10
吹雪は去って、今日は良い天気だ。
本当なら、もうこの小屋を去るべきなのだろう。
でも、あたしはグズグズとそれができずにいた。
それというのも、小屋から逃げ出したあの日、男から渡された革鞄が片付けられてしまったからだ。
考えてみれば、毛皮のベストだって濡れたままにしておくと傷むだろう。
本当なら自分が片付けるべきだったのだが、気づくとベストは薪ストーブの近くで吊るしてメンテナンスが完了していた。
(皮製品なんて馴染みがなかったから仕方ない……なんていうのはただの言い訳だよね。野人とか言ってたくせに、あたし女子力がなさ過ぎだ)
鞄が片付けられているということは、地図やコインなども片付けられているわけで、出ていくにしてもお金がなければどうしようもないだろう。
男に「出ていくからお金ちょうだい」と言うのは流石にありえない。
それに。
(意外とここの生活も悪くないような気がしてきた)
(居心地がいいんだよね、静かだし、本もあるし)
暖かくて、食事に困らず、役立たずなりに仕事があって、勉強できる本もある。
男も害をなしたりはしない――というか、一切あたしのことを気にしない。
相変わらず会話がないことだけがストレスだった。
(親切ではあるんだけどね)
(まぁ、特別会話したいというわけでもない)
居心地が良いこの小屋と比べて、外は極寒の雪景色だ。
はじめは戸惑ったものの、見慣れるとなかなかに美しい風景ではある。
が、逃げ惑った時には本当に寒さに堪えたし、角のある狼なんかもいる。
こんな状況で旅立つのは、なかなか勇気がいる。
そうしたわけで、あたしはこの小屋に居座り続けている。
とはいえ、ただの居候で居続けるのは性分に合わなかった。
高校時代、あたしは陸上に夢中だった。
部活に打ち込むために協力してくれる両親や友人やコーチに感謝していた。
だから部活でも家でもできるだけの手伝いをしていた。
役立たずの恩知らずでいられるほど、あたしは恥知らずじゃないのだ。
(あの男の役に立とう)
そう思い立つと、早速行動を開始する。
自分ができることを探す。
多少無謀でも、間違えたってかまうものか。
どうせ間違えれば、男は黙ってやり直すだろうし、あたしはそれを見て正しいやり方を覚えればいい。
あの男に「どうすればいいですか」なんて質問したところで、返事があるとは思えない。
(学生時代、大人たちに「今どきの高校生は、言われないと何もできない」なんて言われて、反発していたじゃないか)
(やってやろうじゃない)
そうと決まれば体を動かそう。
まずは洗濯だ。男のやり方を何度か見たので、見様見真似でやってみる。
盥に水を張り、服や布を漬け、煉瓦みたいな石鹸でこする。
水は、風呂と同じ雨水や雪を貯めたもので、バカみたいに冷たい。
石鹸はあまり泡立たたないし、あと大きすぎてあたしの手に余る。男のように片手でスイスイというわけにはいかないので、両手を使う。
そのあとは手でゴシゴシもみ洗いするのだが、これも男と違って力がないので、諦めて足で踏むことにした。
あとはよくすすいで、紐にかけて干すだけだ。
たまに男に干し方を直されているようだが、その都度やりかたを覚ればいい。
食事の後の洗い物も、絶対に男には手を出させないと決めた。
食後すぐ、皿やカップを木灰を溶いた水に沈め、藁で編んだようなタワシでこする。
こんなものできれいになるのかとはじめは訝しく思ったが、脂もよく落ちるので関心した。
ただ、手の皮脂も持っていかれてあっという間に指先がガサつきはじめた。
ゴム手袋なんて気の利いたものがあるはずもないので、なるべく手早く洗うように心がける。
といってもたった2人前の食器だ。しかも基本的にワンディッシュで、茶を飲むためのカップは一日一回しか洗わないようだから、大した量ではない。
茶といえば、男がいつも啜っているのは紅茶やコーヒーではなく、ハーブティだった。
それも、お湯を注いだら枝付きのままハーブの枝を突っ込むだけというワイルドさ。
(紅茶かコーヒーだったら、美味しく淹れられるんだけどな)
などと思いながら、食器棚にあった赤い花柄のマグを勝手に借りて、真似して飲んで見た。
マグはコロンとした形状の可愛らしいデザインで、あまりに男のイメージに合わなくて、ちょっと笑ってしまった。
お茶は渋くてほのかに甘い、優しい味だった。
ただ、飲んでしばらくすると目が冴えて、なんだかちょっとクラクラする。
ちょうど、修学旅行先だった京都の茶道体験で、濃茶を頂いたあとの感覚と同じだった。
(これ、もしかして大量のカフェインを含んでいるのでは)
次からハーブの量に気をつけよう、と思って、翌日男のお茶を入れるためにハーブの缶を開けると、前日まで10cm くらいに切りそろえられていたハーブが、半分の5cm ほどに切りそろえられていた。
どうやら、子供が飲むには強すぎると判断されたらしい。
随分過保護なことだと思った。
一番上手く行かなかったのが料理だ。
男の手際を真似するような気はないが、そもそも道具がどれもこれも大ぶりなのだ。
包丁はどちらかというとただの巨大なナイフだし(みじん切りするのが大変に面倒だ)、俎板に至ってはただの丸太である。
男はナイフと布で器用にまな板を掃除するが、個人的には生肉を扱ったあとはちゃんと洗って熱湯消毒したい。
四苦八苦してまな板を流しに移動して洗って、熱湯をかけたりしていたが、翌日には小ぶりなまな板が用意されていた。
ところがこのまな板、ちょっとかわいらしい彫刻が施されていたりして、熱湯をかけるのははばかられたので、仕方なくしっかり水洗いして、彫刻部分にも汚れが溜まらないようにするなど、むしろ手間は増えた。
とりあえず、巨大な丸太よりはマシだと諦めよう。
一番の問題は、肉の扱いが難しいことだ。
日本にいた頃は、鶏肉、豚肉、牛肉くらいしか使ったことはないし、そもそもすぐに調理できる状態になっていた。少なくとも、骨付きのウサギの下半身をまるごと一匹分も捌くようなことは、普通に生活していたら一生ないだろう。
しかし、そんなことにはお構いなく、男はグロテスクなウサギ肉を捌いて、台所に立とうとする。
後ろからプレッシャーをかけるつもりで睨んでいたら、ウサギ肉をまな板の上に置いたままテーブルに向かい、お茶を淹れ始める。
「やれるならどうぞ」とでも言われたような気になり、こんちくしょう、やってやんよとナイフ片手に奮闘するが、当然うまく行かず、大きさがバラバラな肉塊がいくつかと、随分肉が残った状態の骨が残る。
(凹むわぁ)
それでもなんとか料理らしきものを作り、男の前に置くと、何ごともなかったように食べ始める。
料理の出来には一切興味がないようだ。
もちろん「旨い」の一言もなし。
何なんだ、この男は。
しかも、食べ終わるとすぐにキッチンに向かい、何かし始める。
(あたしはまだ食べてるんだから、ちょっとくらい待ってよ、洗い物も片付けもちゃんとするから)
そんなあたしの焦る気持ちなど無関係に、男は台所でナイフで作業している。
気になるので見ていると、肉が残ったウサギの骨をナイフで切り分けで、フライパンで焼き始める。
(もったいないからこそげて食うってこと?)
仕方なく黙ってみていると、ウサギ肉はこんがりを通り越して、だんだん黒っぽく焦げ始める。
そしていつか見た瓶から、酒を注ぐ。ジャーっといい音がして、なんとも言えない良い香りが立ち込める。
ボッと音がして、フライパンに火が付き、しばらく煮詰める。
それを鍋に移して水を注いで火にかけると、男はテーブルに戻り、またお茶をすすり始める。
(なるほど、出汁をとってるのか)
なんだか、徹底的に負けた気がする。
山賊か、せいぜいよく見積もっても軍人みたいな見た目のくせに、普段から狩りなんかして生活してるくせに、女子力(?)で負かされるなんて。
その日の晩は、出汁の使い方がわからず、結局男に料理を作らせてしまった。
びっくりするくらい美味しかった。
あたしはますます凹んだ。
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