もしかすると途中で待っていてくれているかも、などと思ったが、それは甘かったようだ。

 渡された毛皮の上着のおかげで、寒さはかなり軽減された。

 それでも手足は凍えてほとんど動かない。

 指先が痛くてたまらない。


 30分ほどかかってようやく小屋にたどり着く。

 小屋の煙突からは煙が立ち上っていた。


 どうやらあの男にとって、自分のことはもう終わったことらしい。


(わたしも失礼だったけどさ)


 助けてくれたし、親切にも色々渡してくれたけれど、あの状況で女性を森の中に放置して帰ってしまうドライさは、現代日本人の感覚からするとちょっとありえない。

 それでも、ちゃんとお礼を言いたい。

 それに……厚かましいかもしれないが、できれば一晩泊めてもらえるとありがたい。

 ベッドを貸せとまでは言わないから、部屋の隅っこでもいいから貸してもらえないだろうか。

 明日の朝にでも出ていけば、さほど迷惑を掛けることもないはずだ。


(それでも怖いものは怖いんだよ)


 ドアの前に立つが、ノックする勇気がなかなか出ない。

 しかし少しずつ空が暗くなってきているし、何より寒い。

 それに、あの男の顔を思い出すと足がすくむ。

 しかし、今から一日歩いて駅とやらにたどり着くのは不可能だ。

 もうほかの道はない。


 それに、


(いい匂いがするんだよね……)


 思い切ることができずにいるが、家の中から漂ってくる香りのせいで、お腹がグウと鳴る。

 一応、渡されたカバンの中には、干した肉と芋のようなものが入っている。

 それを見て「あとは勝手に生きろ」と突き放されたように感じる。


 そうは言っても、ずっとここに立っているわけにも行かない。

 第一、ここで凍死なんかしたら、あの男に余計に迷惑をかけてしまうだろう。


(ええい!)


 コンコン、とノックする。

 返事はない。

 もう一度ノックするが、やはり返事はなかった。

 もしかすると、あたしを家に入れる気がないのかも、という可能性に気づいて、サァっと顔が青ざめるのがわかる。

 あれだけ失礼な態度をとったのだ、そうなっても無理はない。

 狼から助け出し、この鞄を譲ってくれただけでも破格の待遇なのだ。

 それでも、ここで見捨てられたら。


(間違いなく凍死する!)


 今だって寒すぎて、歯の根が合わないのだ。

 諦めずに、コンコン、コンコンとドアを何度もノックする。

 しまいには、コンコンではなくドンドンと扉を叩く。

 それでも返事がないので、あたしはとうとうドアノブに手を伸ばした。


 ドアをそっと開けると、始めに迷い込んだあの部屋だ。

 凍えた体に、部屋の暖かい空気がありがたくて泣きそうになる。

 無骨なテーブルがあり、そこにはスープ皿とマグカップ。

 でっかいパンにはナイフが刺さっている。


 男はどうやら食事中だったらしい。

 こちらをちらりとも見ずに、湯気の上がったカップに口をつけている。


(……無視ですか)


 まぁ、嫌われてはいるのだろう。

 自分にしても、こんな筋肉の固まりみたいなワイルドな男性は苦手だ。

 ぶっちゃけ恐怖しかない。


 とはいえ、


(少しくらい反応があったって良さそうなものだ)


 と思う。

 しかたなく、


「あの」


 思い切って話しかけてみる。


「先ほどは、助けてくださってありがとうございました」


 日本語が通じるかどうか分からなかったが、とりあえず第一目的だった男への礼を済ませる。


「あと、この防寒着と、食べ物にお金まで……ありがとうございます」


 男は耳が聞こえないのかと思うくらいには反応がない。

 しかし、ここに迷い込んだ時、あたしの声に反応していたのだから、耳が聞こえないということはないだろう。

 もう、反応を待つのはやめよう。

 こちらの要件を済ませてしまえ。


「それと、先程は失礼な態度をとって申し訳ありませんでした」


 頭を下げる。

 許してくれるだろうか。

 頭を下げたまま、そのまま要望まで伝える。

 厚かましいとは思ったが、もはや今更の話である。


「それで……本当に申し訳ないとは思うのですが! 明日の朝まで、ここにおいていただけないでしょうか!」


 ……沈黙。

 あたしは頭を下げたまま、男の様子をうかがう。

 男は気にした様子もなく椅子から立ち上がった。


「え、あ、あの、待っ……」


 頭を上げて、男の様子を伺うが、男は部屋の端にあるキッチンらしき場所に向かい、何やらやっている。

 どうして良いかわからず突っ立っていると、男は皿に料理を装って、テーブルの向かい側に置いた。


「?」


 そして、また座って、自分の食事を摂る。


(え? これって……)


「食べていいってことですか?」


 返事はない。が、どう考えてもそういうことだろう。

 男の前にはすでに同じ料理があり、わざわざ向かいの席にもう一つの料理を置く意味がない。

 同居人がいるのかとも思ったが、その様子もない。


(ええい)


 思い切って、席に座る。

 男に反応はないが、料理に口をつけても文句はないようだ。

 料理は具だくさんのスープのようなものだった。

 角切りの野菜と肉が煮込まれていて、麦のようなものも浮いている。

 口に運ぶと、芯まで冷え切った身体に染み渡る。


「美味しい……」


 皿と口の間を匙が往復する。

 肉は塩漬けなのだろうか、塩気が強く、優しい味のスープによく合っている。


(そういえば、レストランの料理食べそこねちゃったな)


 そんなことを思ったが、このスープには命を救ってくれた価値がある。

 美味しいとかまずいとかそういうレベルの話ではなかった。

 あたしは生まれてはじめて、心の底から食べ物に感謝した。


 気づくと、涙がボロボロと溢れ出ていた。

 男は相変わらず反応がないが、もういっそその無関心さが心地よいくらいだった。

 男がたまにパンをナイフで削り取って口に運ぶのを見て、自分も真似してみる。

 パンは固くて、ヨーグルトのような酸味があった。

 不思議と美味しく感じた。

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