第29話 球技大会の終わり
屋上の扉を開けた俺の目に真っ先に飛び込んできたのは、金満先輩に跨る黒井の姿だった。
……へ!? あいつ何してんの!?
慌てて黒井の傍に駆け寄ろうとしたところで、黒井の怒声が聞こえた。
あの黒井が人前で怒りを露わにしていることにも驚いたが、それ以上に俺のことで黒井が怒っていることが意外だった。
そして、そのことを嬉しく思う自分がいた。
とはいえ、流石にこれ以上黒井に暴力を振るわせるわけにはいかない。黒井の背後に近づき、黒井の右腕を掴む。
「黒井、その辺にしておけ」
「……なっ!? お前、何でここに?」
黒井がこちらに振り向く。それと同時に目を見開いた。
おお。こいつが動揺をこんなに表に出すのは珍しい。
「まあ、ちょっと心配だったんだよ。金満先輩が変なことしてるんじゃないかってな。まあ、逆だったけど」
怯えた表情を見せる金満先輩を一瞥して呟く。
金満先輩が黒井に手を出す可能性は考えていたが、黒井が手を出すとは思っていなかった。
「金満先輩」
黒井の手を離し、金満先輩に詰め寄る。
「もう分かったと思いますけど、黒井はあんたと付き合う気が無い。だから、もう黒井に手を出すな」
俺の言葉を聞くと、金満先輩は歯ぎしりを一つしてから立ち上がる。そして、こちらを強く睨みつけてきた。
「だ、だ、誰がそんな醜い女に手を出すか! それより覚えていろよ! この僕に手を出したんだ! これからの高校生活を楽しめると思うなよ!!」
捨て台詞を吐くと、金満先輩はそのまま逃げるように屋上から出ていった。
「……あんなこと言ってるけど、大丈夫なのか?」
「ああ。問題ねーよ。既に手は打ってる。それに、今回の球技大会で金満先輩の評判はがた落ちだ。学校で聖女と言われている私と、金持ちと顔だけが取り柄のスライム野郎。どっちを信じるかなんて、火を見るより明らかだろうよ。そんなことより……」
そこで黒井は口を閉じて、俺を睨みつける。よく見るとその耳は少しだけ赤くなっていた。
「お、お前、いつから屋上にいた?」
「『あいつを悪く言うのは許せねえ』ってところからだな。いやー、あのあいつって俺のことだろ? まさかそこまで黒井が俺のことを評価してくれてるとは思わなかったぜ。まあ、何だ……ありがと――ぶへっ」
感謝の言葉を伝えようとしたら、黒井にぶたれた。
「え? え? な、何で?」
「ち、ちげーよバーカ! 勘違いすんな! あ、あれはお前のことを言ってたわけじゃねえよ!」
早口で黒井が捲し立てる。その顔は真っ赤だった。
「え……? マジで? じゃ、じゃあ誰のこと……?」
「あ、あれはあいつだよ!
「あ、会津!? 誰だそいつ!?」
「う、うっせえ! と、とにかく勘違いすんじゃねえ! あれだからな。私が思わずカッとなったのもお前を悪く言われたからとかじゃねーから! 全部、会津君をバカにされたからだからな!」
そう言うと黒井は顔を真っ赤にして、屋上から出て行った。
え、ええ……。
「会津って誰だよ……」
俺の心に一つの疑問を残して。
***
バスケの決勝戦が終わったからと言って球技大会が全て終わりという訳ではない。
他の競技も順に決勝戦が行われており、最後に行われるのがテニスの決勝戦だった。
特に女子テニスの決勝戦が行われるテニスコートでは、大勢の観客が集まっていた。
その理由は一つ。黒井雪穂が出場するからだ。
「……そういえば、佐々木は黒井さんと知り合いなのか?」
校舎の二階から村田と供にテニスの決勝戦が行われるテニスコートを眺めていると、村田に質問を投げかけられた。
「まあ、同じクラスだし知り合いだろ」
「…………そうか」
村田がそう呟いて会話が途切れる。
テニスコートでは黒井が得点を挙げ、男子たちが野太い歓声を上げていた。
「……兄貴が来たよ」
村田がポツリと言葉を漏らす。
「……悪かった。いい友達を持ったな。もう一度、今度はお前が誇れる兄として残り少ない高校生活を楽しんでみせる。……そう言っていた」
テニスコートに目を向けながら、村田の話を聞く。
そうか。村田のお兄さんは、お兄さんなりに答えを見つけることが出来たのか。
「……幼い頃の兄貴はかっこよかった。……俺のヒーローだった。……でも、中学生の頃の兄貴は中二病でクラスの奴らからいじめられてたらしい。……親にも、俺にも相談せずに兄貴は一人でいじめと戦っていた。……俺が気付いた時には、兄貴は全てを諦めていた。…………かっこよかった兄貴は、一部の悪意ある人間の手でいなくなった」
「そうか」
こんな時、うまく言葉を返せない自分が少しだけ嫌になる。
コミュニケーション能力というやつがあれば、上手く言葉を返せたのだろうか。
「……青春はいい言葉であり、呪いのような言葉だ。……青春時代は殆どの人間が未熟で、過ちを犯す。……だからこそ、兄貴の様に傷つく人間が出てくる。…………だけど、本当は俺が兄貴を支えなくちゃいけなかったんだ。かっこよくて、ヒーローだと思ってた兄貴でも未熟だった。だから、俺が、両親が兄貴を支えなきゃならなかった。………それをずっと後悔していた」
村田が空を見上げる。
一瞬だけ、その顔に後悔が写る。だが、直ぐに村田は笑顔を浮かべた。
「……だから、ありがとう。……今回、佐々木のおかげで兄貴を止めることが出来た」
「でも、俺はお前のお兄さんの望みを潰したことになるんだぞ。それでも、良かったのか?」
「……いいんだ。……俺が好きな兄貴は、あんなことをする人間じゃない。……俺の我儘だけど、それでももう一度かっこいい兄貴を見ることが出来た。……兄貴のやりたいことを邪魔したのは、弟失格かもしれないけどな」
そう言うと村田は自嘲気味に笑った。
「そんなことないんじゃないか」
「……そうか?」
「ああ。村田のお兄さんは、決勝で俺を庇った時に言ってたよ。『弟が見ていた』ってな。村田のお兄さんは村田が誇れる兄貴でいたかったんじゃねえかな。だから、弟の村田がかっこ悪いと思うお兄さんを止めようとしたことは間違いじゃねえよ。……多分な」
「……多分、か」
結局のところ、俺は村田のお兄さんじゃないから断定することは出来ない。
でも、予想くらいはしてもいいだろう。
「…………そうだな。そうだといいな」
村田はテニスコートの方に視線を向けたままそう呟いた。
その表情は良く見えなかったが、その声は穏やかなものだった。
テニスコートの方から一際大きな歓声が沸き上がる。
俺と村田の視線の先では、黒井が満面の笑みでピースをこっちに向けていた。
「…………やっぱり、俺は佐々木と黒井さんは只ならぬ関係だと思う。……多分、だけどな」
村田が意地悪そうにそう言った。
「そうか。なら、そうかもしれねーな」
そう言ってから、俺と村田は顔を見合わせて笑った。
***
球技大会が終わった。
俺たちのクラスは黒井たちのダブルスペア以外は碌な成績が残せなかった。それでも、クラスの男子も女子も黒井の活躍に騒ぎ立てて喜んでいた。
男子や女子に囲まれている黒井は笑顔だったが、少しだけくたびれた顔をしていた。
それを横目に俺はクラスを後にした。
のんびりと家に向かって帰る。
神田と音羽はどうなったのだろう。いや、正直結果は分かり切ってる。それでも、もしかしたらと思わないわけでもない。
「先輩。待ってました」
不意に聞こえた声に顔を上げる。
そこには、笑顔を浮かべる音羽の姿があった。
「お、音羽? 何でここに?」
「何でって、そんなの決まってるじゃないですか。先輩がしてくれた告白の返事を返すためです」
***
立ち話も何だから、という音羽の提案で俺たちは近場にあった公園にやって来た。
神田とバスケの練習をしたいつもの公園だ。
公園のベンチに隣り合って座る。
俺から声をかけるか迷っていると、音羽が深呼吸を一つしてから俺の方に顔を向けた。
「先輩、焦らしても困るだけだと思うので単刀直入に言いますね」
「お、おう」
そんなわけないと頭で思いながらも、心はそうはいかない。もしかしたら、もしかするんじゃないかと期待して、心臓は激しく鼓動をうつ。
だから、次の音羽の言葉を聞いて、「やっぱり」と思いながらも肩を落とした。
「ごめんなさい。私は、先輩とは付き合いません」
音羽はそう言って頭を下げた。
「そうか」
「はい。それと、ありがとうございました」
一度顔を上げた音羽が再び頭を下げる。
「何をだ?」
「先輩がいなかったら、きっと私も神田先輩も変われなかった。今みたいに笑顔でいることは出来ませんでした。だから、ありがとうございます。先輩とは付き合えないけど、でも、私は先輩のこと好きですよ」
音羽はベンチから立ち上がって、小悪魔のようにウインクをして微笑んだ。
そして、そのまま鞄を持って公園の外に向けて歩き出す。
「あ! 言い忘れてましたけど、あくまで神田先輩の次だから勘違いしないでくださいねー!!」
公園の出口付近でブンブンとこっちに手を振ってから音羽は姿を消した。
音羽は後輩だった。
そして、音羽にとっても俺は先輩で、それ以上にはならない。最後に彼女は言動でそれを伝えてきた。
「はぁぁぁ。失恋しちまったなぁ」
深いため息をつき、空を見上げる。
ショックはショックだ。だけど、思いのほか自分が傷ついていないことに気付いた。
それは音羽が笑顔だったからだろうか。それとも、フラれる前からこうなることが予想出来ていたからか。
はたまた――。
「フラれてんじゃねーか」
「いつからいたんだよ」
「さっきだよ、ついさっき。お前の後輩が笑顔で走り去って行ったからお前がフラれたってことは分かるけどな」
ニヤニヤとした意地悪い笑みを浮かべて、黒井は俺の隣に座った。
「いいのかよ」
「何がだよ?」
「いや、お前はクラスの奴らに優勝祝い行こうって誘われてただろ」
「ああ。それなら断った」
何でもないように黒井がそう言った。
「断ったって……それでいいのかよ? 皆に優しい聖女の黒井さんはどうしたんだ?」
「ばーか。もう疲れたっつーの。さっさと帰ってポテチとコーラで一杯やりたいぜ」
そう言ってコーラを煽るような仕草を見せる黒井。
その姿は聖女というより、晩酌を楽しみに家へ帰るおっさんのようだった。
「そうかよ。じゃあ、早く帰れよ」
「何言ってんだよ。お前も私の家に来るんだよ。マ〇カするぞ」
「いや、俺フラれたばっかで傷心中なんだけど……」
「フラれたからこそだろ。歌詞でもあるじゃねーか。盗んだレーシングカーで走り出すってよ。それが青春だろ?」
それは絶対に違う。
そう思ったが、口には出さなかった。
「なあ、黒井。……決勝戦の最後さ、俺がパス出してたら音羽と付き合えたと思うか?」
何となく、口からその言葉が出ていた。
そんなわけないと思っていても、少しだけその考えが残っていた。
最後、俺がシュートを決めていたら、あの試合のヒーローは俺で音羽の見る目も変わったのかな、と。
「そんなわけねーだろ」
そんな俺の考えを黒井は一蹴した。
「大体、あそこでお前が無理にシュート撃っても入らなかったっつーの。ま、もしお前があそこでパス出したことを後悔してるなら、この私が言ってやるよ」
そう言うと、黒井は立ち上がり、俺を見下ろしてきた。
「お前の出したパスはあの試合に置いて何よりも価値のあるパスだった。他の誰が何と言おうと私はお前のパスを評価する。よくやった」
どこまでも偉そうにそう言ってから、黒井が無邪気な笑みを浮かべる。
その笑顔を見ると、霧が晴れたように心の中が澄んでいった。
こうして黒井が俺の選択を評価してくれるなら、後悔も少しは減るというものだ。
「よし! ゲームするか! 行くぞ、黒井!!」
「それはこっちのセリフだっつーの。ま、バカはバカらしく元気に次の恋に突き進めってことだ。じゃあ、コーラとポテチ買ってから私の家に来いよ」
「……え? 二人で行くんじゃねーの?」
「やだよ。何でそんな同棲してるカップルみたいなことしなきゃいけねーんだ。大体、この私がわざわざお前を慰めてやったんだぞ? なら、お前はそのお礼にコーラとポテチを貢ぐのが普通だろ」
こ、こいつ……!
何故、こいつは好感度を上げた後に必ず好感度を下げるようなことをするんだ!
「じゃあ、私の家に二十分後な。ダッシュで来いよ。まあ、流石にポテチとコーラ代は払ってやるから。ほれ、さっさと行け」
しっしっと手を振る黒井。
腹立たしいことにそう言う黒井の表情は滅茶苦茶可愛かった。
「くそったれ! コンソメ買ってやるからな!」
「てめえ! のり塩に飽き足らず、コンソメかよ! せめて、塩系にしやがれ!!」
黒井の怒声を背に、走ってコンビニに向かう。
盗んだバイクで走るわけでもなければ、恋人とオシャレなカフェに行くわけでもない。
ただ、口の悪い美少女と一つ屋根の下でポテチとコーラを楽しみながらゲームをする。
それが、今の俺の青春だ。
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