第5話 黒井雪穂の変化
その日から、意外なことに黒井は愚痴をあまり言わなくなった。いや、言うには言うのだが、俺が勉強を始めると大人しくし始めるのだ。
かといって、スマホをいじったり、ゲームをしたりするわけでもない。黒井も俺の隣で一緒に勉強をするようになった。
遂にテスト勉強を本格的に始めたのか。そう思った。
だが、一緒に勉強している内にそれがどうやら少し違うことが分かった。
「おい。そこ、間違えてるぞ」
「え? どこだ……?」
「そこの計算だよ」
「あ、本当だ。すまん、助かった」
こんな具合に、黒井は俺がミスをするとそこを指摘してくれた。俺が分からないところがあれば、ため息をつきながらも直ぐに解説をしてくれる。
明らかに、俺の勉強の進み具合を隣で見ていないと出来ないことを黒井はしていた。
「お前、もしかして俺のために勉強見てくれてる?」
「はあ? 何言ってんだ。お前の為じゃねーよ。人に教えることが勉強になるからやってるだけだ。勘違いすんな」
そう言うと黒井は、俺を睨みつけてから勉強を始めた。
黒井の本心がどこにあるかは分からない。
もしかすると、俺のためにそうしてくれているのかもしれないし、本当に黒井は自分のためにそうしているのかもしれない。
だが、そんなことはどっちでもいい。
「ありがとう」
「ふん」
どっちにしても、黒井の行動が俺にとってありがたいことに変わりはないのだから。
そうこうしている内にテスト当日がやってきた。
「おっす、優斗。調子はどうだ?」
「次郎、おはよう。うん。今回はかなり自信があるよ。次郎、負けないから」
そう言う優斗の顔は自信に満ち溢れていた。
人は変わる。
容姿が変わったわけじゃない。でも、今の次郎は以前とは違い、顔を上げて堂々としている。
それだけで、以前よりずっとカッコよく見える。
「俺だって負けねえよ」
優斗にそう言い残して、俺は自分の席に着く。
テストの日は、出席番号順に席が並べられる。俺の学校は男女混合のあいうえお順で出席番号が割り振られる。
そして、このクラスには、「け」、「こ」から始まる名前の人はいない。つまり、俺の前の席に座るのは黒井雪穂ということになる。
黒井が俺の前の席に座る直前に、俺の方にチラリと視線を向ける。
そして、小さく口を動かした。
何て言ったかは分からない。
だが、黒井のことだ。恐らく、精々頑張れとかそんなところだろう。
「おう」
だから、俺は黒井の耳に入るくらいの大きさでそう呟いた。
***<side 黒井雪穂>***
最悪だ。
それが、屋上でそいつに出会った時に最初に思ったことだった。
誰もが羨む完璧美少女。
それが、周りから見た時の黒井雪穂と言う少女の評価だ。だが、実際の私はそんな完璧美少女とはかけ離れている。
平気で人の悪口は言うし、ですます調で話すなんて面倒なこと絶対にしない。
それでも私は完璧美少女を演じる。それがこの世界を生きていく上で賢い方法だから。
だが、そんな私の本性を一人の男に見られた。
佐々木次郎。
高校一年生の頃、私に三回くらい告白してきた典型的な勘違い男だ。脅される。そう思った。
だから、先手を打った。
あいつに冤罪を擦り付けるための動画を撮った。それでも、こいつが脅して来たら私はそれに従わざるを得ない。
そう思ったが、予想外にもそいつは私に特段おかしなことを要求したりはしなかった。
要求は一つ。勉強を教えてくれというもの。
正直に言うと、バカだと思った。
学年一の美少女の秘密を知っておきながら、要求するのがそれなんだから、そう思っても仕方ないだろう。
だが、こいつは所詮男。私が部屋に呼べば、その本性を露わにする。
そう思っていたが、こいつは一向にそういったことをする気配も無ければ、私を新たに脅そうとしようともしない。
私の家で、ただ私の愚痴を聞き、黙々と勉強するだけ。
その様子を見て、私は確信した。
こいつはバカだ、と。
それも、この社会で生きづらい思いをするタイプのバカだと思った。
だが、打算や駆け引きのないそいつとの時間は割と居心地が良かった。
自ら表の顔を作って演じているとはいえ、自分の本当の姿で付き合える人が欲しくないわけではない。
別に、こいつになら嫌われてもいいし、卑猥なことを要求してこないなら丁度良いと思った。
だから、私にとって佐々木次郎という男は、都合のいい男。そして、今回のテスト期間が終われば関係も無くなる男に過ぎなかった。
「なのに、何でかなぁ」
テスト前日、放課後の屋上で一人呟く。
今から私がしようとしていることは、私のとって何の得にもならない、私らしくないことだった。
「……黒井雪穂? 何であんたが私を?」
屋上の扉が開き、一人の少女が入って来る。
彼女の名前は宮本朱莉。クラスでも一人でいることが多い美少女。
そして、あの佐々木が片思いしている相手。
「いえ、何でもありません。ただ、少しお話ししたいと思っただけです」
顔に、人当たりの良い笑顔を張り付ける。すると、彼女は怪訝そうな顔を浮かべる。
「その気持ち悪い笑み、やめてくれない? それに、話なら別にクラスでも出来るでしょ。わざわざ屋上に私を呼び出した理由は何かって聞いてんだけど」
驚いた。
どうやら、この女は私の作った笑顔を見破れるらしい。まあ、見破っていたとしても、それを今までに言い出す様子も無かった。
恐らくだが、私が猫を被っていようがどうでもいいと思っているのだろう。それならそれで、好都合だ。
「そうですか。なら、本題に入りましょう。佐々木次郎君を知ってますよね?」
その名を出すと、宮本さんの表情が少しだけ変わる。
おや? 絶対に脈無しだと思っていたが、もしかすると可能性が僅かでもあるのだろうか?
「佐々木次郎さんにお願いされました。宮本さんに好かれる男になりたいから勉強を教えてくれ、と。私が言うのも何ですが、この一週間の彼の頑張りは目を見張るものがあった。彼の気持ちは本気です。だから、どうか彼が告白してきたときは真剣に向き合ってあげてください」
それだけ告げて、私は宮本さんに背を向ける。
言いたいことは言えた。後はさっさとここを出ていくだけだ。
「待って」
しかし、そんな私を宮本さんが呼び止める。
「何ですか?」
「……正直、驚いた。あんたは誰か一人に肩入れするような奴じゃないと思ってたから。でも、悪いけど私はあいつと付き合えない。……好きな人がいる。だから、あんたからあいつに――」
「逃げるな」
俯く宮本朱莉にそう言い放つ。
「あいつは、あんたに自分の気持ちを伝えるために必死だ。そんな相手から、逃げるな。ちゃんと向き合って断れ。フラれる覚悟くらい、あいつはしてる。それでも、好きだからお前に告白しているんだ。好きな人がいるなら、お前の口からそう言え。それが、それだけが告白される人が出来る最大限の誠意だ」
「あ、あんた……その口調……」
おっと。ついうっかり、本性が出てしまった。
だが、まあいいだろう。この女は人に言いふらしたりしないはずだ。
「じゃあな。後、この屋上でのことは誰にも言うなよ」
そう言い残して私は屋上を後にした。
翌日のテスト当日。
私の後ろの席であのバカは必死に最後の足掻きをしていた。
普段から勉強してないから、こういう時に焦ることになるんだよ。そう思いながらも、必死なバカの姿を見て、私の口は勝手に動いていた。
『精々頑張れよ』
「おう」
バカが呟く。
全く、私らしくない。
バカの為に、わざわざ屋上に宮本朱莉を呼び出したり、バカの為にエールを送るなんて……。
だが、まあ、今の気分は悪くない。
***<side end>***
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