笑みを浮かべた。そして、俺に覆いかぶさり耳元でそっと囁く。


「どういうつもりだと思う?」


 一瞬で頭の中が真っ白になった。

 秋姉はぎこちない笑みを浮かべて俺を見ている。


 落ち着け。冷静的に考えろ。

 秋姉には彼氏がいるはずだ。そんな状況で、こういうことをするのはよくない……はずだ。


「秋姉には、彼氏がいるんじゃないのかよ」

「いないよ」


 秋姉の表情から笑顔が消えた。


 いない……? じゃ、じゃあ、なんでこんなことを……。いや、秋姉がこんなことをする可能性がたった一つだけある。

 だが、その可能性はずっと前に既に消えたはずだ。


「本当は分かってるんでしょ?」


 秋姉がそう言って、俺の頬に手を伸ばす。

 ゴクリと生唾を飲みこむ。心臓の音がやけに大きく聞こえる。


 秋姉の顔が近い。綺麗な顔だ。大学に行く前はまだ幼さが残っていた気もするが、今の秋姉は完全に大人の色気を纏っていた。


「次郎はどうしたい?」


 秋姉は俺を試すようにそう言って、顔を寄せる。秋姉の吐息が俺の鼻に当たる。だが、不快感は無い。

 俺が秋姉の立場なら、本当に好きな相手じゃない限りこんなことはしない。なら、きっとそういうことなのだろう。

 その上で、俺がどうしたいか。

 俺は秋姉に恋をしていた。きっと、高校一年までの俺なら、流されていただろう。

 だけれど、今の俺の頭の中には決して忘れることのできないくらい大事な女の子がいた。そして、その子を思いだしたことで、俺は冷静さを取り戻し、俺は秋姉の手が少し震えていることに気付けた。


 止めよう。

 秋姉がどういう思いなのか、俺には全く分からない。でも、きっとここで俺が流されても誰も幸せにならないことくらい分かる。


 秋姉、手を離してくれ。


 そう言おうと思った瞬間、俺の部屋の扉が開く。

 その瞬間、外からの光が差し込むと共に、扉の先にいた人物を見て、俺は心臓を掴まれたような感覚に陥った。


「く、黒井……」

「なに、してんだよ……」


 そこには唖然としている黒井の姿があった。



*******



 深夜の一時半頃。残暑の残る季節ではあるが、俺の部屋の中の空気は恐ろしく冷え切っていた。

 鬼のような形相で俺を睨みつける黒井、そして、身体を縮こまらせて正座する俺。


 え……? なんで俺が悪いみたいになってんの?


 全ての元凶とも言える秋姉は、黒井の姿を見た途端に立ち上がって、「明日、早いから寝るね」と言って寝室に逃げていった。


『じゃ、じゃあ俺たちも寝るかー』

『正座しろ』

『……へ?』

『正座しろ。クラスの奴らにこのことをバラされたくなかったらな』


 久しぶりに黒井の脅しにより、俺はなすすべもなく黒井の前に正座することとなった。


 深夜のせいか外から聞こえる音も殆ど無く、部屋の中に静寂が広がっている。

 沈黙を打ち破ったのは黒井だった。


「やったのか?」

「え?」

「やったのか?」


 鬼気迫る表情とは正しくこのことだろう。

 それくらい黒井の表情にいつものような余裕は無かった。


「や、やってません!」

「本当だろうな?」

「本当です!」

「キスは?」

「やってません!」

「ハグ」

「やってないです!」


 そこまで聞くと、黒井はそこで初めて表情を緩めた。それと供に、部屋の空気も少しだけ緩んだと思ったのも束の間、直ぐに黒井の目がキッときつくなる。


「やる気だったろ?」

「……へ?」

「正直に言え。やる気だったろ」


 黒井が俺を咎めるようにそう言う。


「いや、断るつもりだったけど」

「嘘だ」

「本当だって」

「嘘つかなくていいぞ。篠原さんみたいな、スタイルよくて、可愛さと美しさを兼ね備えた女性に詰め寄られて興奮したんだろ? まあ、そうだよな。篠原さんには、私みたいなちんちくりん女子高生と違って色気もあるし? 胸だって大きいもんな」


 ぐちぐちとらしくもなく、拗ねたような口調で俺を責め立てる黒井。何故ここまで言われなくてはならないのだろうと思いつつ、黒井の言葉に首を横に振った。


「何言ってんだよ。お前も十分スタイルいいし可愛いだろ」


 その言葉を聞くと、黒井は少しだけ静かになった後、突然俺に覆いかぶさって来た。


「は!? え!?」


 何が起きたのか分からず混乱している、俺を床に押し倒した黒井はそのまま俺を真っすぐ見つめる。

 黒井は呼吸を荒くして、焦点が合っているのか不安になるような目で俺に詰め寄る。


「なら……私とならやってくれるのかよ?」


 そして、そう呟いた。


 心臓の鼓動が早鐘を鳴らす。冗談なのか、本気なのか全く分からない。

 「流されてしまえばいい」という悪魔の囁きと、「正気じゃない相手とやるのはよくない」という天使の囁きが俺の脳内を交差する。

 何も言えないまま、どうすれば良いかも分からぬまま、ただただ黒井の目を見つめる。

 たった数秒が永遠のように長く感じられた。


 暫くして、黒井の呼吸が大人しくなった。それと供に、黒井は目を見開き、慌てた様子で俺の腕から手を放す。


「わ、悪い……。冷静じゃなかった。私も、もう寝るわ……。やってないなら、いいんだ」


 それだけ言い残して、後悔を表情に浮かべながら黒井は部屋を後にした。

 黒井が部屋を後にした後、俺は床にそのまま寝転がり、額を手で覆った。


「……なんなんだよ。まじで心臓に悪い」


 秋姉も、黒井も、何を考えているのか全く分からない。


 車が走り去る音が外から聞こえてきて、漸く俺は布団に潜りこんだ。だけれど、直前まで手の届く位置にあった二人の姿を思い浮かべると悶々としてしまう。

 仕方なく、俺はティッシュ箱に手をかける。

 そして、十五分後に自己嫌悪にさいなまれながら消臭スプレーを辺りにまき散らし、眠りについた。



********



 翌朝、あからさまに俺たちの空気はぎこちなかった。

 いや、秋姉だけはいつも通りだった。


「うーん! やっぱり雪穂ちゃんの朝ごはんは最高だよ!」


 そんなことを言いながら笑顔でもきゅもきゅとご飯を口に入れる。まるで、昨日のことなんて無かったかのようだった。俺自身、実は昨日のことは夢だったんじゃないかとまで思っている。


 だが、俺を見て気まずそうに視線を逸らす黒井が、昨夜の出来事を如実に表していた。

 結局その日、気まずさに耐えかねて俺と黒井は別々に登校した。



 その日の学校は、ボーッとして過ごした。

 秋姉のこと、黒井のこと、軽音部……はいいか。残念ながら二人に比べると優先度は遥かに下だ。

 いつもなら黒井が昼休みに俺を誘うが、今日はそれも無かった。クラスはにわかにざわついており、一部の男子たちはガッツポーズをしていた。

 そんな中、教室でお弁当を広げることもなく、空に漂う雲を眺めていると肩を叩かれた。振り向くと、そこには村田の姿があった。




 村田に連れられて来た場所は屋上だった。

 秋晴れの空には白い雲が気持ちよさそうにフワフワと漂っている。


「……気持ちいいだろ? 俺のベストプレイスだ」


 吹き抜ける風に目を細めながら村田はそう言った。そして、扉の傍に出来ている影に腰かける。


「佐々木も座れよ」

「あ、ああ」


 村田の言葉に頷き、隣に腰かける。

 村田とはあの球技大会以来、時々遊びに行ったりしている。友人と呼んで差し支えない関係だろう。


「……で、なにかあったのか?」


 焼きそばパンを一口頬張ってから、村田が問いかける。


「なにかって、何だよ?」

「……とぼけなくていい。……お前と黒井さんの様子がおかしいことは、クラスの全員が気付いている」


 村田は坦々とした口調でそう言った。事実、朝からクラス中から視線を感じていたし、嘘ではないのだろう。


「……少しでも話せば楽になる。……俺でよければ聞くぞ」


 優しい声だった。

 正直、昨夜の一件を話すことには気が引けたが、俺一人では半日使っても考えが纏まらなかった。

 なら、村田に意見を求めた方がいい気がした。


「なあ、女性が異性を押し倒すときってどんなことを考えてるんだろうな?」

「……全く分からん」

「だよなぁ」


 残念ながら村田にも分からないようだった。

 だが、村田は村田なりに考えてくれたらしく、いくつか質問を投げかけて来た。


「……女性はナイフを持っていたか?」

「いや、持ってない。てかそれ、どういうシチュエーション?」

「……周りにお前の命を狙う敵の姿は?」

「いや、いない。そんなアニメみたいな展開現実でないだろ」


 俺の返答を聞いた村田は神妙な面持ちで、ブツブツと独り言を呟く。そして、顔を上げた。


「……殺意、善意は無いのだろう。となると、好意じゃないか?」


 どうやら村田が辿り着いた結論も俺と同じものだったらしい。

 やっぱりそうなるよな。


 でもなぁ……。


「その顔だと、好意ではないとお前は思ってるみたいだな」

「まあ、少し思うところがあってな」


 俺がそう言うと村田は天を仰ぐ。そして、深呼吸を一つしてからスッと立ち上がる。


「……やっぱり、本人に聞いてみるのがいいのではないか?」

「まあ、そうだよな」


 村田の言葉に返事をし、俺も立ち上がる。そして、一つの決意を固めて村田と共に屋上を後にした。

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